「つじつま」って何ですか?
私は、学習塾経営で生計を立てています。教室が手狭なのもあって、すべて個別指導で教えています。だから、生徒のレベルはまちまちで、学校でいちばんという子もいれば、学習にいちじるしく困難をきたしている子もいます。
今日は、精神科医から学習障害があると診断されている中1の生徒を教えました。その子には、国語を教えています。
ちょうど学校で故事成語のプリントが配られたので、それを教材にして教えました。いくつかあった出題のうちのひとつに、″「矛盾」は、どういう故事から出来て、どういう意味で使われているか説明しなさい″というのがありました。
いっしょに、「盾」(たて)と「矛」(ほこ)をめぐるあの故事をなるべく簡潔にまとめる作業をしたうえで、私は「だから、『矛盾』の意味は、つじつまが合わないこと、あるいは、話の理屈が通っていないこと、となるよね」と教えたところ、その小柄な子がどうも納得がいかないという風情で小首をかしげているのです。この仕草は、教える側が手を差し伸べるべきタイミングが到来したことの、その子なりのサインなので、どうしたのか問いただしてみたところ、要するに、「つじつま」という言葉自体の意味がつかめずに、戸惑っているようなのです。
その生徒に対しては、だいたいの感じを掴ませて「はい、つぎ」という形のラフな指導は通用しないので、そこで踏みとどまって、納得のいくまで掘り下げるよりほかに術はありません。
正直に言いますが、私には、その時点で自力で「つじつま」それ自体の意味をかみくだいて教えるだけの知識の持ち合わせがありませんでした。それで、「ちょっと調べてみるね」と正直に言ってインターネットで調べてみたところ、「つじつま」=「辻褄」で、〈「辻」は裁縫で縫い目が十文字に合う所。「褄」は 着物の裾の左右が合う所〉とありました。着物を仕立てるときに、印をつけた「つじ」や「つま」がピッタリと合う事によって、美しく出来あがります。要するに、「つじつまが合わない」とは、「本来、ぴったりと合うべきところが合っていなくて美しくない様子・状態」という意味なのでした。そのニュアンスがしっかりと伝わるやいなや、その子の表情がぱっと明るくなって、「先生、分かりました」という言葉が返ってきました。
先日その生徒が、「超える」と「越える」の違いが分からないという意味の疑問を抱いたときも、私は、ヒヤリとしました(具体的なものを「こえる」ときは「越える」で、抽象的なものを「こえる」ときは「超える」ということのようです)。その子が分からないと言っている内容は、実のところ至極ごもっともというよりほかにないものばかりなのです。
その例から、学習障害者一般がどうのこうのというつもりはありませんが、その子に限って言えば、分かった気になってとりあえず先に進む年相応の「器用さ」が不足しているせいで、集団授業からずるずると遅れをとっているようなのです。そうして、その子が分からなくて右往左往しているポイントは、実は、教える側がほんとうにそのことをよく分かっているのかどうかが試される箇所でもあることが、私は少しずつ分かってきました。相手は生身の人間ですから、これからいろいろと出てくるのでしょうが、私自身その事実から逃げることなく真正面から取り組んでいくことができたらよいものだと思っています。
その子を美化するつもりはありませんが、当人は、自覚しないうちに、身体ごととても大きな問いの入口に立っているのではないでしょうか。それは、〈「わかる」とは本当はどういうことなのか。ほんとうのことが分からなくて右往左往していることは、わかったつもりになって安心していることよりも「わかっていない」、劣ったことなのか〉という問いです。その問いは、突き詰めれば〈「ほんとう」とは何なのか〉という問いにつながるでしょう。その小さな身体が、その大きな問いに知らないうちに押しつぶされてしまわないように、すこしでもサポートすることができれば、とは思っています。
私は、学習塾経営で生計を立てています。教室が手狭なのもあって、すべて個別指導で教えています。だから、生徒のレベルはまちまちで、学校でいちばんという子もいれば、学習にいちじるしく困難をきたしている子もいます。
今日は、精神科医から学習障害があると診断されている中1の生徒を教えました。その子には、国語を教えています。
ちょうど学校で故事成語のプリントが配られたので、それを教材にして教えました。いくつかあった出題のうちのひとつに、″「矛盾」は、どういう故事から出来て、どういう意味で使われているか説明しなさい″というのがありました。
いっしょに、「盾」(たて)と「矛」(ほこ)をめぐるあの故事をなるべく簡潔にまとめる作業をしたうえで、私は「だから、『矛盾』の意味は、つじつまが合わないこと、あるいは、話の理屈が通っていないこと、となるよね」と教えたところ、その小柄な子がどうも納得がいかないという風情で小首をかしげているのです。この仕草は、教える側が手を差し伸べるべきタイミングが到来したことの、その子なりのサインなので、どうしたのか問いただしてみたところ、要するに、「つじつま」という言葉自体の意味がつかめずに、戸惑っているようなのです。
その生徒に対しては、だいたいの感じを掴ませて「はい、つぎ」という形のラフな指導は通用しないので、そこで踏みとどまって、納得のいくまで掘り下げるよりほかに術はありません。
正直に言いますが、私には、その時点で自力で「つじつま」それ自体の意味をかみくだいて教えるだけの知識の持ち合わせがありませんでした。それで、「ちょっと調べてみるね」と正直に言ってインターネットで調べてみたところ、「つじつま」=「辻褄」で、〈「辻」は裁縫で縫い目が十文字に合う所。「褄」は 着物の裾の左右が合う所〉とありました。着物を仕立てるときに、印をつけた「つじ」や「つま」がピッタリと合う事によって、美しく出来あがります。要するに、「つじつまが合わない」とは、「本来、ぴったりと合うべきところが合っていなくて美しくない様子・状態」という意味なのでした。そのニュアンスがしっかりと伝わるやいなや、その子の表情がぱっと明るくなって、「先生、分かりました」という言葉が返ってきました。
先日その生徒が、「超える」と「越える」の違いが分からないという意味の疑問を抱いたときも、私は、ヒヤリとしました(具体的なものを「こえる」ときは「越える」で、抽象的なものを「こえる」ときは「超える」ということのようです)。その子が分からないと言っている内容は、実のところ至極ごもっともというよりほかにないものばかりなのです。
その例から、学習障害者一般がどうのこうのというつもりはありませんが、その子に限って言えば、分かった気になってとりあえず先に進む年相応の「器用さ」が不足しているせいで、集団授業からずるずると遅れをとっているようなのです。そうして、その子が分からなくて右往左往しているポイントは、実は、教える側がほんとうにそのことをよく分かっているのかどうかが試される箇所でもあることが、私は少しずつ分かってきました。相手は生身の人間ですから、これからいろいろと出てくるのでしょうが、私自身その事実から逃げることなく真正面から取り組んでいくことができたらよいものだと思っています。
その子を美化するつもりはありませんが、当人は、自覚しないうちに、身体ごととても大きな問いの入口に立っているのではないでしょうか。それは、〈「わかる」とは本当はどういうことなのか。ほんとうのことが分からなくて右往左往していることは、わかったつもりになって安心していることよりも「わかっていない」、劣ったことなのか〉という問いです。その問いは、突き詰めれば〈「ほんとう」とは何なのか〉という問いにつながるでしょう。その小さな身体が、その大きな問いに知らないうちに押しつぶされてしまわないように、すこしでもサポートすることができれば、とは思っています。
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