美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

三酔狂人テレビ倫理問答、「明日ママ」騒動をめぐりまして(その1) (由紀草一)

2014年03月04日 02時37分26秒 | 由紀草一


三酔狂人テレビ倫理問答、「明日ママ」騒動をめぐりまして(その1)

由紀草一

草一 ええ、一席設けさせていただきまして、肴には、ふさわしいかどうか、目下放映中のTVドラマ「明日ママ」(朝生、ではない、正式名称は「明日、ママがいない」)騒動について談論風発、もって一興としていただきたいと存じます。

まあ、「明日ママ」騒動と言っても知らない人はまるっきり知らない。ネットの一部で盛りがっただけ、そこでも、もう山は越えたというか、みんな飽きている感じになっております。いや土台、子役を並べたのがウリのテレビドラマなんて、いい大人の知ったこっちゃないよ、というのもわからぬではない。いや、むしろ、それが当然かも。

しかしながら、神は細部に宿る、こともありまする。品下れる時代の電気紙芝居と雖も、人類永遠の、重大事に些かも触れぬ、とは限らぬでしょう。ひとつ大まじめに、できるだけ立ち入った議論をしてみたい。

ただ、かく言う私、草一めも、毎週同じ時間にTVを見るという習慣を失って久しい。そこで、この分野にはわりあいとお詳しいお二人、道学先生(以下、「道学」)と文芸書生君(以下、「文芸」)をお招きして、大いに語っていただき、合間に愚見を披露させていただく、ということにいたしたい。

最初に整理のために、この騒動の摘要を記したものを掲げておきます。

・1月15日。日本テレビ水曜夜10時より、ドラマ「明日、ママがいない」放送開始。

・16日。国内で唯一の「赤ちゃんポスト」(これは俗称。親がなんらかの理由で育てられなくなった乳幼児を、匿名で、安全に預けられるようにした設備で、正式名称は決まっていない。海外には現在おそらく100以上あるらしい)である「こうのとりのゆりかご」を経営する熊本慈恵病院が抗議声明を出す。ドラマの内容が、児童養護施設やそこで暮らす子どもを傷つけ、また偏見を助長するものである、との内容。放送中止を要請するとともに、BPO(放送倫理・番組向上機構)にも審議を申し立てた。

・21日。全国児童養護施設協議会と全国里親会が厚生労働省で会見を行い、放送の打ち切りもしくは内容の改善と、児童養護施設関係者(入居している子どもが中心)への謝罪を求めた。前者(全養協)は放送前にドラマの内容を知らされ、昨年12月には既に日本テレビに内容変更を申し入れていたのに、無視されたのだと言う。これ等に対して日本テレビ側は、この時点では、「抗議は重く受け止める」としながらも、「ドラマを最後まで見ていただけるなら、制作の意図はわかっていただける」と、中止要請にも内容改変にも応じる気はなかった。

・29日。すでに22日の第2話放映時に、企業イメージが下がることを懸念したスポンサー8社のうち3社は自社のCMを流すことを拒否していたが、この日の第3話からは全社が自社のCMを流すことを拒否した。
【今度初めて知ったのだが、TVのスポンサーは番組ではなく、例えば「水曜夜の10時~11時」という枠を年間契約で買うものらしい。従って現時点では日本テレビに金銭的な損害は発生していない可能性もある。それでも8社のうちいくつかから今後契約を打ち切られたりしたら、大問題であろう。】
ドラマの途中に流れたのは日本テレビ自身の番宣とAC広告とスポットCM(通常番組と番組の間に流れるCM)のみ。やがてスポットを流すことも断られたらしく、第4話以降では前二者のみが流れた。おそらく、最終回までそのままであろう。

・30日、日本テレビと全国児童養護施設協議会(全養協)が会見した。この後2月1日までに慈恵病院や里親協会とも会見を行った。内容の変更も含めて検討し、2月4日までに全養協に文書で回答すると約束。

・2月3日。厚生労働大臣が衆議院予算委員会で、このドラマが全国の児童養護施設に入居中の子どもたちに与えた影響を調査する方針を表明。

・4日。日本テレビの文書回答。児童養護施設に関しては取材不足であったことを認め、子どもたちを傷つけたとしたらお詫びするとしたうえで、内容を検討することも約束した。ここでは日本テレビが折れた形だが、何しろ元がどうだったのかは部外者にはわからないから、4話以降にどのような変更が加えられたか、いや本当に変えられたのかどうかも、憶測の範囲でしかない。

さらに全養協はそれだけでは足りない、放送を通じて傷ついた養護施設の子供達に明確にお詫びしろ、と要求したが、日本テレビは現在までこれには応じていない。のみならず、2月16日放送の第6話で、三上博史演じる施設長が施設内の子供たちを諭す場面の言葉は、番組への批判者達に対する間接的な反論ではないか、とネット上でまた話題になった。「大人の中には、価値観が固定され、自分が受け入れられないものをすべて否定し、自分が正しいと、声を荒げて攻撃してくる者もいる」「上から目線でかわいそうだなんて思われることにはうんざりだろ? かわいそうだと思う奴こそかわいそうなんだ!」(大意)。等々。
 
草一 さて、そこで「明日ママ」の何が問題なのか。細かいところからいきます。あだ名の問題。

主役は、様々な理由で親と離れ、施設で暮らす子どもたちなんですが、これがお互いにあだ名で呼び合うんですな。そのあだ名というのが、「ポスト(赤ちゃんポストに預けられていたから)」「ドンキ(母親が鈍器で男を殴って捕まったから)」「ボンビ(びんぼーの逆さ読み)」「ロッカー(コインロッカーに捨てられたから)」「パチ(親がパチンコに夢中で真夏に密閉された部屋に放置されて死にかかったから)」などなど、とりようにいってはかなりキツイものが多い。

のみならず、前述のように「赤ちゃんポスト」と呼ばれる設備があるのは現在日本でただ一つだから、芦田愛菜演じる主人公が捨てられていた場所は自然に特定されてしまうことになる。これがまず慈恵病院のクレームであったようです。

道学 全く話にならんよ。慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」には賛否両論があるのは知っておる。まあ、批判は自由じゃろう、ちゃんとした批判ならな。しかし、こんな形で侮辱されるいわれはないはずじゃ。

草一 そこなんですがね、慈恵病院はあくまで病院であって、子どもを育てる場所ではありません。「こうのとりのゆりかご」に預けられた子どもは異常がなければ児童相談所の管轄となり、三歳までは乳児院、その後は児童養護施設に移されると、院長さんも言っています(「『赤ちゃんポスト』ができるまで〜慈恵病院・蓮田院長が語る」http://blogos.com/article/78275/)。「明日ママ」の主人公も、無理に現実につなげて話を作れば、その過程を経てドラマ中のグループホーム「コガモの家」に引きとられたことになります。「コガモの家」がどんなふうに描写されていようと、慈恵病院と同一視される余地はないはずですが。

道学 そんなもんわかるもんか。世の中にはいろんなやつもおる。それに、病院にすれば、こんな馬鹿なドラマと結びつけられただけでも不愉快、ということもあるじゃろ。しかし、それは彼らは言っておらん。問題なのは、ただでさえ恵まれない、不幸な子どもたちが、ひどい名前で呼ばれてしまうところなのじゃ。

文芸 その言い方がすでに飛躍があって、無用な誤解を生むように思うなあ。ひどいあだ名で「呼ばれる」と。その場合の「呼ぶ」主語は誰? さっきの草一つあんの発表にあったように、ドラマ中で子どもたちは「お互いに」そう呼び合ってるんだよ。

道学 それがどうした? 施設の子どもたちは、そうやってお互いに傷つけ合うもんだ、とでも言いたいのかね?

文芸 いや、だって、ドラマ中でも傷つけ合うためにそうしているわけではないもん。副主人公で鈴木梨央の演じるドンキの本名はマキで、それで呼ぶように要求すれば、「コガモの家」の子どもたちはそう呼ぶんだ。第1話の最後で、母に捨てられたことがはっきりした彼女は、「ドンキでいいよ」と宣言する。本人がいやがっているのに執拗にあだ名を言っていじめるという描写はないし、ましてそういうことを奨励していると取れる要素は皆無だ。

道学 するとこういうあだ名はなんのために使われているのかね?

文芸 それも第一話目で説明されている。あなた、ドラマをちゃんと見ないで批判してるんじゃない?

主人公のポストと呼ばれる少女は、赤ちゃんポストに入れられたとき、薄い紙切れがいっしょに入っていて、名前が書いてあった。それは彼女が親からもらった唯一のものだ。だからこそ、捨てる。親に捨てられたと思うと切な過ぎるから、自分から親を捨てたことにするのだ、と。それにしても「ポスト」を自分の名とすることはないだろう、と言うかも知れないが、わざわざ自分の傷を晒す悲しさは、「自分から親を捨てることにした」という強がりと響き合ってはいるんだ。

道学 それで問題はなくなるのかね? デリカシーがなさすぎるんじゃないか? 慈恵病院のHP http://jikei-hp.or.jp/tv_mama/ では、これについてこう言っておるぞ。

「虐待を受けた中には、トラウマ(心的外傷)の影響から脱却できないケースがあります。友達が冗談で投げかけた「ポスト」「ロッカー」「ドンキ」などの言葉も、虐待を受けた子どもの心には刃物のように突き刺さり、フラッシュバックの引き金になりかねません」

現に学校で同級生から「ポスト」と執拗に呼ばれていやな思いをした、などの施設の子の例が全養協には十五件報告されているようじゃないか。明らかに、このようなあだ名の使用は、害があるんじゃよ。

文芸 だからその場合の「呼んだ」主語は、実在の、学校の子どもだろ? 相手がいやがっているのに、しつこく呼び続けるような子なら、このドラマがなくても、きっと他の何かの機会にいじめたろうと思わないか? いずれにしろ、何か対策なり、指導が必要だったんだよ。

道学 ふん。直接被害ではなく、間接被害だからいいと言うのか? このドラマを見た後でパニックに陥り、「死にたい」と叫んで自傷行為に及んだ女児もいると言うではないか。水島宏明(http://www.huffingtonpost.jp/hiroaki-mizushima/post_6700_b_4629476.html)も、知り合いで「行き場のない人たちへの支援活動をしてる」女性からの手紙の引用で、番組を見たためにショックを受けてリストカットをした若者が紹介していた。これは間接的ではなく、直接ドラマが被害を与えた例であることは否定できんだろう?

草一 それについてはちょっと、高校教師としての自分の体験にひっかかることがあります。それこそ、守秘義務があるんで、そう詳しくは申し上げられませんが。

希望者を集めて、小規模な映画の上映会をやったことがあるんです。といってまあDVDを借りてきて皆で観賞するだけなんですが。そのとき、「おくりびと」を見て、パニックというほどではないけれど、気分を悪くした子がいました。これはしまった、「最近近親者のご不幸に立ち会われたとかですか?」と保護者に聞いたら、「いや、そんなことはないんですが、何しろ神経過敏な子で、何か刺激的なシーンがあると頭から離れなくなっちゃうことがあるんです。どうもご迷惑をかけました」と、逆に謝られてしまいました。

自分の不注意の言い訳をしたいわけじゃないですが、一般に、誰かを傷つけてやろうとする意図はなく、そうなるだろうという予測を越えている事態に関しては、責任は問えないんじゃないですか?

道学 今度のドラマの場合には、そういう言い訳はきかんぞ。特別な境遇に置かれていて、従って特別なケアが必要だとわかっている子どもをドラマの題材として取り上げておいて、しかし彼らへの配慮は知らん、というのでは、無責任としか言いようが無い。

草一 はあ、なるほど。ただ、申し上げた私のケースで、万が一大事になったりしたら、たぶん「おくりびと」の制作者ではなく、見せた私の責任と言うことになるでしょうね? で、ドラマのほうですと、見てショックを受けたのが子どもであれば、それを見せた、あるいは見るのを止められなかった職員の方、ですかな、これも責任を問われないわけにはいかないでしょう。少なくとも、「明日ママ」制作者の責任を追及するのであれば、ですよ。水島氏が例に挙げているのは、大人の方ですから、自己責任しかないことになるのか……?

いやあしかし、どうも責任責任と言い過ぎやしませんか? そんなに他者の責任を厳密に追及することは、こういう場合に一番大切なはずの、思いやりとか、優しさから外れてるんじゃないですか?

道学 泣き言を言うもんじゃない。重要なポジションにいる人がきちんと責任を果たさなかったら、それこそこの世は闇じゃ。

それで、このドラマ中の責任者、親から離れた子どもたちが暮らすグループホーム(いや、制度上のさまざまな条件を全く満たしていないので、こう呼ぶこと自体が問題なんじゃが)の施設長、これがまたなんとも言語道断なんじゃ。朝食前の子どもたちに、「お前達はペットショップの犬と同じだ。可愛いとか可哀想とか思ってもらえなかったら新しい飼い主も見つからないぞ。さあ、泣いてみせろ。泣いた者から食べていい」(大意)などと言う。これは暴言であり、立派な虐待である。これ以外にも彼は喧嘩を始めた主人公の頬を平手打ちにし、規則を破った子どもたちにバケツを持たせて立たせたり(今時!?)といった体罰もふるう。

いずれも、現実の児童養護施設の実態とはかけ離れており、ひいてはそこで働いている職員を侮辱するものである。また、かつて家庭で親から虐待を受けた子どもが、フラッシュバックを起こさせる危険性は、これが一番じゃ。

文芸 これも主語を明確にして言わねばならんと思うんだが、今言われた一連の行為は、ドラマの登場人物がした教育であるわけで。

道学 教育? 馬鹿なことを。子どもを犬扱いする教育なんてあるか?

文芸 いい教育だとは言わんよ。世の中には悪い教育だって現にあるでしょ。それから、普段はいい先生なんだが、あるときつい我を忘れて、教師として言ってはならんことを言ってしまったり、やってはいけないことをやってしまう場合だってあるじゃないか。いや、このドラマでは、施設長(三上博史)のキャラクターがしからしめているんだがね。彼は、大人の中では一番重要な登場人物なんだが、それでも、彼の言動が即ちドラマ全体のメッセージだとするわけにはいかん。

道学 曲がりくねった言いようだな。ここでは施設長は悪役で、悪人として出てきているんだから、悪いことを言い、悪い教育をするのは当たり前、と言いたいのかな?

文芸 いや、そうではなくて、彼はいわゆる悪役ではないのだが、含みあるキャラクターなんだよ(施設長の重い過去は第六話以後に明らかになる)。で、やってることはいわゆるスパルタ教育というやつで。これから先施設出身者というハンディを抱えて生きていかなくちゃならない子どもたちに、強さを身につけさせようと、敢えて冷たく突き放すのがあのせりふなわけなんだ。今はほとんど聞かれなくなったが、かつてはよく、「可愛い子には旅をさせろ」とか、「獅子は我が子を千尋の谷から突き落とす」とかいう成句が言われていたよね? その一種。

うまくできている、とは言わんよ。三上博史は二枚目で色気があり過ぎて、かつての寺内貫太郎(小林亜星、古いか?)のような「ガンコオヤジ」のカラっとしたユーモラスなイメージに欠ける。子どもたちからは「魔王」と呼ばれていて、一見怖いが、しかしよく見ると抜けているところもあって、根は優しくて、けっこう可愛いい、という今風の笑いを狙ったのかとも思う。私見では、それがうまく嵌まったとは言い難いけどね。

草一 寺内貫太郎にしろ、星一徹(「巨人の星」の主人公の父で、スパルタ教育の権化)にしろ、放送当時からしてもう実態がないパロディでしたからね。今やスパルタは、パロディの元ネタとしても成り立ち難くなっているかも知れませんね。子どもは大切に扱われるのが当たり前、という意識が、実態はともあれ、言論の世界ではすっかり行き渡った結果。

道学 なんだかよくわからんことを言い合っておるな。あれはユーモアで、いわば冗談だったと言いたいわけかな?

文芸 まあ、それに近いな。

道学 そうだとしたら、これほど重いテーマを扱うのに、不謹慎ではないかな? それに、君たちにもそんなにすんなり受け入れられるユーモアではないとしたら、視聴者からは違った、文字通りの意味で受け取られてしまっても仕方ないのではないかな?

文芸 うーん、まあ、悪ノリだったかも知れんなあ。しかしそんな、傷ついたり怒ったりするような場面ではないと思うが。少し詳しく説明させてもらおうか。

第一話目の最初、つまりドラマの冒頭では、ドンキの母親が、たぶん痴話喧嘩の挙句、交際中の男を灰皿(これが鈍器)で殴って、傷害罪で警察に連れて行かれる。残された九歳のドンキが、「コガモの家」に引き取られるんだが、そこで不気味な人物たちに次々に出会う。

と言うか、光の当て具合などで怖く見せている、それも、ホラー映画で使い古された手法をわざと陳腐にやって見せて、つまりこれ全体がパロディなんだ。最後にはドンキが二段ベットの下に寝かされると、上から、先輩(以前から「コガモの家」に引き取られていた、という意味で)のピア美(桜田ひより)がいきなり見下ろす、長い髪が下にバサっと垂れてね。ここで照明が明るくなって、女子部屋に前からいた三人による、施設や登場人物たちの説明場面になる。例のあだ名も、この時言われる。それでその次が、翌朝の、魔王の「暴言」の場になる。

つまり、ドラマを服に譬えると、コメディ・タッチが、飾りのように全体に散りばめられていて、そこから、親と一緒に暮らせない少女たちの深刻な話が、地の布として見えてくる、という構成なんだ。魔王の言動は、冗談ではないけれど、コメディ的に、大仰な人物が大げさに振舞う、それが見透かされる分、言動の刺々しさは鈍くなる、少なくとも作った側はそのつもりだったんじゃないか。

草一 深刻な話にも笑いを混ぜる。この二十年ぐらいかな、芝居や映画でもそれが当たり前になっているんですよ。それから、例えば日本テレビだと、他局の、「家政婦は見た!」という番組の、題名をパロった、「家政婦のミタ」なんてドラマが大ヒットしたりしまして。「明日ママ」にも三田村さんという名前の家政婦さんが一話だけ出てくるし、もうパロディは当たり前になっちゃっていて、魔王の大仰のキャラクターも、その雰囲気の中で作られているわけでして。

道学 あのなあ、どう説明されても、ともかく、ワシにはユーモアとは取れなかったし、そういう人は他にもたくさんいるぞ。我々が感じた不快感、これはどうしてくれるのかね?

文芸 それはもう、不愉快なら見ないでください、と言うしかないなあ。

道学 それで済むか? もう見てしまった場合のイヤな気分は? 社会全体に、悪影響が出る可能性は、どう考える?

草一  いやはや、「責任」問題がそこまで追及されるとは……。

これもテレビだからですよね。「明日ママ」の視聴率は第六話から11パーセント台で、最終的には40パーセントに達した「家政婦のミタ」に比べたら大したことない、とも言われますが、でも、一千万人以上の人が見ているということですよね。本や映画の世界では、まずめったにあることじゃない。

本を読むためには、買うなり、図書館で借りるとかしなくちゃならない。映画を観るためには、映画館へ行くか、ビデオを借りるとかしなくちゃいけない。一応の金とか手間はかかって、それを厭わない人だけが観賞するもんですが、TVは、各家庭にほぼ一台づつあって、リモコン・スイッチで電源を入れれば誰でもすぐに目に入る。「勝手に目に入ってくる」感覚に近いものがある。

それでも、電源を切ったり、他局にチャンネルを変えたりするぐらいは、これまた誰でもできるはずなんだから、「いやなものは見ない権利」とか、「子どもに見せるのは不適切だと思ったら見せない、養育上の責任」もあるんじゃないか、と思えますね。一方的にテレビ局側ばかり責められるものか、と。

一方、もうこうなったら、TVでは、変に凝ったドラマなんて作らずに、ニュースを中心にして、せいぜい毒のない短いコメディぐらい作って流す(それでも傷つく人が出る可能性は皆無ではないけけど)、となっても、個人的にはそんなに痛痒はありませんでね。

いやあ、軽く終える予定だったのに、思わず長い時間がかかってしまったなあ。よければ次回、別の角度から今度出てきた問題を考えてみましょう。

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