編集者より:当論考には、由紀草一氏の、「舛添騒動」をめぐっての個性的で鋭い人間観察が感じられます。私は、氏の知的なユーモアセンスを酷愛する者です。当騒動をめぐっての私見をいささか述べれば、あの騒動の渦中の極点で、舛添氏は、もはや悪いことをする可能性ゼロの「絶対安全知事」になることを余儀なくされました。だから都民は、その弱みを握りしめて、彼を都知事として馬車馬のごとくこき使えばいいのではないか。それが私の抱いた感想です。為政者にどのような動機があろうとも、結果として善政がもたらされれば、なんでもよろしかろう、と思うのですね。ところで、由紀氏が当論考をお書きになった日付と発表されたそれとに多少の齟齬があるとお感じになった鋭敏な読み手がいらっしゃると思います。それは、ひとえに、忙しさにかまけてアップの時期を逸した私の責任です。
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4月末から続いてきた舛添要一主演の喜劇が、6月15日の辞任表明によってひとまず閉幕しました(今ニュースで見たら、今日が最後の登庁日だったそうで)。第二幕があるのかどうか、今のところ不明。
今のところで明らかなのは、2か月近くの間、TVをつければ必ず報道という名の舞台中継をやっていたので、みなさんさぞかし食傷しておられるであろうこと。もう「舛」の字を見ただけで読む気をなくすかも、ですが、多少変わったことを述べるつもりですので、よろしくお付き合い願います。
喜劇、と申しましたが、これはどういう喜劇であったのか。少しだけ、なけなしのウンチクを披歴しましょう。たいへん古典的な、わかりやすいものでした。
例えばイタリアに、16世紀以来続いているコメディア・デラルテというのがあります。大部分が仮面をかぶった、ある類型を示す登場人物(キャラクター)が、全体としては同じようなエピソードを、即興で、手を変え品を変え道具立てを変えながら、演じるのです。
代表的なキャラクターには次のようなものがあります。
①パンタローネ。日本でいう因業おやじ。金持ちで、ケチでスケベで、疑い深い。金の力で若い娘をモノにしようとして、機転も悪知恵も利く道化アレルッキーノ(フランスではアルルカン、イギリスではハーレクインと呼ばれる)たちに妨害されるのが、最も多いパターン。
②カピターノ。英語のキャプテン。元軍人で、かつての戦場での手柄を自慢するが、それはホラ話であって、実際は臆病者。
③ドットーレ。英語のドクター。医者か学者で、難しげなことをもっともらしく言うが、中身はまるでない。
これでだいたいわかるでしょうが、たいしたことはないのに、金や地位の力を借りて威張りくさっている輩の裏面を暴き、笑いものにするのが、コメディア・デラルテ、だけではなく喜劇の、一典型なんです。本当の悪人は出てこないですよ。それはそれで「たいしたこと」のある人物ですからね。
なぜこういう喜劇がわかりやすいのか。上記のようなキャラクーは、いつでもどこでも、見つけやすいからです。虚心に自分を反省できる人なら、自分にも多少はそういうところがあるな、と認めざるを得なくなるような、ありふれた人間的な弱点が、極端に誇張されて、人物の姿で出てくるからです。
観客は、「俺はあれよりはマシだが、知り合いの誰それは、まあこういう奴だよな」なんて優越感を抱きつつ、笑い転げる。その知り合いの誰それから見たら、自分こそそうで、笑われている可能性は、棚に上げることができる。それは喜劇が成立するためには必須の、大事な人間の性質です。
それで舛添さん。わかりやすいですなあ。全くもって、たいしたことがない。
龍宮城スパホテル三日月に家族旅行に行って、会議をしたという名目で、政治資金から宿泊費を出した。一泊二十七万円? でしたっけ? もちろん私はそんな高いホテルに泊まったことはないし、これからもないでしょうが、舛添なら、ポケットマネーからわけなく出せたでしょうに。
でも、できるだけ自分の金は使いたくない、と。まあそういう人、いますね、世間に。むしろ、お金持ちって、そういう人が多いかも。
これが都議会で追及されると、その様子がTVのワイドショーで映され、取材結果が報告される。誰と会議をしたって? 出版社社長? 桝添の知人の中から探すと、それらしい人物は、去年死んでいて、今年行けたはずはない……云々で、要するにこの話は怪しい、そんな話をする桝添も怪しい、という場の雰囲気が盛り上がる。
TV内の場、つまりスタジオには、コメンテーターとかいう道化役がいて、「呆れたね」とか「こんな人が都知事だなんて、恥ずかしいね」とか「許せない!」とか、アレルッキーノに比べたらはるかに気の利かない、誰でもできる反応をして見せるんですが、雰囲気が雰囲気のまま流れてしまわないように、アクセントをつけて、観客に笑う機会を与えるのも、ツッコミの大事な役割なんで、それはまあ果たしていたようです。
その他、勉強会のために出したという玉子サンドの代金一万八千円の、疑惑の領収書。政治資金で買った本に「クレヨンしんちゃん」があった(息子が好きなんで、私もビデオを買いました)。家族の外食にも使ったようだ、回転寿司で……。
慎ましいもんじゃないか、例えば前都知事の、不正受給の疑いがある金は五千万円。それに比べたら、むしろオレの清廉さが証明されたと言ってもいいぐらいだ、といっそ居直ったら、と言いたくなりますが、そんなふうにとった人はいなかった。とにかくセコい、ケチだ、小ズルい、意地汚い、という声だけが大きくなった。
一度ついたこのイメージを払拭することは、たぶんできなかったでしょう。それにしても、舛添の打った手はまずかった。「第三者の厳しい眼」として、法曹界では有名な「マムシの善三」氏を担ぎ出し、政治資金の使い方には、「不適切なところもあったが、違法ではない」と言わせた。
言葉以上に、この人のドットーレぶり、つまり、「お前ら、法律を知らんだろ」と言うが如き尊大な態度が反発を招き、それがそのまま舛添に返された。「確かに法は犯していないかも知れない、少なくとも確証はない。しかし、法律をギリギリのところですり抜けたとすれば、それこそ、人間性が悪い何よりの証拠だ。気持ち悪い、もう引っ込んでくれ」と。
喜劇の効用には他に、社会的な強者を引きずり下ろす快感もあります。偉そうな、もっともらしい様子の奴だって、上記の人間的な弱点を免れているわけはない。むしろ金や権力で、邪(よこしま)とされる欲望を満たして、しかもそれを隠しているのかも知れない。いや、そうに違いない。それが暴かれさえすれば、彼らも、自分たちと同じような弱い立場にまで落ちるだろう。ニーチェが言ったルサンチマン(嫉妬、怨恨)が、ちょっとは晴れる機会を舞台上で見るのは、やっぱり楽しい。
まして、TVというメディアのおかげで、同趣旨の「現実」を、家にいてビールを飲みながら見物できるのです。まあ、めったに見逃せませんわな。
冗談じゃない、俺は舛添のおかげで本当に不快な思いをしたんだ、と言って怒る方、ちょっと待ってください。我々庶民には、「みっともない」と言われる程度のリスクもなしに、怒って、おまけにそれを家人や仲間と共有して盛り上がる機会は、そんなにありませんよね? そんな「機会」自体に需要があるから、TVなどのメディアはそうなりそうなニュースを多く供給するんです。皆が不愉快な思いをするだけなら、連日ワイドショーで伝えたりはしませんよ。
舛添劇場は、「皆が同じ不快を共有する」という、なかなかに得難い娯楽を提供したんで、これだけヒットした。これは否定し難い事実ではないですか?
もう一つ面白いのは、舛添自らが、大量のルサンチマンの所有者であったらしく見えるところです。
九州八幡の、あまり裕福でない家庭に生まれ育ち、勉強でのし上がった。東大教養学部の(政治学)助教授になった昭和60年代頃から、TVの討論番組に、保守派の論客としてしばしば登場するようになる。
私も当時たびたび彼をブラウン管上で見ましたが、ただ一度だけ、発言に感心した覚えがあります。あれはいつ頃かなあ、田原総一朗司会の「朝まで生テレビ」だったでしょう。こんなことを言ったんです。
「僕は外国で、何度も危ない目に遭ったが、そういうときはいつも金で切り抜けてきた」
「何度も」の部分は、カピターノばりのホラかも知れない。しかし、結局頼りになるのは金だ、と、その頃も今も、TVなどではなかなか言えない「本音」を言って、しかも説得力があった。金で苦労したことがない人間には、この迫力は出せないんじゃないかと、たぶん雑誌で読んでこの人の出自をある程度知っていた私は、思ったのでした。
そのうち、東大の体質を批判して、政治家に転身しました。これまでの成功体験で自信をつけ、恵まれなかった幼少年期の補償のために、さらなる権力を求めた結果でしょう。
それはいいんですが、これもしばしば取り上げられたように、この頃から、他の政治家の、金に対する汚さ、だらしなさを批判するようになりました。 「大臣になったんだからファーストクラスで海外というさもしい根性が気にくわない」とかね。彼自身のルサンチマンが言わせたのか、それとも、こう言えば権力者にルサンチマンを抱く庶民にウケる、と思ったのか。
それかあらぬか、この当時舛添人気は高く、確か、何かのアンケートで、「総理にしたい人物」No.1になったこともありましたでしょう。偉そうな奴らをこき下ろす、アレルッキーノ的な魅力が、いくらかは感じられたんでしょうね。
でも、アレルッキーノ役者が、年を取ると、パンタローネやドットーレをやるようになる、というのはよくある話のようです。現実でもそうか? 少なくとも、そうなりがちであることには、なかなか想像力が及ばない。それもまた、前に述べた「人間の性質」の一部なんでしょう。
私としては、世界有数の大都市の首長が、ファーストクラスに乗るなんて、当たり前じゃないか、と思うんですが。こういうのは「おおらか」じゃなくて、「だらしない」と言うんでしょうかね。ま、私は千葉県民で、東京都に住民税を払っておりませんので、無責任な放言だと思われてもいいです。
因みに、実は舛添以上だったんじゃないか、と一部で言われている石原慎太郎は、フジテレビの「プライム・ニュース」に出たとき、ファーストクラスや一流ホテルの問題について、「失礼ですが、あなたの都知事時代から始まったんじゃないか、と言う人もいます」と訊かれると、「あれは役人が全部決めるんで、俺自身が指示したことじゃない」と、舛添そっくりの答えをしてました。政治家(石原の場合は、元、ですが)になると、「そんなケチ臭いことを言うな」と一蹴するのは、石原といえどもでもできない、ということですね。私にはとてもつとまらないな、と改めて実感しました。
それだけに、さんざんにコキおろされながら、なかなか「辞任する」と言わない彼の「打たれ強さ」には、正直、感心しました。ここはなかなかどうして、たいしたもんじゃないかな、と。どうせなら、往生際を徹底的に悪くして、不信任案が可決された時点で都議会を解散したら面白いのに、とそれこそ無責任に思っておりましたが、やっぱりこの人、日本の憲政史上に残るほどの大悪人になる器量はなかった。今の政治家には、それは期待できないことの一つなのでしょうね。
最後に、次の都知事についてですが。
今回を教訓にするなら、自分自身ルサンチマンが強いか、あるいは庶民のルサンチマンを利用することに長けている人は避けたほうがいいんじゃないですかね。いつも馬脚を出して、笑いもので終わってくれるとは限りませんよ。こういう人は、タイプ的には、ヒトラー型独裁者に近いように思いますんで。
都民ではない私は、そうご忠告申し上げるだけです。より詳しくは、小浜逸郎氏の、下記のブログ記事をご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/0ced7935bbc25e77b979dc7856739432
しかし、何か、あまりの大問題をヌッと出てきような気がするのは、私が勝手にセンシティヴになっているだけですか?
笑いは、いい気なものであっても、根本的に批評性があり、対象と距離を保った冷やかさと、いわゆる「上から目線」の傲慢さが感じられる。今回の拙稿にも、そのへんで、「なんかムカつく」という人は、きっといるでしょう。
対して怒りは「主体的」ですね。これに限らず、「恐れ」でも「悲しみ」でも、いわゆるネガティヴな感情は、自己保存本能と強く結びついているからでしょう、切実さが違う。その「切実」自体が笑いものにされたようだと、それはムカつくでしょう。ここでの怒りは二乗されるわけで。最初の怒りの対象(こんどの場合は、舛添)より、もっと憎まれたりする。
自分自身や身内が理不尽なひどい目に合ったりしたら、それは笑ってはいられない。けれど、ここのところを逆にして、怒ったり悲しんだりして見せさえすれば、真剣に、「我がこと」として、その問題を捉えてる証拠だ、などと思うとしたら、それは大いなる錯覚ですね。
皆がそれを弁えることができたら、世の中はけっこう住みやすくなると思うんですが、それがなかなか。
これ以上が本当に大問題になってしまいそうなので、これくらいにします。
今後ともよろしく。
便乗して私も少し理屈をこねると、なぜそのような違いが現われるのかといえば、笑いは自分をも含めて物事を客体化するが、怒りは物事を自分の中にため込んで主体化してしまう、ということになりましょうか。
これはまた、文学(芸)と政治という息苦しい問題をも喚起させる方向に人々の連想を誘いますね。人がだれも笑いを日常化できるようになる時、政治という厄介ごとは消滅するでしょう。
ご厚意のこもったコメント、ありがとうございます。とても力づけられます。
喜劇と全体主義の関係につきましては、重大すぎるし、難しいので、御ブログ記事の方へゲタを預けてしまったのですが、敢えて簡単に申しますと。
ヒトラーは道化でした。これを視覚化して暴いてくれたのがチャーリー・チャプリンの名画「独裁者」です。
この映画は最後の演説があまりにも、(凡庸な意味で)見事で、観客の印象に残るので、かえって上のことが忘れられがちになるのだと思います。
まるで不条理演劇のように、言葉が意味を失ってかん高い調子だけが残る(独裁者を演じた時の)演説、風船の地球儀を使ったもの憂いダンス、これらのパフォーマンスほど、「地獄の道化師」(江戸川乱歩。ちょっと通俗的すぎるのがナンですけど)というべきヒトラーの怖さを、実感させてくれたものはありませんでした。
理屈を使うと、ルサンチマンの鏡でありレンズでもある道化が、人々のルサンチマンを吸収した上で、それを笑いの方向に導けば喜劇、怒りの方向にもっていった場合には、全体主義が生まれる、というようなことではないでしょうか。
まあ日本には、それほど怪物じみた道化はたぶん生まれない、何より、おそらく、西欧に比べてルサンチマンがさほど強くないから、とは思いますが、油断は禁物ですね。
効果の大小にかかわらず、こういう危険に対して警鐘を鳴らし続けるのが、言説者の重要な役割ではないか、と愚考する次第です。
部外者(文学者と言っても似たようなものですが)からは、喜劇(かなり安っぽい)としか見えないぞ、という指摘は大事ですね。
問題は、アレルッキーノ役を果たさなくてはならないはずのテレビマン、テレビウーマンたちが、その自覚がまったくなくて、マス・ヒステリアに陥って大真面目に舛添いじめに熱中していた成り行きです。
小生も拙ブログでこの現象に触れましたが、そのメイン・
トーンは、「この人民裁判的空気は全体主義がまかり通るための露払いであって、終始不愉快であった」というものでした。アレルッキーノ役(諷刺的なセンス)を演じられないマスコミのお粗末さが、たぶん小生を不快にしたのでしょう。もっとも由紀さん的スタンスからすれば、こちらも少しまじめすぎたかもしれませんが。
小生の記事まで紹介していただいて、ありがとうございます。