*ブログ主人より。以下の論考は、小浜逸郎氏ブログ「ことばの闘い」から転載したものです。現代における最大のマジック・ワードである「自由・平等・人権・民主主義」を、ここまで鋭利な思想のメスでバランスよくきちんと腑分けした議論を、私はほかに知りません。私が知っているのは、これらの言葉を葵の印籠のようなものとして後生大事に扱っている議論か、それに対するカウンターやアンチ・テーゼの議論のいずれかだけです。
*****
「自由・平等・人権・民主主義」とハサミは使いよう
小浜逸郎
最近、日本や世界の政治にかかわるニュースを見たり聞いたり読んだりしていると、自由・平等・人権・民主主義といった言葉が、とても大安売りで使われていますね。
これらの言葉は、現代の自由主義諸国(おっと、私もたちまち使ってしまいました)では、「普遍的価値観」と呼ばれて、たいへん重宝されています。
普遍的価値観とはまた、大ぶろしきを広げたものですが、こうした言葉を「普遍的」と呼ぶことそのものが、アメリカを中心とした自由主義諸国(おっと、また)の戦略なのですね。現代社会では、みんながこれらの言葉には弱いので、看板として大いに使えると感じてしまうのでしょう。「朝鮮民主主義人民共和国」なんて、実態とまるで合わないスゴイ国名をつけている国さえあります。
ところで今の日本の言論界でこれらの言葉が使用される場合、それらはいつも両義性、両価性を帯びています。両義性、両価性――ambiguity――つまり「二つ以上の意味や価値を持っているようにとれること」。
ですから私たちは、これらの言葉を聞きとるときには、それがどういう文脈で使用されているのかに注意しなくてはなりません。また私たち自身がこれらの言葉を使うときには、それをどういう価値観のもとに使っているのかに自覚的でなくてはなりません。前者に関しては、まあ、それほど誤解の余地はないと言えますが、特に後者の場合、その人の思想がもろに現れます。何の疑いもなく肯定的に使っているのか、それともこれらの言葉の価値に対して否定的に使っているのか、はたまた懐疑的に、アイロニカルに使っているのか、方便として使っているのか等々。
たとえば「自由」。
日本国憲法で謳われているさまざまな自由は、何人も奴隷的拘束や思想弾圧を受けてはならないという規定ですから、これは原則的に保障されるべき大切な規定です。しかし、責任の伴わない無限定の自由が保障されているかといえば、それは違いますね。「個人の自由」は、野放図に許容されるとしばしば他人を侵害し、公益に抵触します。
ひところ「自由教育」なる理念のもとに、子どもへの指導・管理・強制をほとんどしない教育機関がはやりましたが、これなどはとんでもない倒錯です。社会的良識が発達していず、責任を免除されている未熟な子どもに自由を許したら、授業を聴かない自由、教室で漫画を読む自由、おしゃべりしたり飲食したり携帯をかけたりする自由、先生に逆らう自由、学校に行かない自由なども認めることになり、教育は成り立ちません。じっさいにこんなことを提唱していたバカ論者がいたのです。
また先ごろ、特定秘密保護法案の国会通過を巡って、一部のマスコミが「知る権利・報道の自由を侵すものだ」というネガティブキャンペーンを大々的に張りましたが、これなども、国民の安全を保障するための国家機密をみだりに漏らしてはならないという当たり前の趣旨を理解しない、まことに身勝手な主張というべきでしょう。この法律が施行されても、別に報道の自由は侵害などされず、これまでどおり保障されます。一部マスコミはナイーブな反権力感情だけを盾にして、自分たちが情報をリークしてもらえなくなるのではないかという恐れから、無関係な国民を巻き込んで煽動しているのですが、国民はこんな反安倍政権キャンペーンにたぶらかされてはなりません。
なおこの問題については、当ブログに拙論を掲載しましたので、ご関心のある方はどうぞ。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/13d043deb6f1e242766bf85f2c67d388
また1月10日発売の月刊誌『Voice』2月号にも拙稿を寄せています。
さらにいま、TPP交渉の年内妥結の可否が云々されています。もともとこのTPPというのは、国境を超えて市場を自由に開放せよというアメリカの一部グローバル企業や投資家の要求を通そうとするもので、これが認められると、それぞれの国家主権やその地域に根差した慣習や文化に破壊的な影響を与えることは明らかです。
この新自由主義のグローバリズム攻勢については、東谷暁氏、中野剛志氏、三橋貴明氏、柴山桂太氏、施光恒氏、関岡英之氏ら、多くの優れた論客が早い時期から何度も国益に反するものとして警鐘を打ち鳴らしてきました。それにもかかわらず、安倍政権は日米同盟という外交・軍事上の「ご縁」をそのまま経済関係にまで延長して、平然と対米従属を受け入れようとしています。ここでは私は、安倍政権を批判することになります。
TPPのような経済的条約における「自由」理念をそのまま信じることは、弱肉強食的な競争至上主義を肯定することであり、日本の国益にとって有害であるのみならず、途上国、新興国にとっても経済的な主権を強国の富裕勢力に奪われることを意味します。
しかし逆に、北朝鮮や中国のように、自由な言論も政治活動も許されず、政府に対する批判的言動が直ちに弾圧され取り締まられ粛清されるような独裁国家に対しては、自由の価値を叫び続けることに大きな意義があります。これはおそらく、その国に住んでみればすぐに実感できることで、逆に日本がいかに思想・言論・表現・信教などの自由が保障された恵まれた国であるかもわかろうというものです。恵まれすぎていて多様な見解・主張が乱れ飛び、結局は「暖簾に腕押し」になってしまっているわけですが。
以上のように、「自由」とは、それだけとしては単なる抽象的な言葉にすぎず、どういう具体的文脈の中で使われるのかという背景と不可分のかたちでその価値が測られるのでなくてはなりません。
同じことは、「平等」や「人権」という言葉にも当てはまります。
たとえば、金融資本の自由取引が行き過ぎて世界経済を混乱させ、失業率が高まって社会格差が極端に開いてしまうような事態が起きた時には(現にいま世界的にそうなっているのですが)、公共体が適切に介入し、「平等」理念に基づいて雇用創出や所得の再配分を実現させる政策が必要とされます。現代のような複雑な社会システムの下では、どのように介入するかがまさに問題なのですが。
またアメリカにおける黒人の公民権獲得のために闘ったキング牧師や、先ごろ亡くなった南アのマンデラ氏のように、不当な人種差別を受けている現状を打破するために、「平等」を強く訴えることはぜひとも必要です。
しかし日本の戦後教育の世界では、悪平等主義がはびこってきました。機会の平等を保障することは、近代国家の教育政策として当然のことです。ところが、いつしかそれが結果の平等をも実現しようという非現実的な理想に置き換えられました。個々の子どもには驚くべき能力格差があるという当たり前の事実を認めることがタブー視されるようになったのです。東京都の学校群制度、偏差値追放、ゆとり教育、大学定員の供給過剰、面接重視を目指す昨今の入試改革案など、みなこの流れです。いま、これらのどこに問題があるかについては詳説しませんが、戦後教育における「改革」なるものがことごとく失敗してきたことは確かなところです。そうしてその失敗の元凶が、平等主義イデオロギーの支配にこそあるということも。
さらに、最近の「一票の格差」についての違憲判決や、「婚外子相続分が嫡出子の二分の一」についての違憲判決のように、その背景にどういう具体的状況があるかということを見ない形式的平等主義は、まことに困ったものです。
これらについても、当ブログで論じたことがありますので、ご関心のある方は、以下のURLへどうぞ。
一票の格差問題:http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/130814b7041b2847b8be69d676d9d488
婚外子相続問題:http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/a77b97ae04df91d61a6febf3c0bc3dcb
日本では「人権派」というと、憲法11条をタテにとって、何でも自分たちの特殊な要求と主張を通そうとする種族を意味します。要するにサヨクあるいは「地球市民」派ですね。死刑廃止論者、人権擁護法案提唱者、「子どもの人権」論者、ジェンダーフリー論者などがこれに当たります。この人たちは、国家というものの存在意義や歴史的意味がわかっていないために、「正義」のよりどころをただひたすら反国家的な感情に求めます。公共精神のかけらもない幼稚な人たちですが、そういう幼稚な議論がけっこう通ってしまうところが問題です。
しかし日本国憲法というものが現実に存在して、そのなかで「基本的人権」の規定が謳われている以上、時に応じてこの規定およびその土台になっている人権思想を利用する必要が生じてくるのも事実です。たとえば、拉致被害者の生命や自由が無視されてきた状況に対して、私たち日本国民は、「人権の大切さ」という旗印を大いに掲げる必要があるでしょう。
私事で恐縮ですが、私はあるご縁から、明らかに冤罪と思われる事件に少しばかり関わった経験があります。これは、その当事者の職を不当に奪う行政措置がなされたことに対する抗議文書を書くという形をとったのですが、こういう場合、憲法を頂点とする法体系に則って訴訟に立ち向かわなくてはなりませんので、当然、その行政措置は憲法違反(つまり人権侵害)であるという論陣を張ることになります。
また、ノーベル平和賞を獲得した中国の人権活動家・劉暁波(りゅう・ぎょうは)氏のように、過酷な弾圧のなかで闘ってきた人の思想的よりどころが、「人権」という概念の価値に依っていることは明らかです。そうして、それは正しいことだと思います。
このように、「人権」という概念をひたすらお札のように絶対化して拡張解釈するのもはき違えだし、いっぽう、圧政や弾圧や不当な措置が現にあるところでは、この概念を「普遍的価値」として掲げていくことも有効な意味をもつと考えられます。要するにそれは政治状況、社会状況に応じて使い分けるべき概念だということになるでしょう。
最後に、最も濫用されている「民主主義」という言葉について触れましょう。自分の立場を正当化し敵対する立場を論難するために、この言葉を盾にしない政治言論は、右から左までほとんどないといってよいくらいです。つまり「民主主義」は現代社会では神聖な葵の印籠と化しているわけですが、しかしそうなると、インフレと同じで、その言葉の価値がどんどん下がってしまいます。どの体制、どの思想が「本当の民主主義」に値するか、まあ、そういう旗の奪い合い、正統争いをやっている光景ですね。
もちろん、この事態に深い疑いを持ち、早くから「民主主義国家」「民主政治」「民主憲法」などの概念を原理的なレベルで批判している数少ない人たちもいます。私はこの人たちを尊敬しています。民主主義はいま、その内的な必然からして、衆愚政治(いわゆるポピュリズム)に堕していく傾向が大いに顕在化しています。そうした状況のなかでは、こうした思想的営みはぜひ必要なことです。というのもこの傾向は、時々の社会経済的条件いかんによって、その急激な危機克服の手段としての全体主義へ結びついていくことが歴史的にも証明されているからです。
しかしながら、他方では、「自由」や「人権」と同じように、相手のやっていることの不当性を指摘するためにこの言葉を葵の印籠として用いざるを得ない局面が多々あることも事実です。繰り返しますが、北朝鮮王朝政府や中共独裁政府の勝手な振る舞いに対しては、これらの体制そのものが民の福利にまったく寄与していないという抗議の意味合いを込めて、「民主化せよ、さもなくば体制転覆を覚悟せよ」と訴えることが必要ですし有効でもあります。
たまたま新聞で目にしましたが、ロシアのプーチン政権も情報統制においてずいぶん強硬手段をとっているようです。報道機関として定評のあった国営ロシア通信社RIAノーボスチの解体を一方的に決めたというのです(産経新聞12月19日付)。同日付の北大名誉教授・木村汎氏の論説によれば、ロシアでジャーナリストが客観的な報道に従事するのは命がけで、過去20年間で341人の記者が殺害され、いまだに一人の犯人も捕まっていないそうです。
こういうお国柄(ツァーリズム時代、社会主義時代を通しての伝統)の政権に対しては、報道の自由や、より開かれた民主主義体制の実現を訴えることは大いに意義があります。
また生活の場面でも、エコ・イデオロギー、効率主義イデオロギー、過剰健康主義イデオロギー、「被差別者」特権イデオロギーなどが、当事者の生活感覚を無視して有無を言わせずじわじわと攻め寄せてくるとき、もっと民主的な議論が必要だろう、と感じることがしばしばあるのではないでしょうか。
さらに、この恐ろしく多様化した大衆社会のなかで、国論を少しでも統一させてまともな政治を行なおうとすれば、だれもが最大限民主的な手続きを取らざるを得ません。政策を一つ一つ実行するにあたっても、世論のマジョリティがどの辺にあるかということに何の配慮もしなくてよいとはとても言えないでしょう。権力がなければ政策を実現することはできず、近代民主主義国家の権力は、世論によってこそ支えられるという点を無視できないからです。
民主主義(デモクラシー)というのはデモス(民衆)自身による民衆の支配・統治を意味しますが、もとよりこれは専制政治(オートクラシー)・貴族政治(アリストクラシー)との関係において成り立つ、統治形態の形式的な概念です。別にはじめから葵の印籠であったわけではまったくありません。よい専制政治、よい貴族政治というのも十分考えられるし、現に歴史上ありました。
民主主義の弊害は、早くから気づかれており、プラトンが『国家』のなかで哲人政治を構想したのも、当時のアテナイ社会の衆愚政治に対する批判意識からです。またアリストテレスは、上記三つの政治体制のうち、一応、理念としては民主政治が最もよいが、それが現実に堕落した時には、他の二つに比べて最悪の事態を引き起こすと見抜きました。
十六世紀イタリアの思想家で、『君主論』の著者・マキャヴェッリは、良い統治を成し遂げるための君主の条件について深く考察しましたが、民主政治などという概念は彼の頭の中のどこにもありませんでした。また徳による統治を説いた孔子も、「小人閑居して不善をなす」と言い放ち、君子たるものの条件を力説しています。ニーチェに至っては、民主主義思想などは端的に奴隷のルサンチマンの上に成り立つものでしかなく、オルテガも大衆の支配がいかに人間を堕落させるかについて力説しています。バークのフランス革命に対する徹底的な否定は有名ですね。
少し論理的に考えてみましょう。そもそも民衆自身による民衆の自己統治という、民主主義の根幹をなす概念はおかしいですね。なぜなら、個々の民衆はそれぞれの生活で忙しく、また識見、能力、視野において限界を持つのが当然であって、政治というものが、自分と直接にかかわらない不特定多数者の意思を統合させる仕事である以上、そんな大仕事を民衆のだれかれに任せるわけにはいきません。政治というのはもともと高度な専門職なのです。
もちろん、近代民主主義がこのことをまったくわきまえないわけではありません。ですから、表看板は民主主義とか、国民主権とか謳いながら、現実には間接民主制あるいは代議制という形をとらざるを得ない。つまり近代民主主義のなかにも、選ばれた優れた専門家が実際の統治に当たるという理念は一応生かされてはいるわけです。選挙制度というのが形式的には、そのことを保障しています。
しかし実際には、この制度も候補者の知名度が高いこと、イメージとして「ステキ」に感じられること、地元で勢力を持っていて人気があること、などの情緒的な要因によって規定されてしまうケースが多い。ことに現代のような情報社会においてはそうですね。集団としての「大衆」の多くは、候補者の政治的な力量や思慮深さ、所属政党の政策理念の是非、などをいちいち詳しく検討せず、単なるムードで選びますから。
このよい例が小泉純一郎元総理であり、近いところでは、さる7月の参院選におけるYT氏やAI氏の当選です。この二人がいかにバカであったかは、その後の行動で白日の下にさらされましたね。こういうことが、間接民主制下においても起きるのは、民主政治の担い手が、最終的には国民による直接の「平等な一票」によって決定されてしまうからです。
世の中には、アメリカで理想とされているような直接民主制こそ、一番進んだ政治の理想なのだと考えている浅慮な人士が絶えません。ことにアメリカに負けた戦後日本は、この考え方を助長しました。別にアメリカだって直接民主制を敷いているわけでも何でもない。一見直接民主制に思える大統領選も、その複雑なシステムによって間接民主制を担保しています。
でもあんなに徹底的に負けると、勝った方がなんだか思想的にも道徳的にも優れていたのだという思いを刷り込まれてしまうのですね。いったんそれを刷り込まれたこの人たちにその信念を覆してもらうのはとても難しい。そこで一つのわかりやすい例を出します。
シドニー・ルメット監督、ヘンリー・フォンダ主演の『十二人の怒れる男』という名作があります。この映画は、アメリカの陪審員制度に材を取ったものです。スラム街で父親を殺したという容疑で被告席に立たされた17歳の少年の法廷での審理が決着し、あとは無作為に選ばれた多様な市民で構成される12人の陪審員たちが、有罪か無罪かを巡って密室で議論を交わすというシチュエーションです。陪審員制度では、全員一致でなければ評決が成立せず、いくら議論しても決着がつかなければ、その陪審員は解任されます。
ご承知のようにこの映画では、はじめに投票で評決をはかると、11人が有罪、ただ一人、8号陪審員(ヘンリー・フォンダ)だけが無罪という結果が出ます。それから騒然とした議論が展開し、冷静な8号陪審員が粘り強い努力によって、ひとりひとり「無罪」を増やしていき、最終的に全員無罪を勝ち取ります。この映画のエンターテインメントとしての魅力はいろいろなところにあるのですが、いまはそれについては語りますまい。
ここで指摘したいのは、この映画を不用意に見ると、アメリカの民主主義はなんて素晴らしいんだというふうに勘違いしがちなことです。陪審員制度は、雑多な市民が重大事の決定に当たるので、たしかに直接民主制の典型です。それが見事に一人の少年の命を救うところまで行き着くわけですから、その感動を、政治形態の理想に結びつけたとしても無理もない、と言えるかもしれません。じっさい、登場人物の一人が途中で「この国の強さは民主主義に宿っている」とスピーチする場面もあります。
しかし、ちょっと考えてみましょう。この映画は、論理的に冷静にものを考えることの大切さを訴えてはいますが、けっして政治制度としての「直接民主主義」を肯定しているのではありません。なぜなら、もし8号陪審員がいなかったら、この審理は何の議論もなく5分間で「有罪」の決着がついてしまっていたからです。8号陪審員は、めったにいるはずのないスーパーヒーローです。すると、雑多な市民によって構成される陪審員制度は、当事者たちの都合、気分、根拠なき信念、偏見などによってひとりの人間の運命を決めてしまう公算が極めて強い、ということになるわけです。この映画はよく見れば、そのことがわかるようにきちんと描かれています。
ちなみに現在、アメリカでは、刑事訴訟全案件中、陪審員制度が適用される事案は、わずか1.2%(1999年)に過ぎず、国内でもこの制度に対する批判が高まっており、適用数も年々減少傾向にあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%AA%E5%AF%A9%E5%88%B6#.E7.B5.B1.E8.A8.88
陪審員制度は、ひとりの見知らぬ人間の運命などに真剣に関心を寄せる気がなく、専門家としての職業倫理も持たない人たち(それはそれで当然のことです)の「人民裁判」の典型です。これをなにか、「より進んだ制度」であるかのように考えた一部の戦後日本人がおバカなのです。このようなおバカな人たちの強引な主張によって、日本でも裁判員制度が施行されてきました(陪審員制度よりはその過激さが薄められているのでまだましですが)。まことに敗戦日本のアメリカ万歳の卑屈な精神には嘆かわしいものがあります。
いまこの国の政治勢力の一部には、地域主権、道州制、参議院廃止、首相公選制などを平然と政策理念に掲げている人たちがいます。こういう政策を掲げる人たちは、ただ何となくこれらが中央集権的な政治体制から脱却して、より個々の住民の利害に結びつくように見えるので、「直接民主主義的な理念の実現に近づく」と考えているだけなのではないでしょうか。これらの政策がどんな現実的結果をもたらすかという長期的見通しが何もありません。人間というものを知らない、また、日本という国の歴史的、文化的なまとまりの良さを正当に評価できない、とんでもなく間違った考えです。間接民主制がかろうじてこの間違いの歯止めになっているのです。
そろそろ結論です。
「民主主義」という言葉が現代先進社会のなかでもっている強大な呪力をいまさらなくしてしまうことはできません。さしあたり、右も左も、方便としてこの葵の印籠を大いに使えばいいでしょう。しかし、よりよい社会制度をどう構想していったらよいかという問題としてこれを捉えるなら、「民主主義」という言葉を少しでも肯定的に用いるために、最低限、次の要件を満たす必要があります。
①この制度を金科玉条と思わず、つねに懐疑の精神を失わないこと。
②政治に携わる人は、多数の多様な民の要求・利害をうまく調整して統合するだけの、専門的な能力、豊富な経験、決断力、公共精神を持った「選ばれた」人であること。
③国民は、どういう人がそれに値するかについて、情実やイメージに惑わされず、できるかぎり理性的な判断力を養うこと。
④適切な人が選ばれるために(YT氏やAI氏のような人が選ばれないために)どういう選抜制度が必要であるかについて、智慧を絞ること。ことに「良識の府」と呼ばれる参議院のあり方について見直すこと。
これは必ずしも、平等・普通選挙を必須としません。また評論家・呉智英氏が提唱しているように、選挙人資格を簡単な試験などによる免許制にするというのも一方法だと思います。
⑤議員の選抜に当たっては、その手続きが透明なものとして開かれていること。
こういう要件が本当に満たされると、実際には、私たちがいま抱いている「民主主義」のイメージとは、だいぶ違ったものとなるはずです。私はこれをあえて、「民主的な手続きによる精神的貴族政治(デモアリストクラシー)」と呼びたい。
最後に蛇足を一つ。来るべき都知事選ですが、私は小池百合子さんが最適だと思いまーす。失礼。
*****
「自由・平等・人権・民主主義」とハサミは使いよう
小浜逸郎
最近、日本や世界の政治にかかわるニュースを見たり聞いたり読んだりしていると、自由・平等・人権・民主主義といった言葉が、とても大安売りで使われていますね。
これらの言葉は、現代の自由主義諸国(おっと、私もたちまち使ってしまいました)では、「普遍的価値観」と呼ばれて、たいへん重宝されています。
普遍的価値観とはまた、大ぶろしきを広げたものですが、こうした言葉を「普遍的」と呼ぶことそのものが、アメリカを中心とした自由主義諸国(おっと、また)の戦略なのですね。現代社会では、みんながこれらの言葉には弱いので、看板として大いに使えると感じてしまうのでしょう。「朝鮮民主主義人民共和国」なんて、実態とまるで合わないスゴイ国名をつけている国さえあります。
ところで今の日本の言論界でこれらの言葉が使用される場合、それらはいつも両義性、両価性を帯びています。両義性、両価性――ambiguity――つまり「二つ以上の意味や価値を持っているようにとれること」。
ですから私たちは、これらの言葉を聞きとるときには、それがどういう文脈で使用されているのかに注意しなくてはなりません。また私たち自身がこれらの言葉を使うときには、それをどういう価値観のもとに使っているのかに自覚的でなくてはなりません。前者に関しては、まあ、それほど誤解の余地はないと言えますが、特に後者の場合、その人の思想がもろに現れます。何の疑いもなく肯定的に使っているのか、それともこれらの言葉の価値に対して否定的に使っているのか、はたまた懐疑的に、アイロニカルに使っているのか、方便として使っているのか等々。
たとえば「自由」。
日本国憲法で謳われているさまざまな自由は、何人も奴隷的拘束や思想弾圧を受けてはならないという規定ですから、これは原則的に保障されるべき大切な規定です。しかし、責任の伴わない無限定の自由が保障されているかといえば、それは違いますね。「個人の自由」は、野放図に許容されるとしばしば他人を侵害し、公益に抵触します。
ひところ「自由教育」なる理念のもとに、子どもへの指導・管理・強制をほとんどしない教育機関がはやりましたが、これなどはとんでもない倒錯です。社会的良識が発達していず、責任を免除されている未熟な子どもに自由を許したら、授業を聴かない自由、教室で漫画を読む自由、おしゃべりしたり飲食したり携帯をかけたりする自由、先生に逆らう自由、学校に行かない自由なども認めることになり、教育は成り立ちません。じっさいにこんなことを提唱していたバカ論者がいたのです。
また先ごろ、特定秘密保護法案の国会通過を巡って、一部のマスコミが「知る権利・報道の自由を侵すものだ」というネガティブキャンペーンを大々的に張りましたが、これなども、国民の安全を保障するための国家機密をみだりに漏らしてはならないという当たり前の趣旨を理解しない、まことに身勝手な主張というべきでしょう。この法律が施行されても、別に報道の自由は侵害などされず、これまでどおり保障されます。一部マスコミはナイーブな反権力感情だけを盾にして、自分たちが情報をリークしてもらえなくなるのではないかという恐れから、無関係な国民を巻き込んで煽動しているのですが、国民はこんな反安倍政権キャンペーンにたぶらかされてはなりません。
なおこの問題については、当ブログに拙論を掲載しましたので、ご関心のある方はどうぞ。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/13d043deb6f1e242766bf85f2c67d388
また1月10日発売の月刊誌『Voice』2月号にも拙稿を寄せています。
さらにいま、TPP交渉の年内妥結の可否が云々されています。もともとこのTPPというのは、国境を超えて市場を自由に開放せよというアメリカの一部グローバル企業や投資家の要求を通そうとするもので、これが認められると、それぞれの国家主権やその地域に根差した慣習や文化に破壊的な影響を与えることは明らかです。
この新自由主義のグローバリズム攻勢については、東谷暁氏、中野剛志氏、三橋貴明氏、柴山桂太氏、施光恒氏、関岡英之氏ら、多くの優れた論客が早い時期から何度も国益に反するものとして警鐘を打ち鳴らしてきました。それにもかかわらず、安倍政権は日米同盟という外交・軍事上の「ご縁」をそのまま経済関係にまで延長して、平然と対米従属を受け入れようとしています。ここでは私は、安倍政権を批判することになります。
TPPのような経済的条約における「自由」理念をそのまま信じることは、弱肉強食的な競争至上主義を肯定することであり、日本の国益にとって有害であるのみならず、途上国、新興国にとっても経済的な主権を強国の富裕勢力に奪われることを意味します。
しかし逆に、北朝鮮や中国のように、自由な言論も政治活動も許されず、政府に対する批判的言動が直ちに弾圧され取り締まられ粛清されるような独裁国家に対しては、自由の価値を叫び続けることに大きな意義があります。これはおそらく、その国に住んでみればすぐに実感できることで、逆に日本がいかに思想・言論・表現・信教などの自由が保障された恵まれた国であるかもわかろうというものです。恵まれすぎていて多様な見解・主張が乱れ飛び、結局は「暖簾に腕押し」になってしまっているわけですが。
以上のように、「自由」とは、それだけとしては単なる抽象的な言葉にすぎず、どういう具体的文脈の中で使われるのかという背景と不可分のかたちでその価値が測られるのでなくてはなりません。
同じことは、「平等」や「人権」という言葉にも当てはまります。
たとえば、金融資本の自由取引が行き過ぎて世界経済を混乱させ、失業率が高まって社会格差が極端に開いてしまうような事態が起きた時には(現にいま世界的にそうなっているのですが)、公共体が適切に介入し、「平等」理念に基づいて雇用創出や所得の再配分を実現させる政策が必要とされます。現代のような複雑な社会システムの下では、どのように介入するかがまさに問題なのですが。
またアメリカにおける黒人の公民権獲得のために闘ったキング牧師や、先ごろ亡くなった南アのマンデラ氏のように、不当な人種差別を受けている現状を打破するために、「平等」を強く訴えることはぜひとも必要です。
しかし日本の戦後教育の世界では、悪平等主義がはびこってきました。機会の平等を保障することは、近代国家の教育政策として当然のことです。ところが、いつしかそれが結果の平等をも実現しようという非現実的な理想に置き換えられました。個々の子どもには驚くべき能力格差があるという当たり前の事実を認めることがタブー視されるようになったのです。東京都の学校群制度、偏差値追放、ゆとり教育、大学定員の供給過剰、面接重視を目指す昨今の入試改革案など、みなこの流れです。いま、これらのどこに問題があるかについては詳説しませんが、戦後教育における「改革」なるものがことごとく失敗してきたことは確かなところです。そうしてその失敗の元凶が、平等主義イデオロギーの支配にこそあるということも。
さらに、最近の「一票の格差」についての違憲判決や、「婚外子相続分が嫡出子の二分の一」についての違憲判決のように、その背景にどういう具体的状況があるかということを見ない形式的平等主義は、まことに困ったものです。
これらについても、当ブログで論じたことがありますので、ご関心のある方は、以下のURLへどうぞ。
一票の格差問題:http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/130814b7041b2847b8be69d676d9d488
婚外子相続問題:http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/a77b97ae04df91d61a6febf3c0bc3dcb
日本では「人権派」というと、憲法11条をタテにとって、何でも自分たちの特殊な要求と主張を通そうとする種族を意味します。要するにサヨクあるいは「地球市民」派ですね。死刑廃止論者、人権擁護法案提唱者、「子どもの人権」論者、ジェンダーフリー論者などがこれに当たります。この人たちは、国家というものの存在意義や歴史的意味がわかっていないために、「正義」のよりどころをただひたすら反国家的な感情に求めます。公共精神のかけらもない幼稚な人たちですが、そういう幼稚な議論がけっこう通ってしまうところが問題です。
しかし日本国憲法というものが現実に存在して、そのなかで「基本的人権」の規定が謳われている以上、時に応じてこの規定およびその土台になっている人権思想を利用する必要が生じてくるのも事実です。たとえば、拉致被害者の生命や自由が無視されてきた状況に対して、私たち日本国民は、「人権の大切さ」という旗印を大いに掲げる必要があるでしょう。
私事で恐縮ですが、私はあるご縁から、明らかに冤罪と思われる事件に少しばかり関わった経験があります。これは、その当事者の職を不当に奪う行政措置がなされたことに対する抗議文書を書くという形をとったのですが、こういう場合、憲法を頂点とする法体系に則って訴訟に立ち向かわなくてはなりませんので、当然、その行政措置は憲法違反(つまり人権侵害)であるという論陣を張ることになります。
また、ノーベル平和賞を獲得した中国の人権活動家・劉暁波(りゅう・ぎょうは)氏のように、過酷な弾圧のなかで闘ってきた人の思想的よりどころが、「人権」という概念の価値に依っていることは明らかです。そうして、それは正しいことだと思います。
このように、「人権」という概念をひたすらお札のように絶対化して拡張解釈するのもはき違えだし、いっぽう、圧政や弾圧や不当な措置が現にあるところでは、この概念を「普遍的価値」として掲げていくことも有効な意味をもつと考えられます。要するにそれは政治状況、社会状況に応じて使い分けるべき概念だということになるでしょう。
最後に、最も濫用されている「民主主義」という言葉について触れましょう。自分の立場を正当化し敵対する立場を論難するために、この言葉を盾にしない政治言論は、右から左までほとんどないといってよいくらいです。つまり「民主主義」は現代社会では神聖な葵の印籠と化しているわけですが、しかしそうなると、インフレと同じで、その言葉の価値がどんどん下がってしまいます。どの体制、どの思想が「本当の民主主義」に値するか、まあ、そういう旗の奪い合い、正統争いをやっている光景ですね。
もちろん、この事態に深い疑いを持ち、早くから「民主主義国家」「民主政治」「民主憲法」などの概念を原理的なレベルで批判している数少ない人たちもいます。私はこの人たちを尊敬しています。民主主義はいま、その内的な必然からして、衆愚政治(いわゆるポピュリズム)に堕していく傾向が大いに顕在化しています。そうした状況のなかでは、こうした思想的営みはぜひ必要なことです。というのもこの傾向は、時々の社会経済的条件いかんによって、その急激な危機克服の手段としての全体主義へ結びついていくことが歴史的にも証明されているからです。
しかしながら、他方では、「自由」や「人権」と同じように、相手のやっていることの不当性を指摘するためにこの言葉を葵の印籠として用いざるを得ない局面が多々あることも事実です。繰り返しますが、北朝鮮王朝政府や中共独裁政府の勝手な振る舞いに対しては、これらの体制そのものが民の福利にまったく寄与していないという抗議の意味合いを込めて、「民主化せよ、さもなくば体制転覆を覚悟せよ」と訴えることが必要ですし有効でもあります。
たまたま新聞で目にしましたが、ロシアのプーチン政権も情報統制においてずいぶん強硬手段をとっているようです。報道機関として定評のあった国営ロシア通信社RIAノーボスチの解体を一方的に決めたというのです(産経新聞12月19日付)。同日付の北大名誉教授・木村汎氏の論説によれば、ロシアでジャーナリストが客観的な報道に従事するのは命がけで、過去20年間で341人の記者が殺害され、いまだに一人の犯人も捕まっていないそうです。
こういうお国柄(ツァーリズム時代、社会主義時代を通しての伝統)の政権に対しては、報道の自由や、より開かれた民主主義体制の実現を訴えることは大いに意義があります。
また生活の場面でも、エコ・イデオロギー、効率主義イデオロギー、過剰健康主義イデオロギー、「被差別者」特権イデオロギーなどが、当事者の生活感覚を無視して有無を言わせずじわじわと攻め寄せてくるとき、もっと民主的な議論が必要だろう、と感じることがしばしばあるのではないでしょうか。
さらに、この恐ろしく多様化した大衆社会のなかで、国論を少しでも統一させてまともな政治を行なおうとすれば、だれもが最大限民主的な手続きを取らざるを得ません。政策を一つ一つ実行するにあたっても、世論のマジョリティがどの辺にあるかということに何の配慮もしなくてよいとはとても言えないでしょう。権力がなければ政策を実現することはできず、近代民主主義国家の権力は、世論によってこそ支えられるという点を無視できないからです。
民主主義(デモクラシー)というのはデモス(民衆)自身による民衆の支配・統治を意味しますが、もとよりこれは専制政治(オートクラシー)・貴族政治(アリストクラシー)との関係において成り立つ、統治形態の形式的な概念です。別にはじめから葵の印籠であったわけではまったくありません。よい専制政治、よい貴族政治というのも十分考えられるし、現に歴史上ありました。
民主主義の弊害は、早くから気づかれており、プラトンが『国家』のなかで哲人政治を構想したのも、当時のアテナイ社会の衆愚政治に対する批判意識からです。またアリストテレスは、上記三つの政治体制のうち、一応、理念としては民主政治が最もよいが、それが現実に堕落した時には、他の二つに比べて最悪の事態を引き起こすと見抜きました。
十六世紀イタリアの思想家で、『君主論』の著者・マキャヴェッリは、良い統治を成し遂げるための君主の条件について深く考察しましたが、民主政治などという概念は彼の頭の中のどこにもありませんでした。また徳による統治を説いた孔子も、「小人閑居して不善をなす」と言い放ち、君子たるものの条件を力説しています。ニーチェに至っては、民主主義思想などは端的に奴隷のルサンチマンの上に成り立つものでしかなく、オルテガも大衆の支配がいかに人間を堕落させるかについて力説しています。バークのフランス革命に対する徹底的な否定は有名ですね。
少し論理的に考えてみましょう。そもそも民衆自身による民衆の自己統治という、民主主義の根幹をなす概念はおかしいですね。なぜなら、個々の民衆はそれぞれの生活で忙しく、また識見、能力、視野において限界を持つのが当然であって、政治というものが、自分と直接にかかわらない不特定多数者の意思を統合させる仕事である以上、そんな大仕事を民衆のだれかれに任せるわけにはいきません。政治というのはもともと高度な専門職なのです。
もちろん、近代民主主義がこのことをまったくわきまえないわけではありません。ですから、表看板は民主主義とか、国民主権とか謳いながら、現実には間接民主制あるいは代議制という形をとらざるを得ない。つまり近代民主主義のなかにも、選ばれた優れた専門家が実際の統治に当たるという理念は一応生かされてはいるわけです。選挙制度というのが形式的には、そのことを保障しています。
しかし実際には、この制度も候補者の知名度が高いこと、イメージとして「ステキ」に感じられること、地元で勢力を持っていて人気があること、などの情緒的な要因によって規定されてしまうケースが多い。ことに現代のような情報社会においてはそうですね。集団としての「大衆」の多くは、候補者の政治的な力量や思慮深さ、所属政党の政策理念の是非、などをいちいち詳しく検討せず、単なるムードで選びますから。
このよい例が小泉純一郎元総理であり、近いところでは、さる7月の参院選におけるYT氏やAI氏の当選です。この二人がいかにバカであったかは、その後の行動で白日の下にさらされましたね。こういうことが、間接民主制下においても起きるのは、民主政治の担い手が、最終的には国民による直接の「平等な一票」によって決定されてしまうからです。
世の中には、アメリカで理想とされているような直接民主制こそ、一番進んだ政治の理想なのだと考えている浅慮な人士が絶えません。ことにアメリカに負けた戦後日本は、この考え方を助長しました。別にアメリカだって直接民主制を敷いているわけでも何でもない。一見直接民主制に思える大統領選も、その複雑なシステムによって間接民主制を担保しています。
でもあんなに徹底的に負けると、勝った方がなんだか思想的にも道徳的にも優れていたのだという思いを刷り込まれてしまうのですね。いったんそれを刷り込まれたこの人たちにその信念を覆してもらうのはとても難しい。そこで一つのわかりやすい例を出します。
シドニー・ルメット監督、ヘンリー・フォンダ主演の『十二人の怒れる男』という名作があります。この映画は、アメリカの陪審員制度に材を取ったものです。スラム街で父親を殺したという容疑で被告席に立たされた17歳の少年の法廷での審理が決着し、あとは無作為に選ばれた多様な市民で構成される12人の陪審員たちが、有罪か無罪かを巡って密室で議論を交わすというシチュエーションです。陪審員制度では、全員一致でなければ評決が成立せず、いくら議論しても決着がつかなければ、その陪審員は解任されます。
ご承知のようにこの映画では、はじめに投票で評決をはかると、11人が有罪、ただ一人、8号陪審員(ヘンリー・フォンダ)だけが無罪という結果が出ます。それから騒然とした議論が展開し、冷静な8号陪審員が粘り強い努力によって、ひとりひとり「無罪」を増やしていき、最終的に全員無罪を勝ち取ります。この映画のエンターテインメントとしての魅力はいろいろなところにあるのですが、いまはそれについては語りますまい。
ここで指摘したいのは、この映画を不用意に見ると、アメリカの民主主義はなんて素晴らしいんだというふうに勘違いしがちなことです。陪審員制度は、雑多な市民が重大事の決定に当たるので、たしかに直接民主制の典型です。それが見事に一人の少年の命を救うところまで行き着くわけですから、その感動を、政治形態の理想に結びつけたとしても無理もない、と言えるかもしれません。じっさい、登場人物の一人が途中で「この国の強さは民主主義に宿っている」とスピーチする場面もあります。
しかし、ちょっと考えてみましょう。この映画は、論理的に冷静にものを考えることの大切さを訴えてはいますが、けっして政治制度としての「直接民主主義」を肯定しているのではありません。なぜなら、もし8号陪審員がいなかったら、この審理は何の議論もなく5分間で「有罪」の決着がついてしまっていたからです。8号陪審員は、めったにいるはずのないスーパーヒーローです。すると、雑多な市民によって構成される陪審員制度は、当事者たちの都合、気分、根拠なき信念、偏見などによってひとりの人間の運命を決めてしまう公算が極めて強い、ということになるわけです。この映画はよく見れば、そのことがわかるようにきちんと描かれています。
ちなみに現在、アメリカでは、刑事訴訟全案件中、陪審員制度が適用される事案は、わずか1.2%(1999年)に過ぎず、国内でもこの制度に対する批判が高まっており、適用数も年々減少傾向にあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%AA%E5%AF%A9%E5%88%B6#.E7.B5.B1.E8.A8.88
陪審員制度は、ひとりの見知らぬ人間の運命などに真剣に関心を寄せる気がなく、専門家としての職業倫理も持たない人たち(それはそれで当然のことです)の「人民裁判」の典型です。これをなにか、「より進んだ制度」であるかのように考えた一部の戦後日本人がおバカなのです。このようなおバカな人たちの強引な主張によって、日本でも裁判員制度が施行されてきました(陪審員制度よりはその過激さが薄められているのでまだましですが)。まことに敗戦日本のアメリカ万歳の卑屈な精神には嘆かわしいものがあります。
いまこの国の政治勢力の一部には、地域主権、道州制、参議院廃止、首相公選制などを平然と政策理念に掲げている人たちがいます。こういう政策を掲げる人たちは、ただ何となくこれらが中央集権的な政治体制から脱却して、より個々の住民の利害に結びつくように見えるので、「直接民主主義的な理念の実現に近づく」と考えているだけなのではないでしょうか。これらの政策がどんな現実的結果をもたらすかという長期的見通しが何もありません。人間というものを知らない、また、日本という国の歴史的、文化的なまとまりの良さを正当に評価できない、とんでもなく間違った考えです。間接民主制がかろうじてこの間違いの歯止めになっているのです。
そろそろ結論です。
「民主主義」という言葉が現代先進社会のなかでもっている強大な呪力をいまさらなくしてしまうことはできません。さしあたり、右も左も、方便としてこの葵の印籠を大いに使えばいいでしょう。しかし、よりよい社会制度をどう構想していったらよいかという問題としてこれを捉えるなら、「民主主義」という言葉を少しでも肯定的に用いるために、最低限、次の要件を満たす必要があります。
①この制度を金科玉条と思わず、つねに懐疑の精神を失わないこと。
②政治に携わる人は、多数の多様な民の要求・利害をうまく調整して統合するだけの、専門的な能力、豊富な経験、決断力、公共精神を持った「選ばれた」人であること。
③国民は、どういう人がそれに値するかについて、情実やイメージに惑わされず、できるかぎり理性的な判断力を養うこと。
④適切な人が選ばれるために(YT氏やAI氏のような人が選ばれないために)どういう選抜制度が必要であるかについて、智慧を絞ること。ことに「良識の府」と呼ばれる参議院のあり方について見直すこと。
これは必ずしも、平等・普通選挙を必須としません。また評論家・呉智英氏が提唱しているように、選挙人資格を簡単な試験などによる免許制にするというのも一方法だと思います。
⑤議員の選抜に当たっては、その手続きが透明なものとして開かれていること。
こういう要件が本当に満たされると、実際には、私たちがいま抱いている「民主主義」のイメージとは、だいぶ違ったものとなるはずです。私はこれをあえて、「民主的な手続きによる精神的貴族政治(デモアリストクラシー)」と呼びたい。
最後に蛇足を一つ。来るべき都知事選ですが、私は小池百合子さんが最適だと思いまーす。失礼。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます