美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

三河島~南千住ぶらぶら紀行(その1)三河島界隈

2014年09月01日 11時31分09秒 | 報告
八月二七日に、私は、JR常磐線の三河島から南千住まで五時間ほどぶらぶらと散策をしました。Iという、歴史を愛好する同好の士といっしょだったので、とても楽しいひと時となりました。

そのときのことを、少しずつ書き進めていこうと思います。

三河島駅界隈は、新大久保と並ぶ東京有数のコリアタウンです。新大久保が一九八〇年代以降のいわゆるニューカマーの街なのに対して、こちらは大正年代以降に移住したオールドカマー系在日が多く、古い下町の商店街にハングルで書かれた小さな看板の店が散見されます。赤文字の鄙びた看板の喫茶店。職人芸がご自慢の時計修理店。小ぶりな一般住宅と同じく小ぶりな商店が道の両側にさりげなく混在して並んでいるひっそりとした街。韓流グッズ店が乱立し、観光地化がはなはだしい新大久保とはうって変わった、貧しい昭和の面影を残した街。行政の「愛」が行き届いているとは言い難い街。それが、三河島に対して抱いた私の印象です。これは、私なりの精一杯のほめ言葉なのですが、お分かりいただけるでしょうか。私たちが歩いたのは、荒川仲町通り商店街でした。

地図上で「三河島」という地名がなくなったのは、一九六二年(昭和三七年)に起こった三河島事故によって、同地名のマイナス・イメージが全国レベルで広まってしまったためと言われています。同事故は、常磐線三河島駅構内での列車多重追突によって、一六〇名の死者と二九六名の負傷者を出した大惨事です。そのマイナス・イメージを払拭するために、一九六八年の住居表示施行を機に一帯の「三河島町」という町名は消滅しました。私見によれば、町名を消すことで都合の悪い歴史をもみ消してしまおうとする役人的発想は、とてもつまらないと思います。良いことも悪いこともふくめての「歴史」なのですから。地名は、そのすべてを貪欲に吸い込んで、生き延びていくものなのではないでしょうか。

荒川仲町通り商店街を通り抜けた後、私たちは、明治通りや都電荒川線荒川区役所前駅の踏切を渡って、荒川一丁目を過ぎ南千住一丁目に入っていきます。西から東へ、地図上を左から右に、常磐線とおおむね平行に移動していることになります。
(この稿、つづく)

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