美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

いまの日本に、財政問題なんてものはない (美津島明)

2015年11月03日 11時59分07秒 | 経済
いまの日本に、財政問題なんてものはない (美津島明)


「吾妻土産名所図画」(明治29年・1896)より。大蔵省(中央)と貴族院(右上)

私は、経済問題研究会という少人数の集まりで、専任講師を務めています。事前にテキストを一冊決め、参加者にそれを読んできてもらったうえで、私がその要点を解説し、時事問題との関連などに触れ、質問に答え、折に触れ自由討論をする。そんなやり方で四時間を過ごします。四時間といえばずいぶん長いように思われるかもしれませんが、それに参加してみればあっという間に時間が過ぎます。それが終われば、自由参加の二次会です。活発に発言する参加者がほとんどですから、アルコールが入ればおのずと談論風発の様相を呈します。

三年間弱の同会での活動を通じて、ひとつ痛感していることがあります。それは、私たちがマスコミを通じて耳にし目にする経済言説のほとんどが、財務省が発信した情報の垂れ流しであることです。マスコミは、財務省(と日銀)には、イデオロギーの左右を問わず、決して逆らわないのです。財務省が正しいことを言っていれば、それでもまあ問題はない、と言えるでしょう。ところが、財務省の言っていることが、根本的に誤ったものであるとすれば、話は違ってきます。

私見によれば、財務省は根本的に間違った情報を発信しています。その最たるものは、「国の借金はいまや1000兆円を超えた。このまま増え続ければ、いつか財政は破綻する」という言説です。このウソには、「だから、消費増税はやむをえない」とか「だから、公共事業はさらに減らすほかはない」とか「だから、震災地の復旧・復興のためには、まず財源を探すことが必要だ」とか「だから、社会保障費は削減するほかはない」などといった、デフレを促進し、国民が享受できる行政サービスを削減し、国民の社会権を脅かすようなろくでもない結論が待ち構えています。

みなさまがご存じのとおり、1997年の消費増税5%の断行からの二十年間、日本国民は、そのような険しい道を歩み続けてきました。デフレ脱却の途上で消費増税8%が断行され、実質賃金は減り続け、公共事業がどんどん削減されて日本は災害に対して脆弱な国土と化し、年金や失業保険や生活保護などの社会保障は手薄くなり、被災地はほったらかしにされたままです。その余波で縮小気味になった内需はもはや当てにならないというので、やれ海外に打って出よ、やれアジアの成長の取り込みだ、やれグローバルだ、やれTPPだ、やれ英語の重視だ、と国柄を変えるような所業を平気でするようにもなりました。わたしたち国民は、心の中で「かんべんしてくれよな」と思いつつも、「国の財政が大変らしいからしょうがないか」と思い直して、政府の無慈悲な政策の数々を甘受し続けてきたのではないでしょうか。

ところが、そういう無慈悲な政策を余儀なくさせてきた「財政破綻の危機」なるものが実はフィクションに過ぎない、というのですから、はた迷惑にもほどがあります。

では、なぜ財政破綻がフィクションにすぎないと断言できるのでしょうか。まずは、財政破綻の定義をしましょう。それは、〈国債の金利が上がりすぎて、国債の利払いや償還(返済)に充てる経費、すなわち国債費の支払いがままならなくなること〉です。なぜ国債の金利が上がるのかといえば、財政破綻論者によれば、国の借金=国債の金額がふくらみすぎたら、国債に対する信用がいちじるしく低下するので、よほど高い金利をつけなければ、だれも国債を引き受けなくなるからです。また、投資家による国債の売り浴びせによっても、国債の相場価格は低下しその金利(利回り)は上がる、と財政破綻論者は主張します。

こまかい議論はそれくらいにして、いま、財政破綻が起こったとしましょう。そうして、国の借金1000兆円の全額が国債であるとしましょう。ここでピンと来ない方は、もしかしたら「国の借金」という言葉を真に受けていらっしゃるのではないでしょうか。「国の借金」というのは、実は財務省のトリックにほかならず、正確には、「政府の借金」です。で、「国の借金」など、日本には純額としては、ないのです。というのは、日本国の対外純資産は360兆円あまりにものぼるのですから。つまり、国全体として、日本は世界一の金持ちなのです。これはまぎれもない事実です。

話をもどしましょう。「政府の借金」1000兆円=国債1000兆円とします。ここで最悪の財政破綻が起こったとしましょう。この国債1000兆円分の全額が支払い不能になってしまった、という想定です。

ここで、私たちは次の事実を想起する必要があります。日本の国債は、その100パーセントが自国通貨円建てなのです。また日本政府は、いざというとき、日銀を通じて必要なだけの円をいくらでも発行できるのです。いいかえれば、日本政府は、通貨発行権を有しているのです。だから、国債費がいくら膨大になろうとも、日本の国債に財政破綻が起こることは原理的にありえません。ユーロ建ての国債の支払いができなくなってドイツにすがるギリシャとはわけがちがうのです。ギリシャには通貨発行権がなくて、日本には通貨発行権がある。だから、ギリシャには財政破綻が起こりうるが、日本には起こりえない。このことは、「平行線は交わらない」というユーグリッド幾何学の公理と同じくらいに自明です。

これで終わりといいたいところですが、「財政破綻」はマスコミを通じて長い間耳にタコができるくらいに言い続けられてきたので、国民の間で、もはやまっとうな論理を受けつけない「迷信」のようなものになってしまっていることを考えると、もうすこし言葉をつむぐことにしようと思います。

政府の借金は、日銀の国債買い取りによって減らすことができます。日銀は日本政府の子会社です。だから、子会社の日銀が買い取った国債、すなわち日銀の政府に対する債権は、親会社である政府の日銀に対する債務と相殺されます。これ、連結会計のイロハですね。だから、日銀が買い取った国債の総額分だけ、政府の借金は実質的に減ることになるのです。これまた、会計理論上のごく自然な結論です。実務上、日銀は、国債の満期日から10年経過して請求権が消滅するまでだまって国債を持ち続けるのでしょうね。

みなさまご存じのとおり、いまの日銀は、いわゆる「黒田バズーカ」によって、年80兆円の規模で国債を大胆に買い取りつづけています。異次元緩和、というやつですね。日銀が現在保有する日本国債は300兆円を余裕で超えているものと思われます。その分だけ、政府の借金はチャラになるのです。ということで、日銀は、目下年80兆円のペースで政府の借金をどんどん減らしているのです。インフレ目標2%は当分達成できそうにありませんから、この先数年間はこの調子で推移するのでしょう。

「1000兆円-300兆円=700兆円でも、借金の額としては巨額ではないか。600兆円、500兆円になっても巨額であることには変わりない。財政破綻があるかどうかは別として、巨額の借金は良くないだろう」という反論がありえるでしょう。が、実は「1000兆円」という金額そのものがフィクションなのである、といえば驚かれるでしょうか。

まずは、財投と建設国債410兆円を「政府の借金」に含めるのは理に適っていません。財投(約160兆円)とは、ようするに、特殊法人が使ったカネです。特殊法人が使ったカネを「政府の借金」にするのはおかしいですね。特殊法人が使ったカネは特殊法人が返すのがスジでしょう。また、建設国債(約250兆円)を「政府の借金」に含めるのもおかしい。なぜなら、建設国債とは、インフラの建設に使われるものであって、高速道路・新幹線・リニアモーターカー・橋・ダム・港湾などのインフラを建設すると必ず経済効果があり税収が増えます。つまり、建設国債はペイするのです。

とすると、1000兆円-国債買い取り300兆円-財投・建設国債410兆円=290兆円と借金は大幅に減ります

さらに、借金には総額と純額の二つの考え方がありますね。総額では290兆円ですが、純額となると、政府の資産合計は約650兆円なので、資産650兆円-負債(借金)290兆円=純資産360兆円となり、なんと借金が消滅してしまうのです。

私は、ふざけた議論をしているわけではありません。ごく常識的なお話しをしているだけです。もしも私の話しがふざけているように感じられるとすれば、それは、財務省がたわけた議論を展開しているからにほかなりません。

これで、「いまの日本に、財政問題なんてない」という、私の主張の趣旨をご理解いただけましたでしょうか。

冒頭で述べた勉強会で、参加者のなかに「財務省が間違っているというが、お前は社会的地位の高い人間ではない。しかるに、財務官僚は頭が良くて社会的地位の高い人たちだ。そんなお前の財務省批判が正しいはずがない。財務官僚には、お前などのようなボンクラ頭が考え及ばないような深い思慮があって、そういうことを言っているにちがいない」という本音が透けて見えるような発言をなさった方がちらほらいらっしゃいました。そういう権威主義的な批判に対しては、私は言うべき言葉を持ち合わせておりません。

いずれにしても、この「迷信」は、日本に数々の不幸をもたらし続けてきた諸悪の根源です。この「迷信」の呪縛から自由になれたならば、私たち日本国民は、全体としてもっとまともで豊かな暮らしができる端緒をつかんだことになるのは間違いない。私は、そう考えています。この「迷信」の垂れ流しをし続けているマスコミは、万死に値するのではありませんか。その点、日経新聞はありがたくもなんともありません。


(SSK・REPORT 2015年秋号 掲載)

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