美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

武士イメージが刷新された経験について語ろうと思う (イザ!ブログ 2013・6・26 掲載)

2013年12月17日 04時59分31秒 | 歴史
まず、この文章を書くにいたったきっかけに触れておきます。

新宿駅東南口の階段を降りて、一分かかるかどうかという近距離にある雑居ビルの五階に「サムライ」というジャズ・バーがあります。そこの店主・宮崎二健(みやざき じけん)さんは、ご自身のフェイス・ブックを開設なさっていて、私とは、FB友達です。客としては、思い出したときにひょいと行く程度なのですが、FBでは、お互いけっこう頻繁に「いいね!」ボタンを押し合ったりしています(もっとお店に行って、売上に貢献しなけりゃいけませんね)。

で、六月一九日(水)のご自身のFBに「おお、何と言う日本精神の極致よ!」

というキャッチを付けて、次の写真が掲げられていました。




それで、この写真をめぐって、彼と私との間で、次のようなごく短いやり取りがありました。

美津島明 :「日本精神の極致」。こういう心温まるお国柄を守りたいものですね。

宮崎 二健 :これぞ武士道の鏡です。弱きを助け…。女子供を守る男www

美津島明 :本当の武士は、女・子供に対して非常に優しく接しますね。中公文庫の『城下の人』(石光真光)という作品で、神風連事件に加わったサムライが、事件の直前に、たまたま通りかかった少年時代の真清(真光の父)と対等に接し、心を通わせるシーンを読んで、私は心が温まり、ほんとうの武士のイメージが刷新される経験をしたことがあります。

宮崎 二健 :美津島さん、初めて聞くお話、感無量です。武士のエピソードを集めて、その意識を分析し研究して、武士道なるものが只ならないものだということが見えてきたと思われます。日本において、日本人によって、武事上で培われた究極の生(行)き方だと思います。形も心も生死も全ては美に帰結します。義務教育に武士道を入れるべきだと思います。武士道は国粋主義とか民族主義とかの狭いものではなく、人としての生き方です。


彼の熱い語りに心を動かされて、「ぜひ、二健さんに、私に武士イメージの刷新をもたらしたくだりをご紹介したいものだ」という思いが湧いてきたのです。ちなみに、二健さんは前衛派の俳人で、その語り口は速射砲のようです。純粋の日本人とのことですが、どこかあのビン・ラディン似の日本人離れをした風貌の持ち主です。思想云々はとにかくとして、ビン・ラディンのルックスは、カリスマにふさわしい魅力があったと、私は思っています。

では、以下にそれをご紹介いたします。二健さん以外の方も、「俺には関係ねぇ」などと言わずに、まあ、お付き合いください。

上の引用でふれた『城下の人』は、石光真清の自伝四部作の一冊目です。二冊目以降は、『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』で、全部で1000ページ以上の膨大な量の自伝です。これを読みとおすことで、私は日本近代の理解を少なからず深めることができました。

神風連の乱に少しだけ触れておきます。神風連の乱(しんぷうれんのらん)は、一九七六年(明治九年)に熊本市で起こった士族による反乱です。敬神党の乱とも言います。旧肥後藩の士族太田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)、斎藤求三郎ら、約一七〇名によって結成された「敬神党」が政府の廃刀令に憤りを発して起した反乱とされています。敬神党は反対派から「神風連」と戯称されていたので、神風連の乱と呼ばれ、それがその後一般化しました。この決起に触発されて、秋月の乱、萩の乱と、氏族の反乱が続きました。

神風連は、自らの決起を「宇気比」(うけい)によって決めたことを、私は三島由紀夫の『奔馬』で知りました。三島の思い詰めたような筆致とも相まって、私は、その時以来、神風連に対して、神経質でオカルト的でおどろおどろしいイメージを抱くことになりました。それ以前から、時代おくれの古めかしいコチコチ頭の連中の集まり、という漠然としたイメージは抱いていましたが。ところが、私は、『城下の人』のつぎのくだりを目にすることによって、それらが心地よく木っ端微塵にされる経験を持つことになりました。長々と引用することをご容赦ください。

(著者の真清のこと――引用者注)の八歳の時、即ち明治八年三月の日曜日(乱決起のおよそ一年七ヶ月前――引用者注)であった。

私は友達の吉武半次、三郎の兄弟と祇園山(花岡山)に遊びに行って戻ると、兄の真澄(後、三井物産社員、恵比寿麦酒支配人――引用者注)と一緒に浮田、下村の従姉も見えていて両親(父・真民〈熊本藩士産物方頭取〉、母・守家〔もりえ〕)や姉の真佐子と座敷で話をしていた。

何気ない描写ですが、休日に親族が集ってなごやかに語らっているさまがおのずと浮かんできます。いいですねぇ。

私は井戸端で手足を洗い、姉に髪を撫でつけて貰いながら「お姉さま、今日は髪が固く結えていた
(少年真清はまげ姿である――引用者注)ので少しも弛みませんでした」と礼を述べて座敷に入り、従兄や兄に挨拶をしてから、

「お父さま、きょうは敬神党(神風連)の加屋先生
(上記の加屋霽堅〔かやはるかた〕のこと――引用者注)にお目にかかって、清正公(加藤清正。肥後国熊本藩初代藩主――引用者注)のお話を聞かせていただきました」

と私はとても嬉しかったので、そう話すと、父は驚いて、
「ほう、そうか、それはよかった。加屋先生はお偉い方だ。偉い先生から偉い方のお話を聞いたのだから面白かったろう」
と微笑した。事実私にとっては忘れ難い思い出となった日である。


ここから、真清少年と加屋霽堅の出会いのシーンとなります。

吉武兄弟と祇園山の中腹の清水(俗称「乳水」と言う)の湧いているところで、水いたずらをしていると、突然山の上から、紋付の羽織袴に大刀を差した、高髷の堂々たる武士が下りて来た。私はびっくりして三郎と一緒に年長の半次の後へ退いた。半次は武士の姿を見ると、姿勢を正して「これは先生でいらしゃいますか」と丁寧にお辞儀をした。その武士は足を停めて、じっと半次の顔を見ていたが、思い出せない様子で、
「あんたはどなたでしたかな」
と訊ねた。
「本山村の吉武次郎太の長男半次でございます」
「おお、吉武氏の御子息か、それは失礼した。中々の元気者らしいな。して、その二人はどなたかな」
「これは石光真民の子息正三
(真清の幼名――引用者注)、これはわたくしの弟三郎と申します。皆、平川塾の塾生でございます」
半次はそう答えてから私たちの方を見て、
「加藤社(錦山神社ともいい、現在の加藤神社で清正公を祀る)の加屋先生です。御挨拶をなさい」
と言った。私たちは二、三歩前に進み出て丁寧にお辞儀をすると、
「そうか、そうか。平川先生の塾生はみな元気者ばかりだ」
と笑みを湛えながら、私たちの稚児髷(ちごまげ)と刀を差した昔に変わらぬ姿を、満足そうに眺めて、
「どら来てごらん」
と三郎を抱き上げた。
「中々重い。次は正三君か、これは腕節が強そうだ。剣道をやっとるな」
「はい、森源右衛門殿の門下です」
「おお、そうか、では一刀流の使い手だな。どうだ、一本やろうか」
私はすぐ足元から竹刀代わりの棒切れを拾って身構えた。加屋先生は大きな声で笑って、
「その元気だ。きょうは戦わずして加屋が負けた。立合うに及ばぬ。正三君に勝を譲っておこう」
と笑ってから、
「今日の記念に頂上に行って、清正公のお話をして上げようか」
と加屋先生は今下りて来た道をまた登りはじめたので私たちも後に従った。
頂上に登ると、熊本城が眼前に、阿蘇の山々を背にして春の空に聳え立ち、蒼瓦、白壁が美しく映えていた。いつもながら私たちはお城の偉容に打たれ、加屋先生と肩を並べて静かに礼をしてから、そのまま眺めていた。


加屋霽堅は、三人に加藤清正のあらましを話した後、そのまま黙ってお城を眺めてから、年長の半次を振り返って次のように言います。

「凡衆は水に浮かぶ木の葉のようなものだ。大勢に押流されて赴くところに従うが、憂国の士はそうは出来ぬ。いつかは大勢を率いるか、あるいはこれを支えるものだ。それを忘れてはなりませんぞ」と声は低いが力強く言葉を結んだ。

このときすでに、加屋霽堅は、来るべき未来へ向けて期するものがあったようです。時流に流されるがままで終わるわけにはいかないものを心中に抱えて、それを自覚していたのでしょう。

「結構なお話、ありがとうございました」
半次が立ち上がって礼を述べると、加屋先生は微笑して、
「長話をして気の毒だったな。今年の加藤社のお祭りには揃ってお詣りにおいで」と機嫌よく腰を上げて、颯爽と山を下りて行った。


以上が、神風連のイメージはもとより、私にとっての武士のそれが刷新されるきっかけを与えてくれた場面です。

調べてみたら、霽堅(はるかた)の生年月日は一八三六年二月二十九日です。それを起点に数えてみると、真清少年たちと出会ったのは四〇歳のときです。数え年で四二歳。その頃の四二歳と言えば、老境にさしかかった年代と言っても過言ではないでしょう。彼は、そのときすでに武士としての自分の死に場所を思案しはじめていたのかもしれません。明治の世になって、四民平等が唱えられているが、自分は、あくまでも武士として生きぬき、武士として死のうと腹を決めていたにちがいありませんから。

そういうシリアスな面は確かにあったのでしょうが(というか、むしろ、あったからこそ)、この場面での霽堅(はるかた)は、あくまでも明朗で、おおらかで、子どもたちと誠(まこと)をこめて接しています。おそらく女性に対しても、そうだったことでしょう。私は、そこに馥郁(ふくいく)とした武士道の精華を見たいと思います。いくら馬鹿気た武士の実例を挙げられても、私のそういう思いは、さしあたり変わらないような気がします。いつの世にも、バカとお利口とは共存していますので。共栄している、とまでは言いませんが。この世はいつも、バカと利口とその他多勢なんですね。

霽堅(はるかた)によって形象化された武士の魂は、冒頭の写真の、カルガモ親子の横断を守りきろうとする警官たちの心中にも、宿っているのかもしれません。「武士道は国粋主義とか民族主義とかの狭いものではなく、人としての生き方です」。二健さんがおっしゃるとおりなのかもしれない、と思います。



小峯墓地(熊本市中央区)にある加屋霽堅の墓

〔付記〕
以上の記事を読んでいただいたFB友達の勝又珠子さんと、以下のようなやり取りがありました。お伝えしておきます。

勝又 珠子 :石光真清の手記は何度も読み直したい作品で、最近新しいものを買い揃えたところです。父親の親友に野田男爵の孫にあたる方がいたことから勧められ、まだ学生でしたがスリリングな内容にぐんぐん引き込まれたのを覚えています。またアムール川の虐殺事件を目撃した唯一の日本人であることから、歴史的な資料として価値の高いものと聞いています。ぜひ今度は武士道を考えながら読み直したいと思います。貴重なお話を有難うございました。

美津島明 :そうなのですか。お父様は、すごい方を親友としてお持ちなのですね。野田男爵って、あの野田 豁通(のだ ひろみち)のことですよね?石光真清の父・真民の末弟の。知らない人は、何のことだか皆目見当がつかないでしょうから、ちょっと説明を加えておくと、豁通は、一五歳のとき、熊本藩勘定方の野田淳平の養子となったので、野田姓を名乗ることになり、陸軍で最終的に監督総監(のちの陸軍主計総監)にまで昇りつめ、貴族院議員も務めたほどの人です。勝又さんは、そのお孫さんに、石光真光の手記を勧められのですね。運命的な出会いと言っていいのではないでしょうか。感動的なお話です。真清が、アムール川の虐殺事件を目撃した唯一の日本人であることは、私も承知していました。確かに彼の見聞は貴重ですね。日露戦争が、侵略戦争でもなんでもなくて、ロシアの南進に対抗するためのやむをえないものであったことが、ごく自然に分かりますものね。加屋霽堅との交流は、真清が「私にとっては忘れ難い思い出」と言っているくらいですから、強烈な印象が残ったのでしょうね。ご感想、ありがとうございます。

勝又 珠子 :石光真清の存在は近代史を学ぶ上で大変重要だと思うのですが、ご存じない方が多いですね。知人にもぜひ勧めたいと思います。私自身ももっと勉強します。有難うございました。




〈コメント〉

Commented by tengu さん
いやはや、
畏れ多くも我が法螺話を真面に受けて頂き、
なおかつ輪をかけて論述して下さりまして、
何とも忝く存じます。
武士道と言う人の履み行うべき道義たるものは、
武勇伝もさることながら、日常のささやかな
逸話から語られると承知しております。
あの時代にあの場所で、あの人が誰と何と、どうして、
どう思われたかのお話の伝承に見る武士の心意気ですね。

その、我が未知なる数頁を拝読奉り感得させて頂きました。
今改めてカルガモ母子を守る警官たちを見ますと、
江戸にワープして婦女子を守る侍の姿に見えます。
実に微笑ましく、滑稽でもありますが、
小さくて弱い命にとっては深刻な事態でもあります。
対象が人間様ではなく、手柄にもならないそれらを
職務として、かつ道義として守る警官には、
先人からの武士の魂が
宿っているのだと思ったことでした。

(当Facebookの記事のコメントと同文です)

Commented by 美津島明 さん
To tenguさん

二健さん、コメントをどうもありがとうございます。

テレビの時代劇でも、腐女子を震え上がらせる剣豪より、強きをくじき弱きを助けるヒーローにより強く武士道を感じますね。みんなそう感じるから、そういうタイプのサムライが主人公になるのでしょうね。そうしないと、視聴率が取れないのでしょう。

それと、潔さも武士道の大事な要素でしょうね。たとえば、死に際の悪いいまの民主党なんかには、武士道のカケラも感じられません。あれは、腐女子そのものです。だから、民主党は支持率が下がるばかりなのでしょう。

そう考えると、武士道は、テレビの視聴率や政党支持率の重要な要素でもあるようですW

Commented by 美津島明 さん
〔誤記〕
上記三行目の「腐女子」→「婦女子」です。「腐女子を震え上がらせる」のは、良いことですから、意味が通らなくなってしまいますねWW

Commented by tengu さん
たいへん結構な話に発展させて
頂きまして有難うございました。
つきましては、わがアメブロ「天狗仮面俳句怒号」に
記事として転載させて頂きました。
http://ameblo.jp/tengux/entry-11564129998.html

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