はじめに
美津島明さんのブログに、拙稿「私の日本国憲法試論」を掲げて頂きました。http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/403fef28be232a2d7805d0973651033b
拙稿のなかで国民主権の問題と関連して、「歴史の古い国は、一時的な『民意』では動かされない根本の精神がある」と書きました。また、美津島明さんの「先崎彰容『ナショナリズムの復権』(ちくま書房)について」http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/3678e53e48702eb1853a95afdac166ceを拝見し、国家・国民の価値体系の意味を改めて考えたくもなりました。
これらとも関連し、かつて書いたものですが、自分の天皇論も明らかにしたいと思いました。文藝同人誌『昧爽』第十三号「特集 天皇・皇室」(平成十八年十月一日)に寄せた小論です。これは小泉政権の終わりごろに、にわかに起こった皇室典範改正論議への批評の意味もこめて起筆しました。同誌編集部のご許可を得て、今回、若干の補筆をしてお送りします。(なお、引用文の漢字は現行の字体、いわゆる「新字」に統一しました。)
*
昨年十一月、いわゆる「女系」の皇位継承を盛り込んだ「皇室典範に関する有識者会議」の報告書が出て、年末年始、皇室典範の改正がにわかに現実味を帯び、一時は政局にまで発展する様相を呈した。しかしこの二月に秋篠宮妃御懐妊が発表されると、論議は急速に鎮まり、改正案の国会提出は見送られ、それ以降は宮妃の御出産を見守る状況に変わった。
皇室典範の改正とは、日本近代を省みれば憲法改正に並ぶ大事である。しかし小泉首相がどれだけそのことを認識していたのか、伝えられる言動から推して、まったく不明である。が、戦後形成された社会システムを、やや乱暴に「破壊」することを目指した内閣が、「象徴天皇」のあり方にまで手をつけようとしたことは、首相個人の資質を超えて、やはり象徴的事件にも見えた。それは戦後六十年、経済活動にのみ意を注ぎ、その他の国家として本来取り組むべき課題を疎かにしてきたこの国が、戦後的価値の偏差をもって、「天皇」をも新たに位置づけ直そうとした試みにも見えたからである。
「天皇」を、どう考えるかとは、この国にとって、やはり今なお最重要事の問題のはずである。古代以来、幾変遷してきた日本に、時代によってそのあり方は異なれど、常に天皇が「至尊」として存在したのは事実だからである。しかしでは「天皇とは?」と、大上段から問い質されると、ただただ舌たらずにしか答えられないのも、また事実である。とは言え、将来の日本の「かたち」に思い及ぶとき、「天皇」について考えるのはやはり必要なことのように思われる。これから試論として述べてみたい。
敗戦の翌年十一月に公布された日本国憲法は、第一条に天皇を「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定する。これはその年元旦の、いわゆる天皇の「人間宣言」と併せて、「神権天皇」を否定し、主権が天皇ではなく国民にあることを明確にするための規定であった。それは神話に由来し、国学、幕末の水戸学、尊攘思想を背景に、明治国家が創出した「天皇制」を、弱体化する意図から占領軍主導のもとで「押し付け」られたものである。しかし日本側が占領軍の意向に沿って、ただ唯々諾々とまったくすべてを受け入れたかと言えば、内実は必ずしもそうではない。
「人間宣言」は『五箇条の御誓文』を冒頭に置く。
「一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」
「一、上下心ヲ一ニシ盛ニ経綸ヲ行フヘシ」
「一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス」
「一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」
「一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」
この明治維新の国是は、占領軍から「人間宣言」の素案が示された際、日本側の要望として掲げたものであった。それを掲げた理由を後に、昭和天皇は、「民主主義というものは決して輸入のものではないことを示す必要」からと説明される。すなわち「民主主義」とは、明治以来の国是のなかにも存在し、「人間宣言」はこれを前提にして、日本近代に昂進した天皇を、「現御神(あきつみかみ)」とする観念を否定する目的だったというのである。
敗戦という未曾有の事態に直面し、占領軍の指令に基づく「改革」を強要された日本であったが、これを受け入れる際、日本側にも、もちろんかなり制約された形ではあるが、「改革」を自らの「論理」で咀嚼し実行する余地は残されていた。このことは日本国憲法第一条の解釈にも当てはまる。
「象徴」という、法律用語としては曖昧な言葉はしかし、それが指し示す内容が、天皇の伝統に合致し、何ら齟齬をきたさないという解釈が、これが公表された当初から存在し、「天皇親政」を建前にした時代がむしろ例外で、日本国憲法によって、「政体」は変化したが、「国体」は変わっていないという指摘が和辻哲郎から出され、それに対して、「国体」は変革されたと解釈した佐々木惣一との論争を招きながら、戦後、「象徴天皇」は徐々に浸透していった。
「戦後改革」における天皇の位置づけは、確かに占領軍の「日本弱体化」の一環としてなされたものであった。しかしこれは開国以来、列強包囲のもとで強国となるため、過度に装飾された天皇の「神聖」を解除する役割を果たした一面があったことも否めない。実際、戦後の改憲論においても第一条の「象徴天皇」規定は、その表現方法に差はあっても、おおむね踏襲されている。
現在八割前後の国民が「象徴天皇制」を支持していると各種の輿論調査は伝える。間接民主制の下で政治権力者を選び、その上に国政に直接、携わらない長い伝統に根ざした君主を戴く体制は、政治の安定に大きく寄与している。その意味で「象徴天皇制」が国民の大多数に支持されるのも納得がいく。しかしこれはひとつの大きな無理を抱えた体制でもある。それは当事者である天皇に、過度な禁欲と「公正さ」を求める体制でもあるからだ。
「天皇制」批判の大きな柱に、天皇・皇族の特権的身分を強調し、人間平等に悖る理不尽なものとして廃止を唱えるものがある。しかし「貧困」が見える形で存在せず、少しばかりの才覚で巨富を手にすることもできる現在の日本で、常に自己抑制が求められ、プライバシーも無く、何よりも公事が「一分の隙も無く」、優先されるその日常とは、嫉妬するには程遠い生活である。まさに常人には堪えられない自己犠牲の毎日である。それを知ると、むしろ逆に天皇・皇族の方々を、「おかわいそうに」という文脈から、「天皇制」の廃止が醸成される可能性の方が、リアリティを帯びる。
皇太子妃の「心の病い」の健やかな回復が待たれて久しいが、これも皇室の、緊張に囲まれた生活に一般から入ると、それがいかに重く圧し掛かるかを示している。しかも世襲を前提とする天皇の制度は、当然のことながら皇位継承者を産むことを皇太子妃に期待する。出産は、現在では一般の国民にとっては、個々人の判断に委ねられていると観念される。が、皇太子妃にとっては、「義務」のように観念される。これほど私人性が制限される生活は無い。
福田恆存は、″「象徴」という曖昧な言葉で、天皇を規定してはならない。「全国民が一体になる同胞感の『象徴』」を天皇に求めるとは、「身動きの出來ぬ非人間的な存在」に天皇を追い込んでしまう″と警告する。特に″天皇と交際が出来る人びと、昔で言えば貴族階級、が無い今日の日本で、「象徴」に祭り上げられるのは、「天皇の地位を二階に追ひあげて梯子をはづしてしまふ」「孤立」を強いる結果となる″(「象徴を論ず」『福田恆存全集』第五巻所収)。
具体的にイメージできない「象徴」という言葉は、状況次第でさまざまな意味を含ませられる。戦後、「天皇制」に否定的な人びとは、憲法第一条は天皇から、権力を剥奪した、「象徴に過ぎないもの」にしたと、その意味を極めて否定的に捉える。これに対し「象徴」とは、二十世紀型君主制の実質をよく表現したもので、過度に消極的に評価する必要はないと説く人びともいる。あるいは先に見たように占領軍ですら全面否定できなかった「神格」を、この言葉は保存し、あらゆる政治闘争から超越し、宗教的次元の尊厳を持つ天皇の権威を、ここから引き出し、「象徴」に積極的意味を見いだそうとする人びともあり、年を経るにつれ、後二者が多数派を形成していった。
「絶対者」を持たなかった日本近代に、その代用者として天皇が持ち出されたとは、いまや言い尽くされた通説だろう。それは世俗を超越する「絶対的唯一神」を持たなかったため、人間の背丈を越える構想力を持ち得なかった日本人に、千年以上の歴史感覚と社会性、公共性をも備える長期的視点でものを見る力を与える基いともなった。日本では神とは、具体的で感情移入もできる、「神のごときもの」である。人間が神になることとも何ら矛盾しない。これが消極的な形であれ、「象徴」という言葉に、天皇の「神格」を保存する役割を与えた。しかしこれが大衆社会の進行のなかで、天皇に過度な役割を負わせ、孤立する「身動きの出來ぬ非人間的な存在」にしてしまっているとなると、この「かたち」の存続がほんとうに望ましいのか、問い直す必要が生じないか。
三島由紀夫は、福田恆存との対談で、自分の言う「天皇制というのは、幻の南朝」で、天皇とは「国家のエゴイズム、国民のエゴイズムの」「一番反極のところにあるべき」、日本人が近代化に疲れ果てたとき「フラストレイションの最後の救済主」の位置に立つという。「天皇がなすべきことは、お祭りお祭りお祭りお祭り―それだけだ」と、自己犠牲的生活のなかで、ただ祭祀にのみ専念するのが天皇の勤めと、極言している。これは福田が「天皇制」の、世界性を持ち得ない限界を踏まえて、これとは別に普遍性を持つ原理を立てる必要、日本人は「もう少し二重に生きる道を考えなくちゃいけない」、という指摘を受けての発言である(「文武両道と死の哲学」『対談集 源泉の感情』所収)。
三島はつまり、天皇それ自体のなかにある理想を、生身の天皇とは別に、二重化して抽き出そうとしたのである。
「文化防衛論」で、「文化概念たる天皇」「文化の全体性の統括者としての天皇」を提起し、「文化の全体性を代表するこのやうな天皇のみが窮極の価値自体(ヴェルト・アン・ジッヒ)」であり、それが否定されるか、「あるひは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の又、日本文化の真の危機」であると結論した三島にとって、日本文化とは、伊勢神宮の式年遷宮に代表されるオリジナルとコピーを分別しない文化である。そこでの天皇の意義とは、独創性の対極にある古典の典型で、そのことによって、「独創的な新生の文化を生む母胎」となる、月並みでみやびな文化の「没我の王制」である。
この概念を先の対談の文脈に入れてみて考え合わせると、天皇は、没我の極みでひたすらに「お祭り(祭祀)」に専念すべき存在となる。しかし福田恆存が述べる通り、生身の人間である天皇に、実際にそれがどれだけ求められるか、三島もその理想はもはや「幻」であると認め、ある種のフィクションとして語っているふしが、対談のなかから汲み取れる。「もう少し二重に生きる道」を模索できないか。
近代主義の行き着くニヒリズムを超える概念として、三島の天皇論は魅力的である。が、「聖なるもの」を感知できなくなり、近代主義の一大分枝である個人主義イデオロギーが蔓延する現代社会に、それがそのままにどれだけ有効性を持つのか疑問でもある。
今上天皇は、古希を超えた今でも特別の事情がない限り、自ら宮中の祭祀を熱心に執り行われ、その御姿勢は同じく祭祀を重んじられた昭和天皇に優るとも劣らないという。神事に臨む前の準備とその最中の身体的精神的緊張は非常なものであり、極めて負担の重い勤めという。これを知る皇太子は自分がその勤めを引き継ぐことができるか自信が無く、それが囁かれる皇室内での皇太子御夫妻の「孤立」の背景にあるのではないかとも推測されている(原武史「対談『宮中祭祀』から見た皇室」『Voice』平成十七年八月号)。
この「重荷」を、世俗的近代社会を享受している大多数の国民が、「高貴な御身分」の宿命と、ひとり次代の天皇に背負わせて済ましていられるであろうか。もし天皇が日本という国家に重要な存在であるのなら、そのことを前提に、これまで通りの「象徴天皇」で良いのか、考え直す時期にそろそろ来ているのではないか。
三島は「幻の南朝に忠勤を励む」と激語を吐いたが、天皇の制度とは、生身の人間が「神」の役割を果たすフィクショナルな制度であり、その現実と虚構の伸縮のなかで「日本」は生成されてきたともいえる。天皇位とそれに即く天皇個々人は必ずしも同一の価値を持つのでは無く、「理想としての天皇」と、現実の天皇の落差を埋める「情熱」が、実は『神皇正統紀』以来、くりかえし歴史のなかで現れてきた。ここから「勤王」「恋闕の情」が、悲劇的末路をたどったのも日本の歴史の一方の真実である。しかし、そのくりかえしが「日本」の生命力を形づくったこともまた確かである。
天皇とは、いったい何であろうか。敗戦後、占領軍の神道指令が発せられた直後、日蘭交渉史と日本文化史の泰斗である板澤武雄は、この指令を「顕語をもつて幽事を取扱はんとするもの、例へば鋏をもつて煙を切るもの」と昭和天皇に感想を申し上げている。
「アメリカ流合理主義をもつて、日本のながい歴史によつて培はれた神秘主義(幽事)が切れるであらうか」、桶谷秀昭氏はこう説明する(『昭和精神史』)。
葦津珍彦は、永い日本の歴史のなかで空位時代が通算すると百年近くあるが、しかし天皇を戴いているという意識が歴史を貫いて存在した重さを語っている(『日本の君主制』)。
神話時代から今日まで幾変遷してきた日本は、そのなかに解き難い矛盾を内包してきた。「人間宣言」の冒頭に『五箇条の御誓文』を置いたことの趣旨は、先に述べたが、唐木順三は「御誓文中の『皇基』と天皇神話の否定とは、なかなか調和しがたい。皇基と主権在民ともまた同様であらう」と評している。しかしそれでもまだ「幾変遷はしたが、日本は日本として存続してゐる」とも吐露する(『歴史の言ひ残したこと』)。
天皇とは、日本人が歴史のなかで夢見たものが、いつのまにかほんとうのように動き出したものだったのかもしれない。
戦後が還暦を迎えた今、日本人がしばらく真剣に向き合うことを避けてきた、天皇を、改めて考え直す必要に迫られつつあるように思われる。
〔付記〕
小論の末尾に「平成十八年九月一日擱筆」と記しました。そしてこの五日後の九月六日に悠仁親王が御誕生となり、このときの皇室典範改正論議は終息しました。しかし、その後も皇位継承に絡む問題はくすぶり続け、今では公然と週刊誌までがこの問題を取り上げ、これに関連する皇族のゴシップ記事まで掲載する始末です。
小論のなかで述べましたが、私は、「天皇の制度とは、生身の人間が『神』の役割を果たすフィクショナルな制度」と考えています。そして、そのなかに「日本」の理想も託されてきたと考えています。しかし、その理想をせっかちに天皇個人や個々の皇族に投影しようとすると、ややもすれば、「幻滅」したり、「失望」したりすることもあります。とはいっても、この落差を埋める「情熱」が、「日本」の生命力を形づくってきた側面もあるとも考えています。
このことを三島由紀夫に学びつつ、二重化した「天皇」という観点から、自分なりに考えてみようと思い、小論を書きました。
美津島明さんのブログに、拙稿「私の日本国憲法試論」を掲げて頂きました。http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/403fef28be232a2d7805d0973651033b
拙稿のなかで国民主権の問題と関連して、「歴史の古い国は、一時的な『民意』では動かされない根本の精神がある」と書きました。また、美津島明さんの「先崎彰容『ナショナリズムの復権』(ちくま書房)について」http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/3678e53e48702eb1853a95afdac166ceを拝見し、国家・国民の価値体系の意味を改めて考えたくもなりました。
これらとも関連し、かつて書いたものですが、自分の天皇論も明らかにしたいと思いました。文藝同人誌『昧爽』第十三号「特集 天皇・皇室」(平成十八年十月一日)に寄せた小論です。これは小泉政権の終わりごろに、にわかに起こった皇室典範改正論議への批評の意味もこめて起筆しました。同誌編集部のご許可を得て、今回、若干の補筆をしてお送りします。(なお、引用文の漢字は現行の字体、いわゆる「新字」に統一しました。)
*
昨年十一月、いわゆる「女系」の皇位継承を盛り込んだ「皇室典範に関する有識者会議」の報告書が出て、年末年始、皇室典範の改正がにわかに現実味を帯び、一時は政局にまで発展する様相を呈した。しかしこの二月に秋篠宮妃御懐妊が発表されると、論議は急速に鎮まり、改正案の国会提出は見送られ、それ以降は宮妃の御出産を見守る状況に変わった。
皇室典範の改正とは、日本近代を省みれば憲法改正に並ぶ大事である。しかし小泉首相がどれだけそのことを認識していたのか、伝えられる言動から推して、まったく不明である。が、戦後形成された社会システムを、やや乱暴に「破壊」することを目指した内閣が、「象徴天皇」のあり方にまで手をつけようとしたことは、首相個人の資質を超えて、やはり象徴的事件にも見えた。それは戦後六十年、経済活動にのみ意を注ぎ、その他の国家として本来取り組むべき課題を疎かにしてきたこの国が、戦後的価値の偏差をもって、「天皇」をも新たに位置づけ直そうとした試みにも見えたからである。
「天皇」を、どう考えるかとは、この国にとって、やはり今なお最重要事の問題のはずである。古代以来、幾変遷してきた日本に、時代によってそのあり方は異なれど、常に天皇が「至尊」として存在したのは事実だからである。しかしでは「天皇とは?」と、大上段から問い質されると、ただただ舌たらずにしか答えられないのも、また事実である。とは言え、将来の日本の「かたち」に思い及ぶとき、「天皇」について考えるのはやはり必要なことのように思われる。これから試論として述べてみたい。
敗戦の翌年十一月に公布された日本国憲法は、第一条に天皇を「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定する。これはその年元旦の、いわゆる天皇の「人間宣言」と併せて、「神権天皇」を否定し、主権が天皇ではなく国民にあることを明確にするための規定であった。それは神話に由来し、国学、幕末の水戸学、尊攘思想を背景に、明治国家が創出した「天皇制」を、弱体化する意図から占領軍主導のもとで「押し付け」られたものである。しかし日本側が占領軍の意向に沿って、ただ唯々諾々とまったくすべてを受け入れたかと言えば、内実は必ずしもそうではない。
「人間宣言」は『五箇条の御誓文』を冒頭に置く。
「一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」
「一、上下心ヲ一ニシ盛ニ経綸ヲ行フヘシ」
「一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス」
「一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」
「一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」
この明治維新の国是は、占領軍から「人間宣言」の素案が示された際、日本側の要望として掲げたものであった。それを掲げた理由を後に、昭和天皇は、「民主主義というものは決して輸入のものではないことを示す必要」からと説明される。すなわち「民主主義」とは、明治以来の国是のなかにも存在し、「人間宣言」はこれを前提にして、日本近代に昂進した天皇を、「現御神(あきつみかみ)」とする観念を否定する目的だったというのである。
敗戦という未曾有の事態に直面し、占領軍の指令に基づく「改革」を強要された日本であったが、これを受け入れる際、日本側にも、もちろんかなり制約された形ではあるが、「改革」を自らの「論理」で咀嚼し実行する余地は残されていた。このことは日本国憲法第一条の解釈にも当てはまる。
「象徴」という、法律用語としては曖昧な言葉はしかし、それが指し示す内容が、天皇の伝統に合致し、何ら齟齬をきたさないという解釈が、これが公表された当初から存在し、「天皇親政」を建前にした時代がむしろ例外で、日本国憲法によって、「政体」は変化したが、「国体」は変わっていないという指摘が和辻哲郎から出され、それに対して、「国体」は変革されたと解釈した佐々木惣一との論争を招きながら、戦後、「象徴天皇」は徐々に浸透していった。
「戦後改革」における天皇の位置づけは、確かに占領軍の「日本弱体化」の一環としてなされたものであった。しかしこれは開国以来、列強包囲のもとで強国となるため、過度に装飾された天皇の「神聖」を解除する役割を果たした一面があったことも否めない。実際、戦後の改憲論においても第一条の「象徴天皇」規定は、その表現方法に差はあっても、おおむね踏襲されている。
現在八割前後の国民が「象徴天皇制」を支持していると各種の輿論調査は伝える。間接民主制の下で政治権力者を選び、その上に国政に直接、携わらない長い伝統に根ざした君主を戴く体制は、政治の安定に大きく寄与している。その意味で「象徴天皇制」が国民の大多数に支持されるのも納得がいく。しかしこれはひとつの大きな無理を抱えた体制でもある。それは当事者である天皇に、過度な禁欲と「公正さ」を求める体制でもあるからだ。
「天皇制」批判の大きな柱に、天皇・皇族の特権的身分を強調し、人間平等に悖る理不尽なものとして廃止を唱えるものがある。しかし「貧困」が見える形で存在せず、少しばかりの才覚で巨富を手にすることもできる現在の日本で、常に自己抑制が求められ、プライバシーも無く、何よりも公事が「一分の隙も無く」、優先されるその日常とは、嫉妬するには程遠い生活である。まさに常人には堪えられない自己犠牲の毎日である。それを知ると、むしろ逆に天皇・皇族の方々を、「おかわいそうに」という文脈から、「天皇制」の廃止が醸成される可能性の方が、リアリティを帯びる。
皇太子妃の「心の病い」の健やかな回復が待たれて久しいが、これも皇室の、緊張に囲まれた生活に一般から入ると、それがいかに重く圧し掛かるかを示している。しかも世襲を前提とする天皇の制度は、当然のことながら皇位継承者を産むことを皇太子妃に期待する。出産は、現在では一般の国民にとっては、個々人の判断に委ねられていると観念される。が、皇太子妃にとっては、「義務」のように観念される。これほど私人性が制限される生活は無い。
福田恆存は、″「象徴」という曖昧な言葉で、天皇を規定してはならない。「全国民が一体になる同胞感の『象徴』」を天皇に求めるとは、「身動きの出來ぬ非人間的な存在」に天皇を追い込んでしまう″と警告する。特に″天皇と交際が出来る人びと、昔で言えば貴族階級、が無い今日の日本で、「象徴」に祭り上げられるのは、「天皇の地位を二階に追ひあげて梯子をはづしてしまふ」「孤立」を強いる結果となる″(「象徴を論ず」『福田恆存全集』第五巻所収)。
具体的にイメージできない「象徴」という言葉は、状況次第でさまざまな意味を含ませられる。戦後、「天皇制」に否定的な人びとは、憲法第一条は天皇から、権力を剥奪した、「象徴に過ぎないもの」にしたと、その意味を極めて否定的に捉える。これに対し「象徴」とは、二十世紀型君主制の実質をよく表現したもので、過度に消極的に評価する必要はないと説く人びともいる。あるいは先に見たように占領軍ですら全面否定できなかった「神格」を、この言葉は保存し、あらゆる政治闘争から超越し、宗教的次元の尊厳を持つ天皇の権威を、ここから引き出し、「象徴」に積極的意味を見いだそうとする人びともあり、年を経るにつれ、後二者が多数派を形成していった。
「絶対者」を持たなかった日本近代に、その代用者として天皇が持ち出されたとは、いまや言い尽くされた通説だろう。それは世俗を超越する「絶対的唯一神」を持たなかったため、人間の背丈を越える構想力を持ち得なかった日本人に、千年以上の歴史感覚と社会性、公共性をも備える長期的視点でものを見る力を与える基いともなった。日本では神とは、具体的で感情移入もできる、「神のごときもの」である。人間が神になることとも何ら矛盾しない。これが消極的な形であれ、「象徴」という言葉に、天皇の「神格」を保存する役割を与えた。しかしこれが大衆社会の進行のなかで、天皇に過度な役割を負わせ、孤立する「身動きの出來ぬ非人間的な存在」にしてしまっているとなると、この「かたち」の存続がほんとうに望ましいのか、問い直す必要が生じないか。
三島由紀夫は、福田恆存との対談で、自分の言う「天皇制というのは、幻の南朝」で、天皇とは「国家のエゴイズム、国民のエゴイズムの」「一番反極のところにあるべき」、日本人が近代化に疲れ果てたとき「フラストレイションの最後の救済主」の位置に立つという。「天皇がなすべきことは、お祭りお祭りお祭りお祭り―それだけだ」と、自己犠牲的生活のなかで、ただ祭祀にのみ専念するのが天皇の勤めと、極言している。これは福田が「天皇制」の、世界性を持ち得ない限界を踏まえて、これとは別に普遍性を持つ原理を立てる必要、日本人は「もう少し二重に生きる道を考えなくちゃいけない」、という指摘を受けての発言である(「文武両道と死の哲学」『対談集 源泉の感情』所収)。
三島はつまり、天皇それ自体のなかにある理想を、生身の天皇とは別に、二重化して抽き出そうとしたのである。
「文化防衛論」で、「文化概念たる天皇」「文化の全体性の統括者としての天皇」を提起し、「文化の全体性を代表するこのやうな天皇のみが窮極の価値自体(ヴェルト・アン・ジッヒ)」であり、それが否定されるか、「あるひは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の又、日本文化の真の危機」であると結論した三島にとって、日本文化とは、伊勢神宮の式年遷宮に代表されるオリジナルとコピーを分別しない文化である。そこでの天皇の意義とは、独創性の対極にある古典の典型で、そのことによって、「独創的な新生の文化を生む母胎」となる、月並みでみやびな文化の「没我の王制」である。
この概念を先の対談の文脈に入れてみて考え合わせると、天皇は、没我の極みでひたすらに「お祭り(祭祀)」に専念すべき存在となる。しかし福田恆存が述べる通り、生身の人間である天皇に、実際にそれがどれだけ求められるか、三島もその理想はもはや「幻」であると認め、ある種のフィクションとして語っているふしが、対談のなかから汲み取れる。「もう少し二重に生きる道」を模索できないか。
近代主義の行き着くニヒリズムを超える概念として、三島の天皇論は魅力的である。が、「聖なるもの」を感知できなくなり、近代主義の一大分枝である個人主義イデオロギーが蔓延する現代社会に、それがそのままにどれだけ有効性を持つのか疑問でもある。
今上天皇は、古希を超えた今でも特別の事情がない限り、自ら宮中の祭祀を熱心に執り行われ、その御姿勢は同じく祭祀を重んじられた昭和天皇に優るとも劣らないという。神事に臨む前の準備とその最中の身体的精神的緊張は非常なものであり、極めて負担の重い勤めという。これを知る皇太子は自分がその勤めを引き継ぐことができるか自信が無く、それが囁かれる皇室内での皇太子御夫妻の「孤立」の背景にあるのではないかとも推測されている(原武史「対談『宮中祭祀』から見た皇室」『Voice』平成十七年八月号)。
この「重荷」を、世俗的近代社会を享受している大多数の国民が、「高貴な御身分」の宿命と、ひとり次代の天皇に背負わせて済ましていられるであろうか。もし天皇が日本という国家に重要な存在であるのなら、そのことを前提に、これまで通りの「象徴天皇」で良いのか、考え直す時期にそろそろ来ているのではないか。
三島は「幻の南朝に忠勤を励む」と激語を吐いたが、天皇の制度とは、生身の人間が「神」の役割を果たすフィクショナルな制度であり、その現実と虚構の伸縮のなかで「日本」は生成されてきたともいえる。天皇位とそれに即く天皇個々人は必ずしも同一の価値を持つのでは無く、「理想としての天皇」と、現実の天皇の落差を埋める「情熱」が、実は『神皇正統紀』以来、くりかえし歴史のなかで現れてきた。ここから「勤王」「恋闕の情」が、悲劇的末路をたどったのも日本の歴史の一方の真実である。しかし、そのくりかえしが「日本」の生命力を形づくったこともまた確かである。
天皇とは、いったい何であろうか。敗戦後、占領軍の神道指令が発せられた直後、日蘭交渉史と日本文化史の泰斗である板澤武雄は、この指令を「顕語をもつて幽事を取扱はんとするもの、例へば鋏をもつて煙を切るもの」と昭和天皇に感想を申し上げている。
「アメリカ流合理主義をもつて、日本のながい歴史によつて培はれた神秘主義(幽事)が切れるであらうか」、桶谷秀昭氏はこう説明する(『昭和精神史』)。
葦津珍彦は、永い日本の歴史のなかで空位時代が通算すると百年近くあるが、しかし天皇を戴いているという意識が歴史を貫いて存在した重さを語っている(『日本の君主制』)。
神話時代から今日まで幾変遷してきた日本は、そのなかに解き難い矛盾を内包してきた。「人間宣言」の冒頭に『五箇条の御誓文』を置いたことの趣旨は、先に述べたが、唐木順三は「御誓文中の『皇基』と天皇神話の否定とは、なかなか調和しがたい。皇基と主権在民ともまた同様であらう」と評している。しかしそれでもまだ「幾変遷はしたが、日本は日本として存続してゐる」とも吐露する(『歴史の言ひ残したこと』)。
天皇とは、日本人が歴史のなかで夢見たものが、いつのまにかほんとうのように動き出したものだったのかもしれない。
戦後が還暦を迎えた今、日本人がしばらく真剣に向き合うことを避けてきた、天皇を、改めて考え直す必要に迫られつつあるように思われる。
〔付記〕
小論の末尾に「平成十八年九月一日擱筆」と記しました。そしてこの五日後の九月六日に悠仁親王が御誕生となり、このときの皇室典範改正論議は終息しました。しかし、その後も皇位継承に絡む問題はくすぶり続け、今では公然と週刊誌までがこの問題を取り上げ、これに関連する皇族のゴシップ記事まで掲載する始末です。
小論のなかで述べましたが、私は、「天皇の制度とは、生身の人間が『神』の役割を果たすフィクショナルな制度」と考えています。そして、そのなかに「日本」の理想も託されてきたと考えています。しかし、その理想をせっかちに天皇個人や個々の皇族に投影しようとすると、ややもすれば、「幻滅」したり、「失望」したりすることもあります。とはいっても、この落差を埋める「情熱」が、「日本」の生命力を形づくってきた側面もあるとも考えています。
このことを三島由紀夫に学びつつ、二重化した「天皇」という観点から、自分なりに考えてみようと思い、小論を書きました。
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