編集者記:長いまえがきになることをお許しください。
以下は、ASREADという言論ポータルサイト(http://asread.info/)に掲載された小浜逸郎氏の論考です(掲載日五月二五日)。題して、「経済学を学ばなくても経済音痴は克服できる」。掲載については、著者ご本人とASREADの承諾を得ております。この場を借りて、あらためて感謝の念を表したいと思います。
当論考は、以前読んだ記憶があります。むろん、そのときも興味深い論考であると思いましたが、当ブログにぜひ転載させていただきたいと思ったのは、つい最近のことです。
そのきっかけは、施光恒(せ・てるひさ)氏の『英語化は愚民化』(集英社新書)を読んだことです。施氏は本書において、おおむね以下のような議論を展開しています。
″ヨーロッパが近代化を成し遂げるのには、宗教改革の過程において、ラテン語という当時の普遍語で書かれた聖書を土着語であるフランス語やドイツ語や英語に翻訳したことがきっかけになった。そういう翻訳作業を通じて、抽象的な観念や新しい語彙がそれらの土着語の中に作られ、土着語で高度な知的議論をすることが可能になっていった。それらの土着語で、次々に哲学書が書かれたこともその流れを加速させた。そのような文化の動向によって、土着語は国語となり自信をつけた一般国民の活力を引きだすことになった。また、日本が近代化を成し遂げたのも、欧米諸国の書物を盛んに日本語に翻訳して欧米思想の土着化を図り、日本語を豊かな国語に成長させることによってであった。つまり、近代化は基本的に、普遍から土着へという方向性によって成し遂げられたのである。その意味で、グローバリズムが主張するような土着から普遍へという一方向的な道すじに従うことは、中世世界への逆戻りを招来しかねない。″
私は、ざっくりと言ってしまえば、現代におけるいわゆる主流派経済学の術語が、上記のラテン語や近代以前の日本にとっての欧米語にあたり、生活感覚にあふれた一般国民の経済理解が土着語にあたるのではないかと思ったのです。そうして、小浜氏が当論考で喝破しているように、一般国民の「経済のことはよく分からない」として経済を語ることを敬遠する消極姿勢こそが、主流派経済学という今様ラテン語がエラそうに跋扈していられる事態を招いているのではないかとも思ったのです。
いま私は、「跋扈」という言葉を使いました。なぜか。それは、主流派経済学が基本的にはグローバリズムの流れに掉さしているからです。グローバリズムは、結局のところアメリカ型の超格差社会を招来することになるので、一般国民としては、それに組することで得るものはなにもありません。
要するに、われわれ一般人が身近なところで、普遍を装うグローバリズムの流れに抗するためには、小浜氏の論考のタイトルにあるとおり「経済学を学ばなくても経済音痴は克服できる」という姿勢を固めることが相当に有効であると思うのです。
そう考えると、当論考が俄然光り輝きはじめたのです。
経済学を学ばなくても経済音痴は克服できる (小浜逸郎)
2015/5/25
5月15日にPHP研究所で、経済評論家の三橋貴明氏、評論家の中野剛志氏と一緒に、特別シンポジウム「日本の資本主義は大丈夫か――グローバリズムと格差社会化に抗して」というのをやりました。当日参加してくださった多数の皆さんに、この場を借りて謝意を表します。
会の冒頭、私は次のようなことを申しました。
私は三年前くらいまでひどい経済音痴だった。キャピタルゲイン、プライマリーバランス、マネタリーベースなどという基礎的な経済用語すら知らないばかりでなく、経済に明るいある友人が三橋氏の本を読んでいるのを傍らから覗き込み、「なんだってまた、石橋貴明の本なんか読んでるんだ」と言ったくらいである。ところが、評論家稼業などを長年やっているのに、いくらなんでもこれではまずいと思い、その友人にサポートしてもらいながら少しばかり勉強するうち、マクロ経済の全貌がおぼろげながら見えるようになった。そうなってみると、マスメディアを中心に世の中に出回っている一部の経済学者、エコノミストたちの発言がとんでもない誤りであることがわかるようになり、また、そうした「知識人」の発言に同調して行動している政権担当者や政権に食い込んでいる人たちがいかに国民のためにならない間違った政策を実行しているかも明らかになった……。
こう言うと、英会話学校の広告みたいに、短時間で私が経済学理論をマスターしたことを自慢しているように聞こえるかもしれませんが、それとはまったく違います。私はいわゆる「経済学」など知らないという意味では相変わらず経済音痴で、特定の経済理論をマスターしているわけでもありません。そのことをわかってもらうために、上記の発言で言い足りなかったことを本稿で補足します。
経済のことはよくわからない、という人が多いですね。社会は、まるで地球の自然現象のように、ちっぽけな自分などはるかに超えた大きな流れで動いていて、特に経済界は、いろいろな立場の人たちの意向が複雑に絡み合い、その時々の集合心理であっちに動いたりこっちに動いたりするので、法則や予測を立てることができない。また経済学者は難しい用語を用いてもっともらしい理論を持ち出すし、エコノミストの言うことも人によってバラバラで、何を信じてよいのかわからない、と。
こうして多くの人々は、経済について考えるのをあきらめてしまっています。現代の経済理論って、難解な数式を使って法則らしきものを導き出しているようだけど、あれにはとてもついていけない。でもそれが理解できなければ、経済がわかったとは言えないだろう。だからやっぱり、経済問題や経済政策について考えるのは遠慮しておこう。頭のいい偉い人たちが言ったりやったりしているんだから、なんだかよくわかんないけど、一応それに任せておくほかはないんじゃないか。こちとら毎日生活に追われているしな……。
ところが、ここにこそ大きな落とし穴があります。経済学者やエコノミストは、いかにも長年の理論武装で経済の現実を正しく分析しているような顔をしていますが、そういう顔ができるのも、多くの人々が経済について考えるのを敬遠していて、その空隙につけ込んでいるからなのです。そうしてこの30年間ほど、そのつけ込みが功を奏して、いわゆる経済学の分野は、競争と効率さえ追求すればよいという新自由主義イデオロギーと、政府の債務を減らして支出を削ることがいいことだという、根拠のない財政均衡主義とにすっかり毒されてしまいました。
後者の好例は公共事業アレルギーですが、これと軌を一にするのが、歳費の節約(いわゆるムダをなくす)という発想です。この発想は、国民のルサンチマンと合体して、公務員の給料カットや国会議員減らしの政策として推進されています。先ごろ大阪都構想で敗北した大阪市長の橋下徹氏などは、なんと国会議員の数を半分にしろとか、一院制にしろとかとんでもないことを主張して、一定の支持を得ていました。これがとんでもない一番の理由は、この提案が日本の代議政体の破壊による全体主義化につながるからですが、それはともかく、かつて私は、こうした政策がどれくらいの節約につながるか計算し、そのデメリットを分析してみたことがあります。
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/d88685ce9a47d49c4edf040b19558e6a
その結果得られたのは、節約分は全公費のわずか0.3%であり、しかもただでさえ先進国中、最も少ない公務員数で何とかやっている日本の行政サービスが、劣化の道を歩むことが確実に予想されるという結論です。
さて消費増税、公共事業削減、TPP交渉、構造改革、聖域なき規制緩和、いわゆる成長戦略、外国人労働者受け入れ拡大策、ホワイトカラー・エグゼンプション、電力自由化、条件抜きの法人税減税、女性政策、農協改革など、近年の政権が取ってきた、あるいは取ろうとしている政策は、すべて先の二つの「毒」の産物なのです。これらの政策がパッケージとして施行されると(施行されつつあるのですが)、国民経済はやせ細る一方であり、これまで日本の経済力を支えてきた労働慣行や商業慣行、要するに よき文化・慣習の破壊に導かれることは確実です。
ところで、経済音痴がなぜこんなことを断定できるようになったのか。じつは、はじめに申し上げた「少しばかり勉強した」という、その「勉強」の方法、関心のもち方、目のつけどころをどこに置くかが決定的なのです。
「勉強」というと、勉強好きの日本人は、たいていまず大学や大学院に通って専門家に学ぼうとするか、学界で偉いと言われている先生が書いた「経済学入門」などの本を読んで基礎的な教養を身につけようとするか、または難しい理論書に肩を怒らせて取り組んだりします。しかし、それが間違いの元です。
『経済学の犯罪』(講談社現代新書)を著した佐伯啓思氏を読書会にお呼びした時、塾を経営しているある参加者が、「自分の塾に来ている生徒が経済学部を受験したいと言っているのですが、どうでしょうか」と質問しました。佐伯氏は言下に「あ、それはやめたほうがいいです」と答えて、会場の笑いを誘いました。
経済学や経済の理論を勉強することと、経済社会の現実が大筋でどうまわっているかを理解しその是非を判断することとはまったく別のことです。もちろん重要なのは後者です。その違いを簡単に整理してみると、次のようになります。
①現代の「専門学」と名のつくものは、価値観からの中立を装い、できるだけ脱倫理的・客観的な体裁を取ろうとする。しかし経済の現実を理解することにとって、ある学説や政策がどんな価値観を暗黙の前提にしているかを知ることは不可欠である。どんな言説も、純粋中立などということはあり得ない。中立、公正、脱倫理・没価値的・客観的な体裁を取っている言説ほど、じつはあるイデオロギーのドツボにハマっている傾向が強い。経済学に関してはことにこのことが当てはまるので、要注意。
②経済とは、現実の生きた社会における人間のダイナミックな活動である。したがって、その現実の活動からある法則性を抽出し、理論として提示されたものは、あくまで一つの仮説にすぎない。流動する現実がその仮説と食い違う実態を示すときには、仮説のほうを改めなくてはならない。しかるに、理論信仰に陥っている主流派経済学者たちは、そういう時、現実のほうが間違っていると固執する。
③経済を理解する上で重要なのは、国民生活にとってある不幸な現象がみられるとき(たとえば失業者の増加、賃金の低下、生活の困窮、企業の倒産)、なぜそうなるのかという問題意識を抱き続けることである。しかるにとかく学問の牙城に閉じこもりがちな「経済学者」たちは、概して理論の形式的な整合性にこだわり、こういう切実な問題意識に対して冷ややかな態度しか示さない。
もちろん、経済のことを考えるのに、ある程度の基礎知識は必要でしょう。しかし、それは経済「学」を学ばなくても、日ごろから上記のような問題意識を手放さず、世界情勢、国内情勢の生きた動きに絶えずアンテナを張っていれば、自然に身についてきます。
次に、自分の常識的な感覚(ただしマスメディアにマインドコントロールされていないかぎりでの)に照らして、この人の言説は信頼がおけると感じられる言論人を何人か見つけることです。その人たちの発言になるべく多く接していると、経済学上の語彙・概念がわかってきますし、同時に、その使い方を見ていれば、ある理論(たとえばトリクルダウン理論)が正しいか間違っているかも読めます。その人たちがたとえ少数派であろうと所属する世界で孤立しているように見えようと、そんなことは関係ありません。書物に関しては、そうした優れた洞察力を持つ人のものを何冊か読めば十分でしょう。
要するに、「勉強」というときに、「学問」的に権威とされている人の説を盲信しないことです。これはどんな勉強についても言えますが、特に経済に関しては顕著に当てはまります。たとえば東京大学教授の経済学者(私はここで三人の名前を思い浮かべています)だからといって、正しい説と指針を示しているかといえば、まったく反対で、いずれも新自由主義者であり、財政均衡主義者です。
ちなみに、政権与党の党首・有力政治家だけでなく、いまの野党で日本の経済危機の本質をきちんと理解している政治家は全然見当たりません。安倍政権の最大の弱点を突く政党が存在しないことを見てもそれがわかるでしょう。
マルクスは、経済社会の構成と運動を下部構造ととらえ、政治、宗教、芸術などの観念様式は、それによって大きく規定される上部構造だとして、社会をよりよくするには前者の解明こそが重要なのだと説きました。社会主義国家の崩壊とともに、マルクスの思想的な業績は忘れられたかに見えますが、彼のこの指摘は、依然として正鵠を射ています。
現代日本の政治家たちは、経済について真剣に考えることの重要性を忘れ、上部構造的な問題にばかり主力を注いでいます。頭でっかちになっているのですね。
いかがでしょうか。
本稿で訴えたかったのは、次のことです。
「経済は難しいから、自分は苦手だから、踏み込むのは遠慮しておく」という多くの人が抱いている感覚が、じつは間違った「経済学」をのさばらせる温床なのだということ。そういう遠慮をひとまず捨て去り、上に述べたような仕方で少し勉強してみると、意外とだれでもマクロ経済の動きが見えてきて、ある理論や政策のおかしさが判断できるようになるのだということ。国民の利益や福祉に少しも資することのないこうした理論や政策をきっぱりと拒否できるような人が、少しでも増えてほしいということ、以上です。
私のような経済音痴だった人間が、まさに発展途上のいま、実感を込めて言っているのですから、これは確かです。どうぞ、これまで経済問題を考えることを敬遠していた人たち、今日からでも「経済学」ではなく、現実経済の勉強を始めてください!
まずは手始めに、三橋氏だけではなくいろいろな人が執筆されているメルマガ「三橋経済新聞」の会員(無料)になり、これを毎日欠かさず読まれることをお勧めいたします。
以下は、ASREADという言論ポータルサイト(http://asread.info/)に掲載された小浜逸郎氏の論考です(掲載日五月二五日)。題して、「経済学を学ばなくても経済音痴は克服できる」。掲載については、著者ご本人とASREADの承諾を得ております。この場を借りて、あらためて感謝の念を表したいと思います。
当論考は、以前読んだ記憶があります。むろん、そのときも興味深い論考であると思いましたが、当ブログにぜひ転載させていただきたいと思ったのは、つい最近のことです。
そのきっかけは、施光恒(せ・てるひさ)氏の『英語化は愚民化』(集英社新書)を読んだことです。施氏は本書において、おおむね以下のような議論を展開しています。
″ヨーロッパが近代化を成し遂げるのには、宗教改革の過程において、ラテン語という当時の普遍語で書かれた聖書を土着語であるフランス語やドイツ語や英語に翻訳したことがきっかけになった。そういう翻訳作業を通じて、抽象的な観念や新しい語彙がそれらの土着語の中に作られ、土着語で高度な知的議論をすることが可能になっていった。それらの土着語で、次々に哲学書が書かれたこともその流れを加速させた。そのような文化の動向によって、土着語は国語となり自信をつけた一般国民の活力を引きだすことになった。また、日本が近代化を成し遂げたのも、欧米諸国の書物を盛んに日本語に翻訳して欧米思想の土着化を図り、日本語を豊かな国語に成長させることによってであった。つまり、近代化は基本的に、普遍から土着へという方向性によって成し遂げられたのである。その意味で、グローバリズムが主張するような土着から普遍へという一方向的な道すじに従うことは、中世世界への逆戻りを招来しかねない。″
私は、ざっくりと言ってしまえば、現代におけるいわゆる主流派経済学の術語が、上記のラテン語や近代以前の日本にとっての欧米語にあたり、生活感覚にあふれた一般国民の経済理解が土着語にあたるのではないかと思ったのです。そうして、小浜氏が当論考で喝破しているように、一般国民の「経済のことはよく分からない」として経済を語ることを敬遠する消極姿勢こそが、主流派経済学という今様ラテン語がエラそうに跋扈していられる事態を招いているのではないかとも思ったのです。
いま私は、「跋扈」という言葉を使いました。なぜか。それは、主流派経済学が基本的にはグローバリズムの流れに掉さしているからです。グローバリズムは、結局のところアメリカ型の超格差社会を招来することになるので、一般国民としては、それに組することで得るものはなにもありません。
要するに、われわれ一般人が身近なところで、普遍を装うグローバリズムの流れに抗するためには、小浜氏の論考のタイトルにあるとおり「経済学を学ばなくても経済音痴は克服できる」という姿勢を固めることが相当に有効であると思うのです。
そう考えると、当論考が俄然光り輝きはじめたのです。
経済学を学ばなくても経済音痴は克服できる (小浜逸郎)
2015/5/25
5月15日にPHP研究所で、経済評論家の三橋貴明氏、評論家の中野剛志氏と一緒に、特別シンポジウム「日本の資本主義は大丈夫か――グローバリズムと格差社会化に抗して」というのをやりました。当日参加してくださった多数の皆さんに、この場を借りて謝意を表します。
会の冒頭、私は次のようなことを申しました。
私は三年前くらいまでひどい経済音痴だった。キャピタルゲイン、プライマリーバランス、マネタリーベースなどという基礎的な経済用語すら知らないばかりでなく、経済に明るいある友人が三橋氏の本を読んでいるのを傍らから覗き込み、「なんだってまた、石橋貴明の本なんか読んでるんだ」と言ったくらいである。ところが、評論家稼業などを長年やっているのに、いくらなんでもこれではまずいと思い、その友人にサポートしてもらいながら少しばかり勉強するうち、マクロ経済の全貌がおぼろげながら見えるようになった。そうなってみると、マスメディアを中心に世の中に出回っている一部の経済学者、エコノミストたちの発言がとんでもない誤りであることがわかるようになり、また、そうした「知識人」の発言に同調して行動している政権担当者や政権に食い込んでいる人たちがいかに国民のためにならない間違った政策を実行しているかも明らかになった……。
こう言うと、英会話学校の広告みたいに、短時間で私が経済学理論をマスターしたことを自慢しているように聞こえるかもしれませんが、それとはまったく違います。私はいわゆる「経済学」など知らないという意味では相変わらず経済音痴で、特定の経済理論をマスターしているわけでもありません。そのことをわかってもらうために、上記の発言で言い足りなかったことを本稿で補足します。
経済のことはよくわからない、という人が多いですね。社会は、まるで地球の自然現象のように、ちっぽけな自分などはるかに超えた大きな流れで動いていて、特に経済界は、いろいろな立場の人たちの意向が複雑に絡み合い、その時々の集合心理であっちに動いたりこっちに動いたりするので、法則や予測を立てることができない。また経済学者は難しい用語を用いてもっともらしい理論を持ち出すし、エコノミストの言うことも人によってバラバラで、何を信じてよいのかわからない、と。
こうして多くの人々は、経済について考えるのをあきらめてしまっています。現代の経済理論って、難解な数式を使って法則らしきものを導き出しているようだけど、あれにはとてもついていけない。でもそれが理解できなければ、経済がわかったとは言えないだろう。だからやっぱり、経済問題や経済政策について考えるのは遠慮しておこう。頭のいい偉い人たちが言ったりやったりしているんだから、なんだかよくわかんないけど、一応それに任せておくほかはないんじゃないか。こちとら毎日生活に追われているしな……。
ところが、ここにこそ大きな落とし穴があります。経済学者やエコノミストは、いかにも長年の理論武装で経済の現実を正しく分析しているような顔をしていますが、そういう顔ができるのも、多くの人々が経済について考えるのを敬遠していて、その空隙につけ込んでいるからなのです。そうしてこの30年間ほど、そのつけ込みが功を奏して、いわゆる経済学の分野は、競争と効率さえ追求すればよいという新自由主義イデオロギーと、政府の債務を減らして支出を削ることがいいことだという、根拠のない財政均衡主義とにすっかり毒されてしまいました。
後者の好例は公共事業アレルギーですが、これと軌を一にするのが、歳費の節約(いわゆるムダをなくす)という発想です。この発想は、国民のルサンチマンと合体して、公務員の給料カットや国会議員減らしの政策として推進されています。先ごろ大阪都構想で敗北した大阪市長の橋下徹氏などは、なんと国会議員の数を半分にしろとか、一院制にしろとかとんでもないことを主張して、一定の支持を得ていました。これがとんでもない一番の理由は、この提案が日本の代議政体の破壊による全体主義化につながるからですが、それはともかく、かつて私は、こうした政策がどれくらいの節約につながるか計算し、そのデメリットを分析してみたことがあります。
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/d88685ce9a47d49c4edf040b19558e6a
その結果得られたのは、節約分は全公費のわずか0.3%であり、しかもただでさえ先進国中、最も少ない公務員数で何とかやっている日本の行政サービスが、劣化の道を歩むことが確実に予想されるという結論です。
さて消費増税、公共事業削減、TPP交渉、構造改革、聖域なき規制緩和、いわゆる成長戦略、外国人労働者受け入れ拡大策、ホワイトカラー・エグゼンプション、電力自由化、条件抜きの法人税減税、女性政策、農協改革など、近年の政権が取ってきた、あるいは取ろうとしている政策は、すべて先の二つの「毒」の産物なのです。これらの政策がパッケージとして施行されると(施行されつつあるのですが)、国民経済はやせ細る一方であり、これまで日本の経済力を支えてきた労働慣行や商業慣行、要するに よき文化・慣習の破壊に導かれることは確実です。
ところで、経済音痴がなぜこんなことを断定できるようになったのか。じつは、はじめに申し上げた「少しばかり勉強した」という、その「勉強」の方法、関心のもち方、目のつけどころをどこに置くかが決定的なのです。
「勉強」というと、勉強好きの日本人は、たいていまず大学や大学院に通って専門家に学ぼうとするか、学界で偉いと言われている先生が書いた「経済学入門」などの本を読んで基礎的な教養を身につけようとするか、または難しい理論書に肩を怒らせて取り組んだりします。しかし、それが間違いの元です。
『経済学の犯罪』(講談社現代新書)を著した佐伯啓思氏を読書会にお呼びした時、塾を経営しているある参加者が、「自分の塾に来ている生徒が経済学部を受験したいと言っているのですが、どうでしょうか」と質問しました。佐伯氏は言下に「あ、それはやめたほうがいいです」と答えて、会場の笑いを誘いました。
経済学や経済の理論を勉強することと、経済社会の現実が大筋でどうまわっているかを理解しその是非を判断することとはまったく別のことです。もちろん重要なのは後者です。その違いを簡単に整理してみると、次のようになります。
①現代の「専門学」と名のつくものは、価値観からの中立を装い、できるだけ脱倫理的・客観的な体裁を取ろうとする。しかし経済の現実を理解することにとって、ある学説や政策がどんな価値観を暗黙の前提にしているかを知ることは不可欠である。どんな言説も、純粋中立などということはあり得ない。中立、公正、脱倫理・没価値的・客観的な体裁を取っている言説ほど、じつはあるイデオロギーのドツボにハマっている傾向が強い。経済学に関してはことにこのことが当てはまるので、要注意。
②経済とは、現実の生きた社会における人間のダイナミックな活動である。したがって、その現実の活動からある法則性を抽出し、理論として提示されたものは、あくまで一つの仮説にすぎない。流動する現実がその仮説と食い違う実態を示すときには、仮説のほうを改めなくてはならない。しかるに、理論信仰に陥っている主流派経済学者たちは、そういう時、現実のほうが間違っていると固執する。
③経済を理解する上で重要なのは、国民生活にとってある不幸な現象がみられるとき(たとえば失業者の増加、賃金の低下、生活の困窮、企業の倒産)、なぜそうなるのかという問題意識を抱き続けることである。しかるにとかく学問の牙城に閉じこもりがちな「経済学者」たちは、概して理論の形式的な整合性にこだわり、こういう切実な問題意識に対して冷ややかな態度しか示さない。
もちろん、経済のことを考えるのに、ある程度の基礎知識は必要でしょう。しかし、それは経済「学」を学ばなくても、日ごろから上記のような問題意識を手放さず、世界情勢、国内情勢の生きた動きに絶えずアンテナを張っていれば、自然に身についてきます。
次に、自分の常識的な感覚(ただしマスメディアにマインドコントロールされていないかぎりでの)に照らして、この人の言説は信頼がおけると感じられる言論人を何人か見つけることです。その人たちの発言になるべく多く接していると、経済学上の語彙・概念がわかってきますし、同時に、その使い方を見ていれば、ある理論(たとえばトリクルダウン理論)が正しいか間違っているかも読めます。その人たちがたとえ少数派であろうと所属する世界で孤立しているように見えようと、そんなことは関係ありません。書物に関しては、そうした優れた洞察力を持つ人のものを何冊か読めば十分でしょう。
要するに、「勉強」というときに、「学問」的に権威とされている人の説を盲信しないことです。これはどんな勉強についても言えますが、特に経済に関しては顕著に当てはまります。たとえば東京大学教授の経済学者(私はここで三人の名前を思い浮かべています)だからといって、正しい説と指針を示しているかといえば、まったく反対で、いずれも新自由主義者であり、財政均衡主義者です。
ちなみに、政権与党の党首・有力政治家だけでなく、いまの野党で日本の経済危機の本質をきちんと理解している政治家は全然見当たりません。安倍政権の最大の弱点を突く政党が存在しないことを見てもそれがわかるでしょう。
マルクスは、経済社会の構成と運動を下部構造ととらえ、政治、宗教、芸術などの観念様式は、それによって大きく規定される上部構造だとして、社会をよりよくするには前者の解明こそが重要なのだと説きました。社会主義国家の崩壊とともに、マルクスの思想的な業績は忘れられたかに見えますが、彼のこの指摘は、依然として正鵠を射ています。
現代日本の政治家たちは、経済について真剣に考えることの重要性を忘れ、上部構造的な問題にばかり主力を注いでいます。頭でっかちになっているのですね。
いかがでしょうか。
本稿で訴えたかったのは、次のことです。
「経済は難しいから、自分は苦手だから、踏み込むのは遠慮しておく」という多くの人が抱いている感覚が、じつは間違った「経済学」をのさばらせる温床なのだということ。そういう遠慮をひとまず捨て去り、上に述べたような仕方で少し勉強してみると、意外とだれでもマクロ経済の動きが見えてきて、ある理論や政策のおかしさが判断できるようになるのだということ。国民の利益や福祉に少しも資することのないこうした理論や政策をきっぱりと拒否できるような人が、少しでも増えてほしいということ、以上です。
私のような経済音痴だった人間が、まさに発展途上のいま、実感を込めて言っているのですから、これは確かです。どうぞ、これまで経済問題を考えることを敬遠していた人たち、今日からでも「経済学」ではなく、現実経済の勉強を始めてください!
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