美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

美津島明 円地文子『女坂』を読む (イザ!ブログ 2013・3・31、4・1 掲載)

2013年12月12日 00時02分46秒 | 文学
今回、数人程度でほそぼそと継続している文学系の読書会で、円地文子の小説『女坂』(新潮文庫)を読みました。私にとって、はじめての円地体験でした。



だから円地文学のなかで、この作品がどのように位置づけられるのか、皆目見当がつきません(その次に晩年の作である『菊慈童』を読んでみましたが、円地文学が想像を絶する巨峰であることを思い知りました)。

しかしながらこの作品が、日本近代文学のなかで傑出した出来栄えを示していることだけはおそらく間違いない、と私は感じました。ざっくりと言ってしまえば、ベスト・テンくらいに入るのではないでしょうか。

いきなり結論めいたことを言いかけました。順を追ってお話しましょう。

まずは、登場人物について。

主人公は、白川倫(とも)。当小説の主人公。細川藩(いまの熊本県)の下級武士の血筋を引く。当小説は、倫の二〇代から六〇代までの四〇年間を扱っています。時代で言えば、明治一〇年代から大正初期までとなりましょうか。正確には分かりません。白川家という名家における彼女の、内助の功というよりも「影の大黒柱」としての筆舌に尽くしがたい苦労が鮮明に描かれています。「倫」は、倫理の倫に通じ、倫に、人間の踏み行うべき道についてのこだわりがあることを暗示しているのではないでしょうか。「不倫なこと、没義道なことを行友の生活で見過ぎて来た倫は、鷹夫にいくら煙たがられてもそういう不倫を再び愛する孫の上に見ようとは金輪際思わないのだ」(P207)という言い方からも、そう感じます。

白川行友。倫の夫。福島県で大書記官を、その後東京で一等警視を歴任。川島県令(後、警視総監)の部下として、権勢を恣(ほしいまま)にし「わが世の春」を謳歌し続ける。川島県令のモデルは、三島通庸(みちつね・自由民権運動を徹底的に弾圧した福島県令として悪名高い人物)。ほっそりとした上品そうな風貌の下に、旺盛な支配欲を貫くためには手段を選ばぬ酷薄さを隠し持つ人物として造形されています。

須賀。行友の妾。行友の意向に従って倫が選ぶ。一五歳で白川家に入る。家は竹の皮屋を営んでいたのだが、経営難に陥り、行友に金で買われることになった。そういう哀れな境遇にわが身があることを思い知った、はじめての夜の痕跡は、次のように描写されます。

ある朝須賀が頭痛がするといって起きて来なかった。学校から帰った悦子(白川家の長女―引用者注)が折り紙を持って新座敷(行友が須賀のために、裏庭の果樹園のそばに建てたー引用者注)の次の間に入ってゆくと須賀は、
「お嬢さま」
といって床の中からなつかしそうに悦子を見上げたが、瞼が水を含んだように腫れていた。
「あら、須賀ちゃんの眼、今日は一重瞼よ」
悦子は何げなくいったが須賀は、眩しそうに手で目をおさえてあからんだ。昨夜の思いがけぬ出来ごとを悦子にのぞきこまれたように感じたのである。


私には、この描写ひとつで、円地女史が並の筆力でない作家であることが感じられます。みなさんは、この描写によって無限の想像が掻き立てられるとは思われませんか。なにゆえ須賀の眼はそんなに腫れていたのか、とか。

由美。行友のもうひとりの妾。須賀が一八歳のとき、一六歳で白川家において妾奉公をし始める。生家はその昔、大小名の用人格。須賀が自分の運命に翻弄される哀れな女として造形されているのに対して、由美は、過去へのこだわりを過剰には持とうとしない、あっさりした、強い生命力を持った女として造形されています。後に、倫の甥・岩本と所帯を持ちます。由美が白川とはじめて肉体関係を持ったことを示す次の描写も、これまた秀逸です。

白川がどこでどういう風にしたのか、ある日土蔵の壁の厚い観音開きの陰で、細い肩をふるわして由美が泣いているのを須賀は見つけた。
「どうしたの・・・・・お由美さん、どうしたの」
と肩へ手をかけて、うしろからのぞき込むと、由美はいよいよ袖(そで)の中に顔を隠してすすり泣いた。その肩のゆすれる度に一種の感覚が須賀の身体に響いてきて、須賀は言葉をきかないでも、由美の悲しんでいる原因がはっきり胸に来た。
「お由美さん・・・・・解ってよ、解ってよ、私だって同じだったんですもの・・・・・」
須賀はいいながら涙が瞼に溢れて来て鼻声になった。由美はその声で眼ざめたように須賀を見上げて、須賀の涙を一ぱい湛えた大きい瞳をみると、急に又悲しみがこみ上げて来たように須賀の胸に顔を埋めて烈しく泣き出した。須賀も貰い泣きしながら由美の細い肩を撫でさすってやったが、華奢な骨組に堅い肉が薄くしまって若竹のように強く撓(しな)う身体つきだった。小麦色の肌理(きめ)の少し粗い皮膚も男性じみて須賀にはこころよかった。


須賀の悲しみの芯に、性的な倒錯の甘美さが織り込まれていることが鮮明に描写されています。しかしながら、作者はそのことに過剰に美的な思い入れを込めようとしているわけではありません。そんなひとりよがりな目論見はまったく感じられません。作者はあくまでも、心理的なリアリティを追及するプロセスにおいて、そういう要素を取り上げているのにほかならないのです。私は、こういうところに、円地女史の達意の筆力を感じます。このことには、表現力というテーマをめぐって、微妙ながらも決定的な重要性が存すると、私は感じるのです。つまり女史は、どうやら、人間の心理を描写するうえでの絶妙な、それ以上でもそれ以下でもない正確無比の距離感を体得してしまった作家であるようなのです。私は、次の描写にかんしても同じような感想を持ちます。これは、秘匿していた持病の痔疾が露見した須賀を、倫が介抱する場面です。

倫はよろよろする須賀の肩に手をまわして抱いてやった。二人の女はもつれあうように廊下をよろめきながら歩いて行ったが、須賀を便所に入れたあと倫はふと気づくと廊下にも自分の着物の裾にも真っ赤な血が滴っていた。倫は顔をしかめてその血を見た。須賀の身体から流れた血だ。あさましい汚い感じがした。それに蔽い被(かぶ)さるように言いようのないあわれさが倫を捕えた。

行友の妾が流した血を不浄のものとして感じることと彼女に対して尽きせぬ同情の念を抱くこととが、倫に同時に押し寄せている様子の描写が鮮やかです。人が、ほかの人に対して抱く思いや情は、年齢を重ねるほどに一筋縄でいかないものになっていきます。そのリアリティが、作者の曇りない眼で的確に捉えられています。ここで特に注意したいのは、この描写に触れて、読み手には、作者の人間認識をめぐる過剰な自意識が残るのではなく、あくまでも、この小説の登場人物としての倫の心理の綾が鮮烈に残る、ということです。それは、円地女史が人間心理に関する「正確無比な距離感」を体得していることによってもたらされているのではないでしょうか。少なくとも、無関係とは言えないでしょう。これを違った風に言えば、人間音痴が圧倒的な筆力を獲得するのは逆立ちしても無理なこと、となりましょう。

道雅。白川家の長男。粗暴な知恵遅れとして造形されています。いまなら、「広汎性発達障害」と認定されるにちがいない人物です。存在するだけで周りの人々にストレスを感じさせる人って、あなたの周りにもいるでしょう?どこがどうと具体的にはっきりとは言えないけれど、とにかく我慢ならない思いを周りに抱かせるタイプの人物。そういうパーソナリティの持ち主の有り様を、「広汎性発達障害」などというラベリングが不在であった時代(本小説は一九三九年に上梓された)に、的確に描写しえた女史の、曇りなき人間観察眼には敬服するよりほかはありません。道雅はたとえば次のように描写されます。

食物が出れば餓えた子供のようにがつがつ食べるし、口をきけばいやな匂いのような不愉快さを必ず相手になすりつけた。道雅がそこにいるだけで、周囲の雰囲気は異様に醜くなった。

美夜。道雅の二番目の妻であると同時に、行友の愛人となる女性。道雅との間に七人の子供をもうける。ちなみに道雅は、実父と自分の妻との間の乱倫の関係に最後まで気が付きません。美夜の女性像は、次のように描かれています。

美夜は、写真にでも撮れば、須賀や由美ほどに輪郭のととのった美人型ではなかったが、華奢な骨組に川魚のような軟かい肉が繊細にまとっていて、顔も手も足も皮膚一様にどこも桜の花びらのような薄花色に匂っていた。下唇のこころ持ちつき出たゆるみ加減の受け口と細い目の尻に、笑うと得もいえぬ愛嬌がこぼれ、今にも溶けてしまいそうな危げな美しさになった。身体つきの華奢なせいか動作も軽々としなやかで、少し鼻にかかる下町訛のなめらかな言葉つきも、官員風にかたくるしい白川の邸内では珍しく晴々と聞こえる。

主要な登場人物はこんなところでしょう。ほかに、行友・倫夫婦の長女・悦子、道雅と最初の妻との間でもうけた長男で東京帝大生の鷹夫、道雅・美夜夫婦の長女瑠璃子、同じく次男の和也などが登場します。

次に、あらすじについて。

本小説は、三章仕立ての典型的な三人称小説です。作者は、この小説世界を司る神のように振舞っています。いいかえれば、描写の細部に至るまで、作家としての「見えざる手」の所在が感じられる作品であるといえましょう。

第一章

最初に、夫の行友の意向を受けての、倫の妾探しの紆余曲折と須賀に白羽の矢が立てられるまでが描かれます。次に引用するのは、妾候補としての須賀の踊りを眺めているときの倫の心理描写です。むろん、須賀は倫の側の入り組んだ事情など何も知りません。

舞台の上で顔を傾けたり、身をそらしたり、色々な艶かしい姿態をつくって、主に男女の情事を表現している須賀の実際には半分子供のような無邪気な肉体を眺めていると、倫にはこの未熟な娘が自分の邸へ連れて行かれ、あの女をなずけることの上手な良人の手で、どんな風に手ならされ、変わってゆくか、思わず眼を閉じ息をつめた。眼の前に良人と須賀のからみあった四肢が浮び、頭へ血が上って来て、倫は悪夢をはらいのけるように眼をみひらいた。眼の前に大きい蝶のように舞っている娘の運命については、切ない同情が浮び、同時に嫉妬が熱い急流になって全身をかけめぐった。

倫は、生きている間ずっとこういう切迫した思いを堪えに堪え抜いたのでした。

次は、行友による須賀の寵愛ぶりが描かれます。引用は、自由党の運動員を自らの手で銃殺し、傷を負って荒れすさんだ心をぶつけるようにして倫を抱いた行友が彼女の部屋を去る場面です。この段階では、倫は行友の心事を詳らかには知りません。

暁に白川は新座敷に帰って行った。須賀について白川は一言も倫に言わなかったが、まだ手に入れていない幼い須賀に、血まぶれのあらくれた性欲をぶつけることを怖れたのだろうと倫はひとり床に戻ってから唇をかんだ。傷ついたまま一散に自分に走りこんで来た夫にある限りの情熱を捧げた後だけに、自分の愚かさをみくびりぬいて嘲(あざ)笑っている夫の顔が食いちぎりたいほど憎く感じられる。

須賀が自分を頼りにする気持ちに一点の瑕疵をもつけないようにするために、行友は、倫の身体と心を公衆便所のように粗雑に扱っています。それだけではありませんでした。事の真相を知った後、倫は妻としての心理的な深手を負うことになります。

翌日の新聞は、白川大書記官が自由党の秘密集会を急襲した帰途、数名の壮志に狙撃され自分も薄傷(うすで)を負いながらその一人を拳銃で射殺した記事がのっていた。ピストルをうったことを白川は倫に言わなかったが、何ヶ月目に自分を求めてきたのが人を殺したあとの心身の殺伐な昂奮を処理するためだとはっきり解るほど倫は切なかった。

この章の最後は、白川が抹殺したはずの自由民権運動の志士・花島が彼の眼の前に現れて、時代の変化を告げるところで終わります。

第二章

まずは、美夜が白川家の長男・道雅に嫁ぎ、旅先の江ノ島で義父・行友と情を交わしたことが暗示され、二人がずぶずぶの乱倫関係にのめり込んでいく様が的確に描写されます。次の場面は、阿弥陀さまが拝めるという言い伝えのある二十六夜の月を愛でるために白川家に集った知人たちの眼を欺くようにして、離れの美夜のところに行友が忍び込んだことに気づいた女中の牧が、須賀にそのことをそれとなく告げ、それを倫が素早く小耳にはさむところです。

「今夜も・・・・・若奥さま、風邪をひいたってお離れにお一人・・・・・」
須賀は又声をのんだ。行友がさっき座敷をはずしたのはそこへ忍んで行ったのであろう。
倫は今二階で客を相手に碁をうっている道雅のぬっぺり白い顔にすわって動かない三白眼を思い浮かべてぞっと鳥肌立った。道雅がもしこのことに気づいたらどんなおそろしいことが捲き起こるだろう。行友の好色にこれまで幾度となく苦い塩を嘗めさせられながら、倫はまだ行友の中に自分と同じ道徳が保たれていることを信じていた愚かさに愕然とした。息子の嫁という越えてはならぬ筈の関を行友は平気で踏み破っている。行友にとっては女は一様に雌に過ぎないのだ。


この箇所から、倫にとって、美夜のことが、夫婦の絆と呼べるほどのものに破壊的な作用を及ぼしていることが分かるでしょう。

次に、由美の結婚が描かれます。行友が由美の結婚を許した事情は、次のように語られています。

由美は須賀ほどに行友が寵愛していない女であったから、美夜の出来たこのごろではもう六十に手の届く行友には由美のいることはむしろ重荷になって来たにちがいない。
 行友はそれとなく、由美に暇をとって、堅気な人妻になるように奨め、由美もその気になっていることを倫は須賀のはきはきしない、奥歯にものの挟まったような話しぶりから略々(ほぼ)推察することが出来た。


行友の、なんとも身勝手な事情であるとは思うのですが、由美はそういうことにこだわるタイプの女性ではありません。それはそれとして、過去のことはさっさと忘れ、これからを生きていこうとする前向きな性格の持ち主なのです。由美は、倫の甥の岩本と新橋界隈に小さな葛籠(つづら)屋を生業とし糊口をしのぐことになる。由美は人としてまっとうな道を歩む存在として描かれていると言っていいでしょう。むろん作者は、二人の結婚を手放しで礼賛するのではなくて、岩本が由美と結婚する意識を、江戸時代の家来がご主人様からお手つきの女をありがたく頂戴するそれと変わらぬものとしてリアルにきちんと描いています。

それに続いて、須賀の、紺野という出入りの書生に対する淡い恋情めいたものが描かれます。それは、恋情とも呼べないほどのはかない末路をたどることになります。そこに、行友の好色の犠牲者としての須賀が暗示されているように、私は受けとめました。

第三章

鷹夫が瑠璃子に対して抱く、異母兄弟としての危険なエロスが、蝶のシンボルを使って見事に表現されています。そうして、その危うさに勘の鋭い倫はいちはやく気づきます。乱倫をも辞さない好色が白川家の血であることを、倫ははっきりと意識しているのです。引用文中における瑠璃子の話し相手は鷹夫です。

「あ! 又先刻(さっき)の蝶々・・・・・」
瑠璃子は甲高い声でいって手にしていた塗柄(ぬりえ)の絵団扇(えうちわ)でさっと空を切った。
 蝶々はやっぱり二羽、烏羽揚羽(からすばあげは)が番(つがい)のようにもつれて、座敷の角の柱のあたりをひらひら舞っている。
「さっき薄(すすき)のところで君の傍にひらひらしてたのと同じじゃないか」
「そうなの、私が庭へ出てからずっとまつわって飛んでいるの・・・・・お兄さま、私何だかこの蝶魔物みたいで厭なの・・・・・私に不幸を持って来る黒衣の悪魔みたい・・・・・」
「はははは」
鷹夫はからびた声で笑った。
「そらそら又来たわ・・・・・大兄さな、これ掴まえてよ・・・・・」
「掴まりゃしない、蝶の方が僕より早いよ」
 言いながら、鷹夫は瑠璃子の手から絵団扇をとって、ひらひら飛んでいる蝶を一つ大きく払うと、蝶は低く床を掠めて、瑠璃子の頬のあたりへさっと舞い上がった。
「ああ、いや! いや、大兄さま」
 瑠璃子は少女らしいけたたましい声を上げて、鷹夫の胸に顔を押しつけた。背に溢れる髪が波立ち、肩が小鳥のようにわなないている。何とも知れぬ甘い匂いが瑠璃子のより添っている身体から流れてきて、鷹夫は思わず一ひしぎに砕けそうな妹の華奢な肩を骨張った手でやさしく撫でた。


いかがでしょうか。この場面が醸し出す危険な甘味に思わずうっとりしてしまいませんか。最後の「骨張った手で」という言葉が随分効いていますね。これは、鷹夫に不意に到来した性欲とその勃起した男性器を暗示してあまりある言葉です。

この場面を遠くから一瞥(いちべつ)するだけで、倫はその危険性にはっきりと気づきます。そうして、瑠璃子をそそくさと嫁にやり、その危険性が現実のものとなるのを未然に防ぎます。鋭敏な鷹夫は、秘匿していたつもりの胸の内を祖母の倫に見抜かれていたことを悟り、以後、なにくれとなく可愛がってくれていた祖母から心理的に遠ざかります。そのことに対しても、倫は自覚的なのです。

瑠璃子を鷹夫の心から否応なしにひき放すことの出来た代償に倫はそれまで鷹夫が自分に開けひろげて見せていた裸の心を隠すようになったのを知った。

前後しますけれど、蝶のメタファは、先ほど触れた二十六夜の場面でも小道具として大きな効果を上げています。

倫の見つめる月の光にはしかし、仏の影は浮かばないで、白い蝶が二つもつれて淡い靄(もや)の中に飛び交って見えた。

これは、もちろん、行友と美夜との乱倫の交情のメタファです。蝶の白と黒との対比は、もちろん意識的なものでしょう。

話を進めることにしましょう。

行友から寵愛の限りを尽くされた美夜があっけなく若死にします。そんな彼女に対する行友の思いはあくまでも身勝手なものです。

今更死んでいく美夜の口から懺悔のような言葉をきかされるのは行友には苦々しかった。美夜は夜の闇の中で放恣な触感と匂いを溶かし流す娼婦として死んで行ってほしい。行友は漠然と美夜が死の際に自分に向ける眼をおそれてこの七日ほど病院に行っても意識して美夜と二人になることを避けていたのである。

この幼稚とも言える身勝手さや、人を愛せずに自分のことばかりにこだわる資質は、実は、長男の道雅に引き継がれているのではないでしょうか。作者にとってそれは織り込み済みのことなのではないかと、私は考えます。

いよいよ本小説の大円団にさしかかってきました。「女坂」という本小説の最後の小見出しの数ページ後で、倫は次のような感慨を述べます。

行友が八〇まで生きたにしても、自分はまだその時に七十にはなっていない。それまでの辛抱なのだ。それまでに行友に負けてはならない。自分の命が行友に勝たなければならないのだと思い、同時にその考えが夫と妻という関係で結ばれている世間一般の通念から何とかけ離れて遥かな冷たさの中に保たれているかと、わが身も凍るような寂しさを感じるのであった。

当作品の登場人物が述べている。「白川家の栄えているのは行友の器量よりも、倫の縁の下の力持ちがほんとうの根になっているのだ」と。まったくそのとおりというよりほかにありません。そのために払った倫の代償はとてつもなく大きなものでした。そのことが、直前の引用から、ここまでお読みいただいた皆さまにもお分かりいただけるのではないでしょうか。

ところが、運命の女神は倫に微笑むことを拒み、彼女に死病を賜ります。倫の痛切な胸の内は察するにあまりあります。倫は、病の床に伏すことになり、二度と起き上がることができなくなります。

そうして、私たちはこの小説の最も大事なところに立ち会うことになります。それについては、どうやら話が長くなりそうなので、稿を改めようと思います。


*****

前回の最後のところで、「私たちはこの小説の最も大事なところに立ち会うことになります」と申し上げました。では、「この小説の最も大事なところ」とは、いったいどこを指すのでしょうか。それは、次の引用の箇所です。死の床に伏した倫(とも)が、臨終の間近に迫った二月の末の夜に、決然として激しい言葉を言い放つ場面です。引用中に登場する豊子とは行友の姪で、藤江とは道雅の三人目の妻です。

「豊子さん」
 今までうつらうつら眠っているようだった倫が大きく眼をひらいて枕の上の顔をこっちへふり向けて呼んだ。豊子が返事をしながらにじり寄ると、藤江はあわてて姑(しゅうとめ)の頭をおさえた。余り急な強い動かし方で吐き気が来るのを怖れたのだったが、倫はうるさそうに頭を振って藤江の支えている手を払いのけた。感情を露骨に出したことの殆どない倫のそういうあらくれた動作に二人はぎょっとして、倫のこめかみのげっそり落ちた白髪まじりのそそけた鬢(びん)のあたりを気味悪くみつめた。倫は頭こそ上げなかったが半身をもち上げるほどの力の籠った声で一気に言った。
「豊子さん、おじさま(行友のこと)のところへ行ってそう申上げて下さいな。私が死んでも決してお葬式なんぞ出して下さいますな。死骸を品川の沖へ持って行って、海へざんぶり捨てて下されば沢山でございますって・・・・・」
 倫の眼は昂奮に輝いて生々していた。それは日頃の重くたれた眼瞼の下に灰色っぽく静まっている眼(まな)ざしとは似ても似つかぬ強さにあからさまな感情を湛えていた。


ここに、倫の行友に対する長年の溜まりに溜まった欝情を一気に晴らそうとする倫の「鬱憤ばらし」を読み取ろうとするのは、誤りとは言えませんが、それだけで終わってしまっては、倫の思いの表面を撫でただけのことにしかなりません。倫の一世一代の啖呵が私たち読み手に与える衝撃の根拠はもっと深いところにある、というのが私の見立てなのです。

ではその根拠は、どれくらい深いところにあるのかといえば、それは、私たち人間が人間であることの根底に触れるほどに深いところにあると私は考えています。

それを説明するために、私は本作品からひとまず離れて、ヘーゲルの『精神現象学』に触れることになります。別に奇を衒った物言いをしようとしているわけではないので、安心してお付き合いください。

ヘーゲルは『精神現象学』で、家族にとって「弔う」とはどういうことなのかについておおむね次のように述べています。すなわち、家族という共同態の、メンバーに対する最後の義務は、「弔う」ことである、と。別言すれば、家族が、そのメンバーの死を自然の破壊力のなすがままに放置することは決して許されることではなくて、死者を「弔う」ことによって家族共同体のうちにすなわち人間の側に引き寄せて永遠に安らぐように配慮しなければならないと言っているのです。この言い方は、多くの人の腑にすとんと落ちるものがあるのではないでしょうか。

ではなにゆえ、「弔う」ことは家族の義務なのでしょうか。その根底にはなにがあるのでしょうか。それについて、ヘーゲルは次のように述べています。

死者は、その存在がその行為や否定的な統一力から切り離されるから、空虚な個物となり、他にたいして受動的に存在するものでしかなくなって、すべての低級な理性なき生物や自然の元素の力の餌食となる。理性なき生物はその生命ゆえに、自然の元素はその否定力ゆえに、いまや死者よりも強いものとなっているのである。無意識の欲望や元素の抽象的な力にもとづくこうした死者陵辱の行為を防ぎとめるのが家族であり、家族はみずから行為を起こすことによって血縁者を大地のふところに返し、不滅の原始的な個たらしめる。それによって、死者は共同世界の仲間に引きいれられるので、この共同世界は、死者を思うさま破壊しようとする元素や低級な生物を配下におさめ、その力を配下におさめ、その力を抑制するのである。

ヘーゲルはここで、人間の本質を徹底して反自然的なものとして描いています。私には、「人間の本質は人間そのもの以外に考えられない。自然にそれを求めようとするのは悪しき抽象化である」というヘーゲルの肉声が聴こえてくるように感じられます。「地球に優しい」ことが絶対の正義のようになってしまった当世において、「反自然的」などという言葉は、誤解や曲解や半可通的な情緒的反発を招きやすいのでしょうが、ヘーゲルのみならず私としても、ここは譲れないところです。

人間は、どこまでも反自然的な存在なのです。人はひとりで生まれてひとりで土に帰っていくのではありません。人は人々の只中から生まれ、人々の只中へ帰っていくのです。それが人間の宿命なのです。人間は、森羅万象を「意味」として把握するほかない、言い換えれば、人間のあらゆる実践は、自分が世界をどう把握しているのかの表出・表現としてあるほかない、という避けようのない事実に、そのことはあからさまに露呈されていると私は考えます。

死は、人間の本質としての反自然性を根底から揺るがしかねない重大時です。なぜなら、ヘーゲルがいうように、死をきっかけに「理性なき生物はその生命ゆえに、自然の元素はその否定力ゆえに、いまや死者よりも強いものとなっている」からです。それは平たく言えば、野放しにされた死体は野犬の餌になりかねないし、腐食作用によって、不可避的に単なる物質に還元されるほかない、というようなことでしょう。そのことによって、人間の本質としての反自然性は脅かされることになります。人間はあくまでも人間であるという共同幻想が破壊の危機に直面するということです。だから、人間が人間であり続けようとするかぎり、すなわち、死者が自分ではどうにも保持し得ない人間性を保持しようとするかぎり、家族は、死者と化したメンバーを「弔う」ことによって、自然の破壊力から自分たちの元に彼を取り戻さなければならないのです。理屈以前に、人間はそういう営みを延々と繰り広げ続けてきました。

「弔う」ことについてここまで考えたところで、私たちは、倫の一世一代の啖呵に戻りましょう。念のためにもう一度、倫の言葉を引用します。

「豊子さん、おじさま(行友のこと)のところへ行ってそう申上げて下さいな。私が死んでも決してお葬式なんぞ出して下さいますな。死骸を品川の沖へ持って行って、海へざんぶり捨てて下されば沢山でございますって・・・・・」

倫はここで、行友から弔われることを断固拒否しています。その意味するところは、深甚なものがあります。倫は、行友による自身への弔いを拒否することによって、行友を頂点とする白川家の共同態に死者として参画することを拒んでいるのです。さらには、行友の自分に対する人間的な振る舞いを根底から拒否しているのです。露骨に言えば、「行友よ、お前には私を人間的に扱う資格などない」と決然として言い放っているに等しいのです。これは、自分の死体が自然の暴力に晒されることを代償にして、行友の人間性を根のところから否定することを意味します。

それゆえ、豊子から倫の言葉を伝え聞いた行友は、次のような状態になるのです。ちなみに、これは本作品の結語です。

四十年来、抑えに抑えて来た妻の本念の叫びを行友は身体いっぱいの力で受けた。それは傲岸な彼の自我に罅裂(ひびわ)れる強い響きを与えた。

ここで倫は、忍従の果てに、強い個人として佇立しています。しかしながら、行友が倫の事実上の遺言を実行することは、世間体から言ってもありえないでしょう。その意味では、倫の意思は踏みにじられる運命にあります。あくまでも倫は行友に対して敗北を喫するのです。さりながら、その敗北は、倫にとって全身全霊を込めた拒否の果てにやってくるものです。そのことを、行友はだれよりもよく分かっているはずです。だから、行友には、倫によって与えられた自我の罅裂れを取り繕う術は残されていないのです。それほどには、倫は行友に痛棒を喰らわすことに成功しています。

行友による形だけの弔いを、根のところで拒んだ倫の魂が、行友を頂点とする共同態に参画することはついにないでしょう。倫の墓はできるのでしょうが、そこに倫の魂はないのです。

和辻哲郎は、その『倫理学』(岩波文庫)で次のように言っています。

否定の運動において根源より背き出るという方向が悪であり、根源へ還る方向が善である。

因習で成員をがんじがらめにし、女性としての尊厳を愚弄し続けた旧社会という「根源」から背き出て、そこに還ることをきっぱりと拒否する倫の精神は、上記に従うならば、悪としか称しようがありません。倫はとても強い人なので、それでもかまわないと言いそうな気もしますが、それでは倫の魂が浮かばれない、という思いがどうしても残ってしまいます。

心ある読み手が、倫を弔おうとするよりほかはないような気がします。そういう心を手向けることで、その存在を善と化すよりほかはない気がするのです。つまり、倫が還って行く「根源」とは、この小説に深く思いを致した読み手の心の共同性以外にないのではないかと思うのですね。そういう思いを読み手に抱かせるほどに、この小説は倫のリアリステックな造形に成功している、と言えるのではないでしょうか。 (終わり)

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