NHK元旦「ニッポンのジレンマ」補足講座
――第一回 今、私たちの「つながり」方――
先崎彰容
……反響はすごかった。
今年1日、NHKの若手討論番組「ニッポンのジレンマ」元旦スペシャルに出演した。考えるべきお題は「僕らが描くこの国のカタチ2014」。六時間半にも及ぶ収録を、二時間半に編集して満を持しての元旦放送。
同時刻におこなわれるツイッターでの反響は凄まじく、これまで三冊出している拙著は全てネット上では購入不可能に。新書はまだ書店にあるとして、その他の二冊はなかなか書店でも買えないらしく、問い合わせが複数あったので、まずは以下に、買える場所=出版社を書いておきます。問い合わせてみてください。
番組HP http://dilemmaplus.nhk-book.co.jp/tv_140101
東北大学出版会 http://www.tups.jp/book/book.php?id=215
論創社 http://www.ronso.co.jp/index.html
ちくま新書
http://www.chikumashobo.co.jp/search/result?p=&k=401&s=&t=&a=&g=&isbn=&order=1&v=20&page=2&desc=true
閑話休題。
述べたように、六時間にも及ぶ討論は、三分の一にまで圧縮されている。確かにテレビ収録という緊張も、今思えば、あった。質問も意見も仰山来たし、今どこで何をやっているのか、もっと発信せよとまで言われた。
ツイッターを一貫してやらない私は、勢い、自分の言い残したこと、より分かりやすく説明すべきことを、どこかで言う必要に迫られた。あくまでも、私の本業は「言葉」を残す事、すなわち本を書く事にある。それまでの間、この場をブログ主催者の許可を得て拝借し、番組では言えなかった頃、補足すべきことを数回に分けて、補足していくことにしよう。
あらかじめ言っておくが、私は狭義の意味での「保守主義者」では全くない。いわんや右翼をや。政治的発言はもとより、苦手である。あくまでも知的好奇心をもつ人びとに資する事が、以下の文章の目的となる。
※
第一回目の補足。それは「つながり」に関する問題だ。番組でも編集者がうまく解説していたが、私なりに補足してみると次のようになる。
ここ数年の私たちは、一言で言えば「つながり」を求めてやまない状態にある。そうなるまでの軌跡、すなわち「戦後」を総復習することが重要だ。1990年代くらいまで思想界を席巻していたのは、ポストモダン思想であった。この思想事態を詳しく解説する気は、ここではない。ただ一つだけ言えるのは、この時代の雰囲気が、あらゆる事柄を「細分化」することにあったことだけは指摘しておこう。
国家としての目標はもちろん、私たちが共通して抱く趣味や嗜好などがどんどん個別化していくこと、これが「細分化」ということの意味である。共通したルールや目標を唾棄する雰囲気、これがこの時代の流れだった。簡単な例を挙げてみよう。75年生まれの私の時代、中学校受験の塾と言えば集団授業が当たり前、高学歴=将来の保証というイメージが席巻していたのだった。
だがそれは急速に崩れてゆく。時代は急速に、集団授業から「個別指導」の隆盛の時代になるのだ。そこに典型的なのは、はやり「細分化」の意識であった。
これが結果した思想的意味とは、何か。たとえばそれを宇野重規は「砂粒化」と言っている(『民主主義のつくり方』ちくま叢書)。一人一人はバラバラな趣味や嗜好をもっていて、共同しなくなったのだ。
では、なぜこれが問題なのか?個別指導の塾がはやっても構わないではないか。問題は、こうだ。「砂粒化」が進むことを、思想的に見てみる。すると、一人一人を特別視することが「当たり前」という、意味不明な状況が生まれるのだ。本来、特別な人間は特殊な人のことをさす。だが「全員が自分は特別」という「平等」!が生まれるのだ。これほど意味不明なことがあるだろうか。
すると、どうなるか。「砂粒化」したバラバラの個人は、自分を特別な者だと思って、自閉的になってしまう。しかも誰かに自分の自分らしさを保証してほしくて、不安を感じてもいる。孤独で不安な「自分」――こういう人びとが増えてきていることが分かるだろう。
こうした状況がある中で、急激な不況と震災が襲ってくるとどうなるか。
人びとは、今、急速に「つながろう」とし始めるのだ。これまでのバラバラな状況、「細分化」と「砂粒化」は、今度は一気に収縮し、集まり始めるのだ。
現在の具体的な状況を見ればよい。
「つながり」を求めて、思想的な左右など存在しないのだ。昔風の「サヨク」は、デモであれ、デモクラシーの再構築であれ、急激なつながりを求めている。いっぽう「右翼」は、憲法を形成し日本人としてつながることで、危機を打破せよと言っている。どちらにもシラケると、今度はネット上で、ツイッターで「つながろう」というわけだ。
こうして、現在、日本社会は急激に収縮し、身を寄せ合い、人と手を取ろうとしている。それを私は、「全てはつながろうとしている」と言った訳だ。
この帰結についての評価を、次回では説明していこう。
さらに今後は、筆を進めて、「シニカル」について、「宿命」について、「言葉」について、テレビでは言えなかったことを書いていく事にしようと思う。
*先崎氏の当投稿に対するご意見がおありの方は、下記コメント欄にご投稿ください。必ず、先崎氏ご本人に、お伝えいたします。(ブログ主人より)
――第一回 今、私たちの「つながり」方――
先崎彰容
……反響はすごかった。
今年1日、NHKの若手討論番組「ニッポンのジレンマ」元旦スペシャルに出演した。考えるべきお題は「僕らが描くこの国のカタチ2014」。六時間半にも及ぶ収録を、二時間半に編集して満を持しての元旦放送。
同時刻におこなわれるツイッターでの反響は凄まじく、これまで三冊出している拙著は全てネット上では購入不可能に。新書はまだ書店にあるとして、その他の二冊はなかなか書店でも買えないらしく、問い合わせが複数あったので、まずは以下に、買える場所=出版社を書いておきます。問い合わせてみてください。
番組HP http://dilemmaplus.nhk-book.co.jp/tv_140101
東北大学出版会 http://www.tups.jp/book/book.php?id=215
論創社 http://www.ronso.co.jp/index.html
ちくま新書
http://www.chikumashobo.co.jp/search/result?p=&k=401&s=&t=&a=&g=&isbn=&order=1&v=20&page=2&desc=true
閑話休題。
述べたように、六時間にも及ぶ討論は、三分の一にまで圧縮されている。確かにテレビ収録という緊張も、今思えば、あった。質問も意見も仰山来たし、今どこで何をやっているのか、もっと発信せよとまで言われた。
ツイッターを一貫してやらない私は、勢い、自分の言い残したこと、より分かりやすく説明すべきことを、どこかで言う必要に迫られた。あくまでも、私の本業は「言葉」を残す事、すなわち本を書く事にある。それまでの間、この場をブログ主催者の許可を得て拝借し、番組では言えなかった頃、補足すべきことを数回に分けて、補足していくことにしよう。
あらかじめ言っておくが、私は狭義の意味での「保守主義者」では全くない。いわんや右翼をや。政治的発言はもとより、苦手である。あくまでも知的好奇心をもつ人びとに資する事が、以下の文章の目的となる。
※
第一回目の補足。それは「つながり」に関する問題だ。番組でも編集者がうまく解説していたが、私なりに補足してみると次のようになる。
ここ数年の私たちは、一言で言えば「つながり」を求めてやまない状態にある。そうなるまでの軌跡、すなわち「戦後」を総復習することが重要だ。1990年代くらいまで思想界を席巻していたのは、ポストモダン思想であった。この思想事態を詳しく解説する気は、ここではない。ただ一つだけ言えるのは、この時代の雰囲気が、あらゆる事柄を「細分化」することにあったことだけは指摘しておこう。
国家としての目標はもちろん、私たちが共通して抱く趣味や嗜好などがどんどん個別化していくこと、これが「細分化」ということの意味である。共通したルールや目標を唾棄する雰囲気、これがこの時代の流れだった。簡単な例を挙げてみよう。75年生まれの私の時代、中学校受験の塾と言えば集団授業が当たり前、高学歴=将来の保証というイメージが席巻していたのだった。
だがそれは急速に崩れてゆく。時代は急速に、集団授業から「個別指導」の隆盛の時代になるのだ。そこに典型的なのは、はやり「細分化」の意識であった。
これが結果した思想的意味とは、何か。たとえばそれを宇野重規は「砂粒化」と言っている(『民主主義のつくり方』ちくま叢書)。一人一人はバラバラな趣味や嗜好をもっていて、共同しなくなったのだ。
では、なぜこれが問題なのか?個別指導の塾がはやっても構わないではないか。問題は、こうだ。「砂粒化」が進むことを、思想的に見てみる。すると、一人一人を特別視することが「当たり前」という、意味不明な状況が生まれるのだ。本来、特別な人間は特殊な人のことをさす。だが「全員が自分は特別」という「平等」!が生まれるのだ。これほど意味不明なことがあるだろうか。
すると、どうなるか。「砂粒化」したバラバラの個人は、自分を特別な者だと思って、自閉的になってしまう。しかも誰かに自分の自分らしさを保証してほしくて、不安を感じてもいる。孤独で不安な「自分」――こういう人びとが増えてきていることが分かるだろう。
こうした状況がある中で、急激な不況と震災が襲ってくるとどうなるか。
人びとは、今、急速に「つながろう」とし始めるのだ。これまでのバラバラな状況、「細分化」と「砂粒化」は、今度は一気に収縮し、集まり始めるのだ。
現在の具体的な状況を見ればよい。
「つながり」を求めて、思想的な左右など存在しないのだ。昔風の「サヨク」は、デモであれ、デモクラシーの再構築であれ、急激なつながりを求めている。いっぽう「右翼」は、憲法を形成し日本人としてつながることで、危機を打破せよと言っている。どちらにもシラケると、今度はネット上で、ツイッターで「つながろう」というわけだ。
こうして、現在、日本社会は急激に収縮し、身を寄せ合い、人と手を取ろうとしている。それを私は、「全てはつながろうとしている」と言った訳だ。
この帰結についての評価を、次回では説明していこう。
さらに今後は、筆を進めて、「シニカル」について、「宿命」について、「言葉」について、テレビでは言えなかったことを書いていく事にしようと思う。
*先崎氏の当投稿に対するご意見がおありの方は、下記コメント欄にご投稿ください。必ず、先崎氏ご本人に、お伝えいたします。(ブログ主人より)
お疲れのことと思いますので、簡単にお伝えしたいことを申し上げます。とても、すばらしいと思いました。また、思想とは、生きるために必要な(少なくとも自分には)ものだと改めて感じました。次回を楽しみにしています。