美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

先崎彰容  「美津島氏の見解に応答する」  (イザ!ブログ 2013・1・9 掲載)

2013年12月06日 11時52分57秒 | 先崎彰容
昨年のことになって恐縮だが、本ブログ主催者・美津島明氏が江藤淳にかんする感想を述べていた。江藤の若き日の評論『作家は行動する』を取りあげた文章の末尾で、美津島氏はわたし先崎の名前を挙げ、江藤淳にたいする意見を求めた。
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/f040b1d63deb35e68cedb490a95b044a

そこで二〇一三年、新年第一回となる今回は美津島氏から頂戴した年末の宿題に応えることから始めよう。

私の江藤にかんする評価のもっとも簡潔な作品は、次のものがよいと思う。すなわち二〇一一年一〇月二四日、比較文明史家の平川佑弘東大名誉教授が、産経新聞『正論』欄において、先崎の論文を取りあげてくださった。実は小生自身はこの事実を当初、まったく知らなかった。朝電車のなかで、数人の友人からメールで指摘され、駅で新聞を買ってようやく事実を知った。その直後から、複数のメディアに、「論文の内容をわかりやすく解説してほしい」と要望を受け、以下の文章ができたというわけだ。

この文章は、同年一二月の雑誌『明日への選択』に掲載されたものだ。雑誌の発行元・日本政策研究センターは、伊藤哲夫氏を代表にもつ政策提言集団であり、第一次安倍内閣ではブレーンとして活躍したと仄聞している。本ブログ見学者とはおおむね趣旨を同じくする雑誌かと思うので、そのほかの記事も御覧になることをお勧めしておこう。必要なばあい、次回の特別寄稿において解説をつけ加えることにしよう。(以下の内容は筆者の個人的な見解であり、所属する団体等とは直接の関係はありません)

                ***

江藤淳を想う――現代日本知識人の条件

過日、一〇月二四日版の産経新聞「正論」欄で、平川祐弘先生が、私の書いた論文を取りあげてくださった。戦後に活躍した知識人、江藤淳と丸山眞男について書いた私の論文を、好意的に評価してくださったものだ。誠に光栄なことなのだが、実は当日、複数の知人から連絡をうけるまで、私は掲載の事実をしらなかった。その後、この学術論文の内容をわかりやすく教えてほしい、とこれまた複数の人に請われた。そこで今、この文章を書いている次第だ。

江藤淳と丸山眞男といえば、その名をしらない人はいないだろう。ともに戦後活躍した知識人の代表選手だ。知識人がどんな「言葉」を紡ぐのかに若者たちが固唾をのみ、言葉が直接時代を動かすことができた時代、筆先に時代の肌がふれるのを感じとれた時代――その先頭走者が江藤と丸山だった。

その二人が、江戸時代にかんする著作を残している。比較してみると面白い事実にぶつかる。その面白さを、論文で私は描きたかった。江戸初期の思想家にたいして、二人は鮮やかに真逆の評価をあたえた。

では、この評価の違いはどこから来たのか? よく読んでみると、それは江藤と丸山の「戦後」にたいする評価の違いから来ていたのだ――これが私の言いたかったことの全てである。

もう少し、わかりやすく具体的に見てみる。

江戸時代の初期、朱子学という学問が発達したが、二人の評価は真逆であった。丸山眞男は、朱子学を否定した。なぜか。なぜなら丸山は、朱子学の特徴に戦前の「超国家主義」とおなじ問題を発見したからだ。そして丸山は、朱子学以後の江戸思想のなかに、朱子学=超国家主義を乗りこえるような思想、つまり「近代」的な思想を発見しようと努めた。戦前=超国家主義を批判的に乗りこえることを終生の課題とした丸山は、朱子学に戦前を重ねることで、江戸の思想を描いた。だが一方の江藤はちがった。江藤淳は朱子学に共感した。なぜなら朱子学者が、私たちとおなじ課題を背負っていると思ったからだ。丸山はまちがっている。朱子学こそ「近代」人である私たちとおなじ苦しみを背負っている――これが江藤の朱子学理解なのである。

でもなぜ、私は二人のこの複雑な江戸時代論に惹かれたのか。それは江戸時代論が「戦後」論に直結しているからだ。二人の戦後へのイメージと近代へのイメージが鮮やかに現れているからだ。丸山にとって、朱子学=超国家主義=戦前は否定されるべきであった。戦後はそのためのスタート地点であり、八月一五日は絶好の出発点だった。戦後こそ、戦前を反省した私たちが近代人になるための場所だった。

だが江藤はちがった。江藤にとって八月一五日は挫折そのものであった「戦後は喪失の時代としか思われなかった」(『戦後と私』)。江藤からすれば、丸山の戦後イメージは明るすぎる。そして近代のイメージも。江藤にとって、わが国の近代とは、古くから積みあげてきた価値観・世界観の崩壊と喪失、つまり危機以外の何ものでもなかった。江藤のもっとも有名な著作『夏目漱石』や江戸時代論に脈っているのは、日本の近代=崩壊と喪失という危機意識にほかならない。

私は江藤淳の戦後=近代イメージに深く共感する。とくに東日本大震災を福島県で経験した今、その思いは日々に強くなる一方だ。では、それはなぜか?

三月十一日の大震災を、私は次の理由から、時代を画する事件だと考える。まず大震災が起こる直前の日本に、何がおきていたか? 実は外交問題が噴出していたことを思いだしてほしい。中国船籍の船長釈放問題、ロシアによる唐突な対日戦勝記念式典と、北方領土の視察が行われていた。極東の二大国が、時期をおなじくしてわが近海で起こした騒動は、日本がその皮膚を外国と接しているという事実を教えてくれた。

だがもし、この事件だけで終わっていれば、戦後の健忘症に慣れきった日本国民は、事件を忘れてしまったかもしれない。ところがその直後、未曽有の大震災は起きた。日本の大地は、ゆれ動いたのである。

以後、私は驚くべき光景をテレビで目にすることになる。それは一〇メートルを超える津波の、どす黒さに驚いたのではない。また津波が町全体をのみこんでゆく中で、ビルの屋上で泣き叫ぶ子供に眼を蔽ったのでもない。そうではなく、私を震撼させたのは、あまりにも多くの人びとが、口々に不安をかたり「国家よ、この事態をなんとかせよ」と叫ぶ光景であった。被災者ばかりではない、自称知識人までもが、自分の不安を何とかして欲しいと国家にむかって要求したのだ。

私は国家が、あらゆる要求を求められ、今にも瓦解するのではないかという不安におののいた。これまで歯牙にもかけていなかった国家、否定あるいは無視を決め込んでいた国家に、臆面もなく自分の不安をぶつける国民と、当然のように要求をつきつける知識人の姿に、嘔吐をもよおしすらした。

だがこのとき突然、江藤淳の言葉が私をよぎったのである。書きかけの論文を取りだすと、江藤淳が私の中に蘇ってくるのを感じた。それは国家もまた、私たちとおなじく、諸外国との関係で日々不安定で動揺していて、不断に支えないと崩れ去るかもしれないことを教えてくれた。当たり前の暮らしもまた脅かされるものであり、大地も不安定なものに過ぎない。私たちは自らの力によって不断にその不安に対応し、崩壊の危機を防がねばならない――。江藤淳は、この不安を近代人の宿命とみなし、江戸朱子学にその微かな反響を聞きとったはずなのだ。不安を直視せよ、と戦後に警告を鳴らしつづけたはずなのだ。

だが、震災から半年以上を経過した今、わが国知識人で江藤淳とおなじ水準にまで国家を、大震災を、つまりは時代の課題を深く洞察した文章が一つでもあったか。サブ・タイトルを「現代日本知識人の条件」としたのは、このような自戒の意味を込めているのである。

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