1956年(昭和31年)石橋湛山は自民党総裁選で岸信介との接戦を制し内閣総理大臣に就任。
しかし病に倒れ翌57年2月辞任した。73年4月死去。
没後50年の今年、その主張や生き方に学ぼうとする動きがある。
日本が、植民地経営に乗り出していた大日本帝国下の1921年(大正10年)
湛山は東洋経済新報に社説を書いた。
「一切を棄つるの覚悟」や「大日本主義の幻想」だ。
朝鮮や台湾、満州などすべての植民地を放棄せよと主張する。
湛山は政界を引退していた68年(昭和43年)日本防衛論を書き残した。
「わが国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりでなく、国を滅ぼす。
したがってそういう考えを持った政治家に政治を託するわけにはいかない」
政敵岸信介は、「頑迷な反共保守で大日本回帰型の保守論者」とみてよい。
この流れを安倍晋三が受け継ぎ、今は清話会が主力だ。
本来ハト派である岸田文雄は、安倍派の歓心を得るために「防衛費倍増」を掲げ、最後はバイデン大統領の言いなりになってしまった。
湛山の考え方は、池田勇人、前尾茂三郎、大平正芳、宮澤喜一に引き継がれたのだが。
しかしその系譜にある岸田文雄に、「国家国民の利益を優先して考える」信念はひとかけらも見られない。
今年6月、超党派「石橋湛山研究会」が、自民党、立憲民主党、国民民主党の議員らで設立された。
議連設立の背景を共同代表の岩屋毅は次のように語った。
今なぜ石橋湛山か。「時代の要請だ」
混迷を深める日本政界だが、国家目標を新しく作り直す時期に来ている。
「故(ふるき)を温(あたた)めて新しきを知る」 孔子