《 空想から科学へ 》 奧菜主義革命~ 革命的奥菜主義者同盟非公然ブログ

奥菜恵さんは、精神と肉体の両方から無駄なものをすべて削ぎ落とし、必死に舞台に立っていた

「心志を労し学びし」者への対し方

2009年03月03日 21時56分13秒 | Weblog
足腰が思うに任せない分、読書に熱が入っております、この10日間ほど。
いま没頭しているのは『耳嚢(みみぶくろ)』。
巻之三にさしかかっております。
きょう、身に染みた物語は「其職の上手心取格別なる事」でした。

有徳院(徳川吉宗)の婚儀に際して、御輿のお迎えを取り仕切ることになった老中が、既にその式法は充分に授けられ、弁えているのに、まだ、礼家、小笠原平兵衛のところに相談に来る。そこで平兵衛は「どのように御式をなさるおつもりか、承りたい」と尋ねる。老中の説明を聞いた後、平兵衛は「その通りで礼式に相違ありません」と答える。
傍らで見ていた人が「老中の心得の通りで相違はないのか」と尋ねたので、平兵衛はこう答えた。
「当流(正しい式法)と違ひし事もあるなれど、すべて礼はその儀式に臨みて間違なく、事やすらかに済まんこそ、礼の貴ぶべき所なれ。老中の此の度の御用おおせつけられ、心志を労し学びしを、それは違へり、是はかよふ(このように)有りたしといはば、この期に望んで迷ひを生じ、自然滞る事も有りなん。かの学び覚へ給ひしをその通り也と誉め称しぬれば、その学び覚へ給ひし事なれば、心も伸びて取り行い落ち度なきもの」と語った。

なんか、とっても考えさせられたし、とっても感動した。ホンマ、ええ話しやの~。
やってみなはれ、そうしてみなはれ、責任は自分でとりなはれ。


『醒睡笑』や『笑府』は、咄・語り:『耳囊』は読み物・ストーリー
と感じている次第です。
“落語はストーリーを捨てられるか”矢野誠一氏が投げかけている問いかけの入り口がやっと遠くに見えてきたような気がしました。
だって、上の物語に感銘を受けて、なお、『醒睡笑』のゆるさ加減が好きですもん。