だいぶ日がたってしまいましたが、本日の話題は京セラドームへの大阪遠征後日譚であります。
オリックスと闘うファイターズ戦士を応援するだけで、埼阪間を往復するのは、
ちともったいない気がしたので、
4時間ほど、京都で観光しました。
4時間ですから、思いっきりテーマを絞りました。
まずは、「京阪電車に乗るひと“おけいはん”」が勧めてくださったので、
“天然冷蔵庫”比叡山ケーブルと比叡山ロープウェーの往復。
ただの往復。延暦寺には勿論行っていません。4時間の観光ですから。
でも、宣伝に偽りなし!涼しかったー!
けっこうガスっていて空の透明感がいまいちでしたが、
ロープウェーから見下ろした洛北の街並みはそれなりによかったです。
第2目的地の画像を多く載せたいので、こちらの画像はカット。
ガスっていたので、カメラで写すと、たいした画像ではないんで。
第2目的地として訪れたのは、三条通と衣棚通の交差点。
相当京都に詳しいお方でも、
「4時間しか滞在時間がない中で、え~~、なんで?」
と首をかしげる場所だと思います。
実は私、このところ長谷川等伯さんにはまっておりまして、
おそらくこの地が、京都に進出した後の等伯が、活動の拠点とした場所なんだそうで、
一度は訪れたいと思っていたんです。
中途半端な観光しかできない、こういうときにもってこいの訪問地じゃありませんか。
『仲家本長谷川家系譜』という資料によれば、
「三条衣棚を住居となし門弟多く……」
となっていて、上掲画像の交差点のどちらかの側に住んでいたのでしょう。
『七尾町旧記』という資料では、
「京師三条街了頓図子に住居」となっていて、
最初の画像の、奥の細い路地を下がった(南行した)場所とされています。
「図子」とは突き当たる路地のことだそうで(注)、
ピンポイント的には下掲の路地に等伯さんのお店はあったということになります。
このことを私に知らしめてくださった宮島新一氏の『長谷川等伯』では、この地は
「三条通りに面する衣棚町には千切屋一族が太物を商っており、京都でも最も賑わった通りの一つであった」んだそうで、
「……角に絵屋を構えていたということは、等伯は京の有力な町衆の一人に成長していたということである」。
するってーと、萩こう介(漢字が変換できねぇ、「耳火」って1字の漢字なんだけど)の『松林図屏風』って小説の、年がら年中、金にピーピーいっている等伯像と実像はだいぶ違うんですねぇ。ま、紙を買うにもひと苦労、ってほうが話しは盛り上がる訳か。
宮島氏の著書では「京都には著名人の旧宅を示す石碑や駒札が熱心に立てられているが、現在、三条通と了頓図子の両角には小さな空き地と民家があるだけで、等伯の旧宅とわかるような印が何もない」となっており、まさにそうなんでありますが、
ここがただならぬ場所であることは十分に伝わる「よすが」は存在しています。
等伯好きの方は、中途半端に京都に滞在する羽目になったとき、ぜひお訪ねあれ。
そういえば石川県七尾美術館で長谷川等伯展やっているんだよなぁ。行きたいなぁ。
(注)宮島新一氏は著書『長谷川等伯』の中でこのように説明しているが(98ページ)、どうやら通りから通りへ突き抜けるかなり細い路地のことを「図子」と呼ぶのが正しいようだ。
オリックスと闘うファイターズ戦士を応援するだけで、埼阪間を往復するのは、
ちともったいない気がしたので、
4時間ほど、京都で観光しました。
4時間ですから、思いっきりテーマを絞りました。
まずは、「京阪電車に乗るひと“おけいはん”」が勧めてくださったので、
“天然冷蔵庫”比叡山ケーブルと比叡山ロープウェーの往復。
ただの往復。延暦寺には勿論行っていません。4時間の観光ですから。
でも、宣伝に偽りなし!涼しかったー!
けっこうガスっていて空の透明感がいまいちでしたが、
ロープウェーから見下ろした洛北の街並みはそれなりによかったです。
第2目的地の画像を多く載せたいので、こちらの画像はカット。
ガスっていたので、カメラで写すと、たいした画像ではないんで。
第2目的地として訪れたのは、三条通と衣棚通の交差点。
相当京都に詳しいお方でも、
「4時間しか滞在時間がない中で、え~~、なんで?」
と首をかしげる場所だと思います。
実は私、このところ長谷川等伯さんにはまっておりまして、
おそらくこの地が、京都に進出した後の等伯が、活動の拠点とした場所なんだそうで、
一度は訪れたいと思っていたんです。
中途半端な観光しかできない、こういうときにもってこいの訪問地じゃありませんか。
『仲家本長谷川家系譜』という資料によれば、
「三条衣棚を住居となし門弟多く……」
となっていて、上掲画像の交差点のどちらかの側に住んでいたのでしょう。
『七尾町旧記』という資料では、
「京師三条街了頓図子に住居」となっていて、
最初の画像の、奥の細い路地を下がった(南行した)場所とされています。
「図子」とは突き当たる路地のことだそうで(注)、
ピンポイント的には下掲の路地に等伯さんのお店はあったということになります。
このことを私に知らしめてくださった宮島新一氏の『長谷川等伯』では、この地は
「三条通りに面する衣棚町には千切屋一族が太物を商っており、京都でも最も賑わった通りの一つであった」んだそうで、
「……角に絵屋を構えていたということは、等伯は京の有力な町衆の一人に成長していたということである」。
するってーと、萩こう介(漢字が変換できねぇ、「耳火」って1字の漢字なんだけど)の『松林図屏風』って小説の、年がら年中、金にピーピーいっている等伯像と実像はだいぶ違うんですねぇ。ま、紙を買うにもひと苦労、ってほうが話しは盛り上がる訳か。
宮島氏の著書では「京都には著名人の旧宅を示す石碑や駒札が熱心に立てられているが、現在、三条通と了頓図子の両角には小さな空き地と民家があるだけで、等伯の旧宅とわかるような印が何もない」となっており、まさにそうなんでありますが、
ここがただならぬ場所であることは十分に伝わる「よすが」は存在しています。
等伯好きの方は、中途半端に京都に滞在する羽目になったとき、ぜひお訪ねあれ。
そういえば石川県七尾美術館で長谷川等伯展やっているんだよなぁ。行きたいなぁ。
(注)宮島新一氏は著書『長谷川等伯』の中でこのように説明しているが(98ページ)、どうやら通りから通りへ突き抜けるかなり細い路地のことを「図子」と呼ぶのが正しいようだ。