(1990年)「PAO~N僕らラジオ異星人」最終回
KBC(九州朝日放送)制作の伝説のラジオ番組。
ローカル放送でありながら、全国にリスナーを持つ程の圧倒的人気を誇っていた。
現在お昼のワイド番組として復活しているそうだが、東京在住なので一度も聴いたことがない。
あの頃と同じ雰囲気の番組づくりをしてるのかな?
小学校高学年の頃、僕の主な情報源はテレビからラジオへと移行した。
ただ、地元のAM局には聴きたくなるような楽しい番組が余りなく、また僕の地元では民放FMが開局前だったので(NHK‐FMだけしかなかった)、自然とお隣りの県の局へと関心は向かった。
色々チェックしていく中で、ある日たまたま見つけたのがこのPAO~N。
僕が聴き始めた時は三人体制(月火・沢田幸二、水木・師岡正雄、金・二木清彦)で、特に沢田アナ担当の月火は毎週欠かさず聴いていた。
兎に角面白い!
僕のラジオ指向はこの番組で本格的に開眼させられたと言っても過言ではない(現に、今なお何よりラジオを好んで聴いている)。
懐かしのアニメ・特撮番組を面白おかしく紹介し、そのテーマ曲を流す「帰って来たニューウェーブ・ヒーロー」、いいアイデアなら採用・実行すると募集をかけながら、大抵は出来もしない、無茶な内容ばかりを紹介する「企画対象コーナー」、何故かいやらしいネタに突っ走る名前だけの英語コーナー「PAO~N印のセサミ・ストリート」、外来語を無理のある日本語(笑)に訳す「翻訳事始め」等々。
リスナーを飽きさせないバラエティーに富んだコーナーが目白押しだった。
あと、PAO~Nにより音楽の趣味も広がった。
テレビで流れるアイドルの最新ヒットシングルぐらいしか知らなかった僕が、マイナーなアーティストのアルバム曲や、それまで全然興味のなかった洋楽にまで関心を持つようになったのは、この番組の幅広い選曲のお陰。
どんなアーティストにも偏見を持たず、先ずは実際に曲を聴いてみよう、そして、たとえアーティスト本人は好きになれなくてもいい曲は素直にいいと認めようという姿勢が備わったのは、新旧洋邦問わず、ありとあらゆる曲を、変な前置きをせず流してくれたPAO~Nのお陰であり、それは今でも感謝している。
番組では各曜日に女子大生のアシスタントがつき、彼女達を「DJギャル」と呼んでいた。
沢田さん担当の曜日を好んでたこともあり、月曜・下川ひろみさんと火曜・大串美保さんに好感を持ち、とりわけ美保さんが僕のお気に入りだった。
お二人を含む初代DJギャルが番組を降板すると告知された際、余りに悲しく、そんな方針を採った制作陣に対し無性に腹が立ったので、彼女らが去ると同時に僕もPAO~Nから卒業することに決めた。
面白さは変わらなくても、美保さんがいない番組なんて別物にしか思えず、全然聴く気がしなくなったのだ。
それくらい美保さんへの思い入れは強かった(今思えば、彼女に恋愛感情に似たものを抱いていたのかも知れない)。
こうして1984年3月末で一旦番組から距離を置くことになったが、PAO~Nの人気は冷めるどころか鰻登りで、僕の周りでもそれ以降の方がリスナーの数が増えていった。
友達が前日の番組のことを話しているのを耳にするたび、そう言えば小学生の頃そんな番組やってたなぁ、なんてぼんやり思い出してたものだ。
一度醒めたものにはどうしても関心を持てず、どんなに盛り上がっていても話の輪の中に入っていくことはなかった。
転機が訪れたのは1988年、高二の秋。
授業を終え家に帰ろうと正門の方へ歩いていくと、優に百名は越えると思われる人だかり。
皆先頭にいる人の後をついて歩いている。
その人を見ると、何と沢田さんではないか!
リスナーのいる学校を訪問する名物コーナーの収録の為に僕が通ってる高校へ来たことを、その群衆に次々と駆け寄っていく他の在校生らの会話から聞き知った。
もし僕もリスナーを続けていたなら、告知をされた日から指折り数えて待ち、本人が現れた当日には狂喜乱舞しただろう。
が、番組から長らく離れていたその時点では僕の心はちっとも躍らず、異様な熱気に包まれた集団を背に、いつも通りに帰宅していった。
その時はそれで終わった。
季節は過ぎ、三年生に進級した1989年の春。
大学受験対策に本腰を入れようと机に向かっていたある夜、何故だか沢田さんが我が母校を訪れたあの日のことが急に頭に浮かんで来た。
何かきっかけがあった訳でもなく、唐突に思い出されたのだ。
振り払おうとするも、どうしても気になってしまう。
そこで勉強の手を休め、約五年振りにPAO~Nを聴いてみることにした。
久しぶりに聴くと昔程早口ではなくなり、沢田さんの声が少し低くなってることに直ぐに気付いた。
流れた月日の長さを感じない訳にはいかなかったが、落ち着きの備わった喋りというには程遠く(笑)、アナウンサーとは思えぬ滑舌の悪さも相変わらずで(失礼)、何より、昔とちっとも変わらぬ番組の面白さにある種感動すら覚えた。
人気が衰えないのも頷ける。
それまでずっと抱いていた怒りは嘘のように氷解し、気が付けば、もう一度番組のヘビーリスナーに戻っていた。
この頃にはもう全ての曜日を沢田さんが担当するプログラムになっていて、PAO~Nの一パーソナリティーとしての沢田さんではなく、沢田さんのPAO~Nへと変貌していた。
驚いたのはリスナーから送られてくる全ての葉書で、彼が「沢田さん」と呼ばれていたこと。
番組開始当初は皆「沢田」と呼び捨てにしていたので、この変わり具合には本当にびっくりした。
長い放送の中でリスナーの間に沢田さんへの敬意と親近感が自然と育まれていったのだろう。
自分の知らないうちにPAO~Nが、ラジオ界に於いて揺るぎない地位を獲得していったことを理解するのにそれ程時間はかからなかった。
幕引きは突然やって来た。
1990年春の改編で番組は終了するとの発表。
沢田さん本人は結婚するので生活スタイルの見直しを迫られて云々と話していたが、真相は局の方針で番組編成が大幅に見直される中、PAO~Nも例外扱いはされなかったというもの(今も昔も放送局の上層部は世の中の事情に疎い。新しいことを始めてもリスナーはついてくるし、新規リスナー層も開拓出来ると本気で思っているのだ。愚かという他ない)。
1990年4月6日(金)、多くのリスナーに惜しまれつつPAO~Nは終了した。
この日の放送を僕は録音しながら聴いた。
ラストの方で沢田さんは涙声になっていた。
混信の酷い雑音だらけのカセットは今も実家にある筈だが、ずっと聴いてないので、テープはもう駄目になってるかも知れない(何せ上京以来一度も帰省してないので、その無事を確かめていない)。
最終回が聴けたのはラッキーだった。
もしひとつでも大学に合格していれば前の月に上京し、その最後を見届ける(聴き届ける)ことは叶わなかったから。
幸か不幸か、全ての受験に失敗し、浪人の為実家に残ることが決まっていたので、番組の最後を生で味わうことが出来たのだ。
聞くところによると沢田さんは今ではアナウンス部の次長だそうで、重鎮的存在になっているらしい。
スタート時、週の半ばを担当していた師岡さんはKBC退社後、東京キー局のひとつ・ニッポン放送に移籍。
今はスポーツアナとして、プロ野球の実況を中心にその声を聴くことが出来る。
最後のDJギャルの一人・舘恭子さん(最終回のアシスタントは彼女が務めた)は、大学卒業後に福岡放送に入社。
アナウンサーとして今も活躍中と聞く。
PAO~Nを支えた皆さんが、それぞれの世界で頑張ってらっしゃることを知ると、それだけで嬉しくなる。
気掛かりなのは、大好きだった大串美保さん。
実はファンレターを送ったことがあり、有り難いことにわざわざ返事を書いて送って頂いたのだが、その手紙の中に教育実習という文字があったので、大学を出た後は教員になられた可能性が高い。
今となってはそれすらも確かめる術がない。
どうか幸せに暮らしていて欲しい。
KBC(九州朝日放送)制作の伝説のラジオ番組。
ローカル放送でありながら、全国にリスナーを持つ程の圧倒的人気を誇っていた。
現在お昼のワイド番組として復活しているそうだが、東京在住なので一度も聴いたことがない。
あの頃と同じ雰囲気の番組づくりをしてるのかな?
小学校高学年の頃、僕の主な情報源はテレビからラジオへと移行した。
ただ、地元のAM局には聴きたくなるような楽しい番組が余りなく、また僕の地元では民放FMが開局前だったので(NHK‐FMだけしかなかった)、自然とお隣りの県の局へと関心は向かった。
色々チェックしていく中で、ある日たまたま見つけたのがこのPAO~N。
僕が聴き始めた時は三人体制(月火・沢田幸二、水木・師岡正雄、金・二木清彦)で、特に沢田アナ担当の月火は毎週欠かさず聴いていた。
兎に角面白い!
僕のラジオ指向はこの番組で本格的に開眼させられたと言っても過言ではない(現に、今なお何よりラジオを好んで聴いている)。
懐かしのアニメ・特撮番組を面白おかしく紹介し、そのテーマ曲を流す「帰って来たニューウェーブ・ヒーロー」、いいアイデアなら採用・実行すると募集をかけながら、大抵は出来もしない、無茶な内容ばかりを紹介する「企画対象コーナー」、何故かいやらしいネタに突っ走る名前だけの英語コーナー「PAO~N印のセサミ・ストリート」、外来語を無理のある日本語(笑)に訳す「翻訳事始め」等々。
リスナーを飽きさせないバラエティーに富んだコーナーが目白押しだった。
あと、PAO~Nにより音楽の趣味も広がった。
テレビで流れるアイドルの最新ヒットシングルぐらいしか知らなかった僕が、マイナーなアーティストのアルバム曲や、それまで全然興味のなかった洋楽にまで関心を持つようになったのは、この番組の幅広い選曲のお陰。
どんなアーティストにも偏見を持たず、先ずは実際に曲を聴いてみよう、そして、たとえアーティスト本人は好きになれなくてもいい曲は素直にいいと認めようという姿勢が備わったのは、新旧洋邦問わず、ありとあらゆる曲を、変な前置きをせず流してくれたPAO~Nのお陰であり、それは今でも感謝している。
番組では各曜日に女子大生のアシスタントがつき、彼女達を「DJギャル」と呼んでいた。
沢田さん担当の曜日を好んでたこともあり、月曜・下川ひろみさんと火曜・大串美保さんに好感を持ち、とりわけ美保さんが僕のお気に入りだった。
お二人を含む初代DJギャルが番組を降板すると告知された際、余りに悲しく、そんな方針を採った制作陣に対し無性に腹が立ったので、彼女らが去ると同時に僕もPAO~Nから卒業することに決めた。
面白さは変わらなくても、美保さんがいない番組なんて別物にしか思えず、全然聴く気がしなくなったのだ。
それくらい美保さんへの思い入れは強かった(今思えば、彼女に恋愛感情に似たものを抱いていたのかも知れない)。
こうして1984年3月末で一旦番組から距離を置くことになったが、PAO~Nの人気は冷めるどころか鰻登りで、僕の周りでもそれ以降の方がリスナーの数が増えていった。
友達が前日の番組のことを話しているのを耳にするたび、そう言えば小学生の頃そんな番組やってたなぁ、なんてぼんやり思い出してたものだ。
一度醒めたものにはどうしても関心を持てず、どんなに盛り上がっていても話の輪の中に入っていくことはなかった。
転機が訪れたのは1988年、高二の秋。
授業を終え家に帰ろうと正門の方へ歩いていくと、優に百名は越えると思われる人だかり。
皆先頭にいる人の後をついて歩いている。
その人を見ると、何と沢田さんではないか!
リスナーのいる学校を訪問する名物コーナーの収録の為に僕が通ってる高校へ来たことを、その群衆に次々と駆け寄っていく他の在校生らの会話から聞き知った。
もし僕もリスナーを続けていたなら、告知をされた日から指折り数えて待ち、本人が現れた当日には狂喜乱舞しただろう。
が、番組から長らく離れていたその時点では僕の心はちっとも躍らず、異様な熱気に包まれた集団を背に、いつも通りに帰宅していった。
その時はそれで終わった。
季節は過ぎ、三年生に進級した1989年の春。
大学受験対策に本腰を入れようと机に向かっていたある夜、何故だか沢田さんが我が母校を訪れたあの日のことが急に頭に浮かんで来た。
何かきっかけがあった訳でもなく、唐突に思い出されたのだ。
振り払おうとするも、どうしても気になってしまう。
そこで勉強の手を休め、約五年振りにPAO~Nを聴いてみることにした。
久しぶりに聴くと昔程早口ではなくなり、沢田さんの声が少し低くなってることに直ぐに気付いた。
流れた月日の長さを感じない訳にはいかなかったが、落ち着きの備わった喋りというには程遠く(笑)、アナウンサーとは思えぬ滑舌の悪さも相変わらずで(失礼)、何より、昔とちっとも変わらぬ番組の面白さにある種感動すら覚えた。
人気が衰えないのも頷ける。
それまでずっと抱いていた怒りは嘘のように氷解し、気が付けば、もう一度番組のヘビーリスナーに戻っていた。
この頃にはもう全ての曜日を沢田さんが担当するプログラムになっていて、PAO~Nの一パーソナリティーとしての沢田さんではなく、沢田さんのPAO~Nへと変貌していた。
驚いたのはリスナーから送られてくる全ての葉書で、彼が「沢田さん」と呼ばれていたこと。
番組開始当初は皆「沢田」と呼び捨てにしていたので、この変わり具合には本当にびっくりした。
長い放送の中でリスナーの間に沢田さんへの敬意と親近感が自然と育まれていったのだろう。
自分の知らないうちにPAO~Nが、ラジオ界に於いて揺るぎない地位を獲得していったことを理解するのにそれ程時間はかからなかった。
幕引きは突然やって来た。
1990年春の改編で番組は終了するとの発表。
沢田さん本人は結婚するので生活スタイルの見直しを迫られて云々と話していたが、真相は局の方針で番組編成が大幅に見直される中、PAO~Nも例外扱いはされなかったというもの(今も昔も放送局の上層部は世の中の事情に疎い。新しいことを始めてもリスナーはついてくるし、新規リスナー層も開拓出来ると本気で思っているのだ。愚かという他ない)。
1990年4月6日(金)、多くのリスナーに惜しまれつつPAO~Nは終了した。
この日の放送を僕は録音しながら聴いた。
ラストの方で沢田さんは涙声になっていた。
混信の酷い雑音だらけのカセットは今も実家にある筈だが、ずっと聴いてないので、テープはもう駄目になってるかも知れない(何せ上京以来一度も帰省してないので、その無事を確かめていない)。
最終回が聴けたのはラッキーだった。
もしひとつでも大学に合格していれば前の月に上京し、その最後を見届ける(聴き届ける)ことは叶わなかったから。
幸か不幸か、全ての受験に失敗し、浪人の為実家に残ることが決まっていたので、番組の最後を生で味わうことが出来たのだ。
聞くところによると沢田さんは今ではアナウンス部の次長だそうで、重鎮的存在になっているらしい。
スタート時、週の半ばを担当していた師岡さんはKBC退社後、東京キー局のひとつ・ニッポン放送に移籍。
今はスポーツアナとして、プロ野球の実況を中心にその声を聴くことが出来る。
最後のDJギャルの一人・舘恭子さん(最終回のアシスタントは彼女が務めた)は、大学卒業後に福岡放送に入社。
アナウンサーとして今も活躍中と聞く。
PAO~Nを支えた皆さんが、それぞれの世界で頑張ってらっしゃることを知ると、それだけで嬉しくなる。
気掛かりなのは、大好きだった大串美保さん。
実はファンレターを送ったことがあり、有り難いことにわざわざ返事を書いて送って頂いたのだが、その手紙の中に教育実習という文字があったので、大学を出た後は教員になられた可能性が高い。
今となってはそれすらも確かめる術がない。
どうか幸せに暮らしていて欲しい。