198万PV達成!漫画史研究家・本間正幸監修【少年画報大全】(少年画報社・現在三刷)更新復活

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弥生美術館&竹久夢二美術館のギャラリートーク

2018-05-14 06:07:45 | 弥生美術館&竹久夢二美術館 日本出版美術研究会

昨日は、母の日だが、出版美術史の研究者である私は、弥生美術館&竹久夢二美術館のギャラリートークに参加。😀

2001年に監修した「少年画報大全」(少年画報社)の実績により、2002年夏、35歳の時に初代館長で有る鹿野館長から日本出版美術研究会の最年少会員として正式に認められた私は、ギャラリートークの後、併設される喫茶港やで年四回開催される会合にも顔を出したかったが、一昨日の天気予報で、午後から雨だと判っていた為、今日の参加は断念し、港やにて館長に挨拶をして早目に帰宅。

介護施設から帰宅する要介護4の母を迎える為の準備をする。😀

弥生美術館&竹久夢二美術館を私財を投じて開館された弁護士の鹿野館長の生年を見ると、、私の父の実家の伯父と同じ1919年生まれだった。

伯父は、画像の制服姿の女子高生達が日本にいた頃、生まれた事になるのだから凄い❗️😀

因みに、戦前までの山形県の庄内地方で、日本一の大地主と呼ばれた酒田の本間家の当主が、今、11代目なので、私の父の実家の方が、庄内地方の本間家として、屈指の旧家となる。

庄内地方の本間家のファミリーヒストリーは、南北朝時代にサムライで有る本間季綱が、現在の山形県鶴岡市下川の地に移り住んだ事が始まりとされ、今も下川の地に、本間家の旧家が幾つか有るのだが、私の父の実家は、その下川の地の本間家の中でも屈指の旧家。😀

サムライで有る下川の一族から、商人として酒田に分かれた本間家の三代目、本間光丘の時代に、天明の大飢饉の際の庄内藩に対する備蓄米の放出や、米沢藩の上杉鷹山公への大名貸しなど、一代で日本一の大地主と呼ばれるようになるのだが、酒田の本間家に纏わるその前のファミリーヒストリーは、今まであまり知られていない話の方が多そうだ。😀

本間家の歴史は古く、関東武士集団小野姓横山党の本間として、神奈川県の厚木市や、秦野市、愛甲石田辺りで発生した我が先祖は、鎌倉時代に佐渡の地頭として一族の主流が移り住んだ事でも知られているが、何と、日本のサムライが発生した時からのサムライの一族で、明治維新により、サムライが滅びるまで、サムライの一族として千年に及ぶ歴史が続いているのだから凄い❗️😀

しかも、当時の古文書に記されているように、日蓮上人との逸話や、日野資朝の斬首など、日本の歴史上に残るような大事件の当事者として、一族の偉大な先達の名前が多数出てくるのは、明治学院大学で社会学を学んだ社会学士で有る私には、とても興味深い事だ。

佐渡の金山の利権目当ての為、上杉家の家臣で愛のない男、直江兼続に、それまで佐渡を拠点に隆盛を誇っていた佐渡の本間家の一族のほとんどが攻め滅ぼされてしまい、歴史上本間家の主流は、佐渡ではなく、庄内地方の一族、しかもサムライとしてではなく、下川の一族から商人として分かれた酒田の本間家が担う形となる。

更に士農工商など、戦後の学校教育の著しい偏りの為、本来はサムライで有る一族が、たまたま商人として分かれた家が有名になっただけの単純な話なのに、本間家の一族全てが商人として始まったかのようなイメージを抱かせる、士農工商という江戸時代の身分制度が有ったように思わせる戦後の日本の歴史教育の矛盾の数々。😀

アーキビスト

本間正幸

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