22日もスマイルは、人々の善意と悪意を描いていた。最期まで善意の人だった前田吟、演じる社長は、私に対する二上洋一先生の優しさを思い出させてくれた。いま、日本の漫画史研究には、派閥を作り、利害関係によって歴史を語ろうとする人達が主流にいる。
昨年の春に私は、成蹊大学文学部学会編の(明治・大正・昭和の大衆文化)に、
少年漫画の誕生とその変貌についての一考察(ー街頭紙芝居の墓場奇太郎はなぜゲゲゲの鬼太郎へと変貌を遂げたのかー)
と題した論文を発表した。その序を引用する。
大正の末年から日華事変の頃にかけて、事実上、日本の児童文学の主流は、(少年倶楽部)にあった。
にもかかわらず、現在発表されている大多数の児童文学史、児童文学論は、この(少年倶楽部)を殆んど問題意識の外にはねとばすことで共通のパターンをもっており、それには一応の理由と主張があるにしても、やはりはっきりと欺瞞的である。(少年の理想主義について・思想の科学1959年3月号より)
日本の児童文学史は、佐藤忠男氏により指摘された通り、(少年倶楽部・大日本雄弁会講談社)などに発表された少年小説群を大衆的・通俗的児童文学としてその存在を無視し、(赤い鳥・赤い鳥社)などに発表されたものは芸術的児童文学として高い評価を与え続けてきた経歴がある。
まして少年漫画などは、戦後悪書追放運動の標的とされ、焚書騒ぎが起こったくらいで、近年まで学識者から客観的な視点でその歴史が顧みられることは少なかった。
ところが近年、日本のアニメーションや漫画に対する海外からの高い評価や経済効果に後押しされる形となり、状況は一変する。
2000年に教育白書はアニメーションや漫画を芸術分野に位置づけた。
俄かに大学でも研究対象とされ、2001年7月には日本マンガ学会が設立される。
そして2005年3月には東京の荻窪に、日本初の本格的な研究施設として杉並アニメーションミュージアムが設立される。(館長はオバケのQ太郎のラーメン大好き小池さんのモデルとしても有名なアニメーターの鈴木伸一氏。)
2006年11月25日には京都市と京都精華大学の共同事業として京都国際マンガミュージアムが養老孟司氏を館長として設立されるなど、話題にはこと欠かない。
私が大学で社会学を専攻していた1980年代後半に、ゼミの担当教授に卒論で社会学的見地から、漫画史をテーマに取り上げて見たい旨を伝えると、
(いまの大学の現状では当分無理だろう)
との回答を貰った頃とは、隔世の感がある。
だが、しかし、漫画史研究の現場には様々な問題が発生しているようだ。
川崎市市民ミュージアムについては、
同館は3年前、市が契約した包括外部監査人から(民間企業なら倒産状態)(運営は半数の職員でも可能)と断じられ、効率化や人員削減を迫られる美術館"冬の時代"の象徴として話題を呼んだ。
昨年、公募で志賀健二郎・元小田急美術館長が館長となり、漫画や写真から考古、民俗まで9部門にのぼる組織の見直し、展示やサービスの改善など改革を進めている。(読売新聞2007年4月26日)のが現状である。
また、当初20万冊の蔵書数を呼び物にしていた京都国際マンガミュージアムの蔵書数は、いざ開館してみると20万点のマンガ資料となり、5万冊のマンガの壁へ変貌したことが私にはどうも胡散臭く感じられる。(まるでかつての大本営発表のようだ。)
国際マンガミュージアムとしての名が看板通りであり、真の実力が備わっているか否かについては、これからの活動状況を見てから判断しても遅くはないだろう。
同志社大教授の竹内オサム氏も(現代漫画博物館1945-2005・小学館)刊行に対し行われた読売新聞の取材に対し(2006年11月29日夕刊)
事典には書誌データの蓄積が必要なのに、地道な研究者が少ない。(漫画学)は、もてはやされる割には底が浅い
と苦言を呈している。(竹内氏は、地道な研究誌・ビランジの発行を1997年より続けている。)
かつて私が、少年画報社から(冒険活劇文庫)と(少年画報)の歴史について実証的な調査研究をまとめ、出版するよう特命を受けた時、(本来、一昨年急逝された米沢嘉博氏に依頼されていたのだが、米沢氏が多忙の為か、手付かずのまま数年が過ぎており、出版計画は中止寸前だった)出版界でいままで定説とされていた事柄と事実関係とのくい違いがあまりにも多いことに驚愕したことがある。
また、同時期(2001年5月)に早稲田大学で行われたプランゲコレクション(占領下の子ども文化1945-1949)展実施委員会編における図録(第7部 マンガの世界 街頭紙芝居から絵物語へ)に紹介された(ジャングルキング)については、原作者及び作画者の素性すらわからないような噴飯ものだった。(担当した若手漫画史研究者の資質の問題だけではすまされないだろう。このことがキッカケとなり、私の漫画史研究は戦後から戦前へと研究領域を拡大していくことになる。)
その作者達の素性については、(少年画報大全・2001年7月10日発売)で既に発表済みだが、本文においても最重要人物である為、後述してある。
今回の私の論文は、はなはだ微力ではあるが(まさに蟷螂の斧である)漫画一代誓った日から今日に至るまで、体系的に収集し続けている2万冊足らずの私の蔵書と、当時の関係者による証言や現物資料を元に、調査を進めてきたデータにより、漫画史において現在まであまり語られることがなかった事柄を中心に論を進めていくつもりだ。(蔵書数については、18万冊を誇る個人経営の業界では有名な施設があるが、戦後の70年代から80年代のマンガが中心となるため、今回私が触れる作品については所蔵していないものが多いようだ。今回、私はその有名施設の資料やデータは一切必要としなかった。)
有名大学卒を誇る近年の若手漫画史研究者達の間では、(実証的でない)(いい加減な)研究成果を孫引きし、繰り返し行っている悪しき慣例がいまだ横行している。
そのような悪しき慣例は、いまここで正していかなければ、今後の漫画史研究は遠からず外国からの研究者達によって、日本人である私達より優れた研究成果が続々と発表される日が来るのではないかと私には思える。
日本の漫画史研究は、いまだ黎明期の段階である。
正しい知識の蓄積がなければ、いかなる有名大学や施設の名においても漫画史研究の分野においてだけは、何ら効力を発揮することはない。
漫画史研究にいま一番大切なものは、人としての良心と、志の高さではないだろうか?
本論において私はそのことを提言していきたい。
2007年4月末に書き上げたこの論文は、2008年3月に彩流社より発売されたのだが、刷り部数が少なく、成蹊大学内での販売を優先させた為、一般書店ではまず見かけることはない。
また、少年漫画だけでなく探偵小説、婦人雑誌、演劇、パンク・ロックなどの大衆文化について成蹊大学文学部関係者に限らず各分野の優れた研究論文を集めた為、私の論文・第二章がおさめるのは、318ページ中、本文64ページ、プラス参考資料リストとしての9ページ分にしかすぎない。
他の執筆者は
第一章 浜田雄介
成蹊大学文学部教授
第三章 バーバラ・佐藤
成蹊大学文学部教授
第四章 日比野啓
成蹊大学文学部准教授
第五章 神山 彰
明治大学文学部教授
第六章 源中由記
東京芸術大学非常勤講師
といった顔触れである。
日本の漫画史研究の現状について私が憂いた2007年当時のものだが、漫画史研究を取り巻く状況は日々めまぐるしく変化している。
これから少しづつではあるが、その状況を発表していけたらと考えている。
真実の歴史を発表されると実証的でない、いい加減な漫画史を語ってきた評論家や大学関係者にとっていろいろと都合が悪いのだろう、いま主流にいる彼等大勢の研究者グループから嫌われているため、私の研究成果を発表出来る場は少ない。
そのことを二上洋一先生は、いつも心配してくれていた。
まるで実の父親のように・・・
眠れマッハバロン
マッハバロン 眠れ眠れ
お前が 静かに眠れる世の中が
平和で 一番すばらしい時
それを 父さんも祈っているだろう
遠い世界で 祈っているだろう
マッハバロン 眠れ眠れ
お前の使命を 終らせてあげたい
戦う機械で なくしてあげたい
マッハバロン 眠れ眠れ
お前が 静かに眠れる世の中が
平和で 一番すばらしい時
それが 何よりもみんなの幸せ
悪の足音 遠くへ去ったら
マッハバロン 眠れ眠れ
その時 誰もがお前をとりかこみ
平和の歌声 きかせてくれる
スーパーロボット マッハバロン エンディング曲
作詞:阿久 悠
作曲:井上忠夫
二上洋一先生については、3月13日の私のブログ
倉持功さんと二上洋一先生と私
をご覧いただけたら幸いです。
昨年の春に私は、成蹊大学文学部学会編の(明治・大正・昭和の大衆文化)に、
少年漫画の誕生とその変貌についての一考察(ー街頭紙芝居の墓場奇太郎はなぜゲゲゲの鬼太郎へと変貌を遂げたのかー)
と題した論文を発表した。その序を引用する。
大正の末年から日華事変の頃にかけて、事実上、日本の児童文学の主流は、(少年倶楽部)にあった。
にもかかわらず、現在発表されている大多数の児童文学史、児童文学論は、この(少年倶楽部)を殆んど問題意識の外にはねとばすことで共通のパターンをもっており、それには一応の理由と主張があるにしても、やはりはっきりと欺瞞的である。(少年の理想主義について・思想の科学1959年3月号より)
日本の児童文学史は、佐藤忠男氏により指摘された通り、(少年倶楽部・大日本雄弁会講談社)などに発表された少年小説群を大衆的・通俗的児童文学としてその存在を無視し、(赤い鳥・赤い鳥社)などに発表されたものは芸術的児童文学として高い評価を与え続けてきた経歴がある。
まして少年漫画などは、戦後悪書追放運動の標的とされ、焚書騒ぎが起こったくらいで、近年まで学識者から客観的な視点でその歴史が顧みられることは少なかった。
ところが近年、日本のアニメーションや漫画に対する海外からの高い評価や経済効果に後押しされる形となり、状況は一変する。
2000年に教育白書はアニメーションや漫画を芸術分野に位置づけた。
俄かに大学でも研究対象とされ、2001年7月には日本マンガ学会が設立される。
そして2005年3月には東京の荻窪に、日本初の本格的な研究施設として杉並アニメーションミュージアムが設立される。(館長はオバケのQ太郎のラーメン大好き小池さんのモデルとしても有名なアニメーターの鈴木伸一氏。)
2006年11月25日には京都市と京都精華大学の共同事業として京都国際マンガミュージアムが養老孟司氏を館長として設立されるなど、話題にはこと欠かない。
私が大学で社会学を専攻していた1980年代後半に、ゼミの担当教授に卒論で社会学的見地から、漫画史をテーマに取り上げて見たい旨を伝えると、
(いまの大学の現状では当分無理だろう)
との回答を貰った頃とは、隔世の感がある。
だが、しかし、漫画史研究の現場には様々な問題が発生しているようだ。
川崎市市民ミュージアムについては、
同館は3年前、市が契約した包括外部監査人から(民間企業なら倒産状態)(運営は半数の職員でも可能)と断じられ、効率化や人員削減を迫られる美術館"冬の時代"の象徴として話題を呼んだ。
昨年、公募で志賀健二郎・元小田急美術館長が館長となり、漫画や写真から考古、民俗まで9部門にのぼる組織の見直し、展示やサービスの改善など改革を進めている。(読売新聞2007年4月26日)のが現状である。
また、当初20万冊の蔵書数を呼び物にしていた京都国際マンガミュージアムの蔵書数は、いざ開館してみると20万点のマンガ資料となり、5万冊のマンガの壁へ変貌したことが私にはどうも胡散臭く感じられる。(まるでかつての大本営発表のようだ。)
国際マンガミュージアムとしての名が看板通りであり、真の実力が備わっているか否かについては、これからの活動状況を見てから判断しても遅くはないだろう。
同志社大教授の竹内オサム氏も(現代漫画博物館1945-2005・小学館)刊行に対し行われた読売新聞の取材に対し(2006年11月29日夕刊)
事典には書誌データの蓄積が必要なのに、地道な研究者が少ない。(漫画学)は、もてはやされる割には底が浅い
と苦言を呈している。(竹内氏は、地道な研究誌・ビランジの発行を1997年より続けている。)
かつて私が、少年画報社から(冒険活劇文庫)と(少年画報)の歴史について実証的な調査研究をまとめ、出版するよう特命を受けた時、(本来、一昨年急逝された米沢嘉博氏に依頼されていたのだが、米沢氏が多忙の為か、手付かずのまま数年が過ぎており、出版計画は中止寸前だった)出版界でいままで定説とされていた事柄と事実関係とのくい違いがあまりにも多いことに驚愕したことがある。
また、同時期(2001年5月)に早稲田大学で行われたプランゲコレクション(占領下の子ども文化1945-1949)展実施委員会編における図録(第7部 マンガの世界 街頭紙芝居から絵物語へ)に紹介された(ジャングルキング)については、原作者及び作画者の素性すらわからないような噴飯ものだった。(担当した若手漫画史研究者の資質の問題だけではすまされないだろう。このことがキッカケとなり、私の漫画史研究は戦後から戦前へと研究領域を拡大していくことになる。)
その作者達の素性については、(少年画報大全・2001年7月10日発売)で既に発表済みだが、本文においても最重要人物である為、後述してある。
今回の私の論文は、はなはだ微力ではあるが(まさに蟷螂の斧である)漫画一代誓った日から今日に至るまで、体系的に収集し続けている2万冊足らずの私の蔵書と、当時の関係者による証言や現物資料を元に、調査を進めてきたデータにより、漫画史において現在まであまり語られることがなかった事柄を中心に論を進めていくつもりだ。(蔵書数については、18万冊を誇る個人経営の業界では有名な施設があるが、戦後の70年代から80年代のマンガが中心となるため、今回私が触れる作品については所蔵していないものが多いようだ。今回、私はその有名施設の資料やデータは一切必要としなかった。)
有名大学卒を誇る近年の若手漫画史研究者達の間では、(実証的でない)(いい加減な)研究成果を孫引きし、繰り返し行っている悪しき慣例がいまだ横行している。
そのような悪しき慣例は、いまここで正していかなければ、今後の漫画史研究は遠からず外国からの研究者達によって、日本人である私達より優れた研究成果が続々と発表される日が来るのではないかと私には思える。
日本の漫画史研究は、いまだ黎明期の段階である。
正しい知識の蓄積がなければ、いかなる有名大学や施設の名においても漫画史研究の分野においてだけは、何ら効力を発揮することはない。
漫画史研究にいま一番大切なものは、人としての良心と、志の高さではないだろうか?
本論において私はそのことを提言していきたい。
2007年4月末に書き上げたこの論文は、2008年3月に彩流社より発売されたのだが、刷り部数が少なく、成蹊大学内での販売を優先させた為、一般書店ではまず見かけることはない。
また、少年漫画だけでなく探偵小説、婦人雑誌、演劇、パンク・ロックなどの大衆文化について成蹊大学文学部関係者に限らず各分野の優れた研究論文を集めた為、私の論文・第二章がおさめるのは、318ページ中、本文64ページ、プラス参考資料リストとしての9ページ分にしかすぎない。
他の執筆者は
第一章 浜田雄介
成蹊大学文学部教授
第三章 バーバラ・佐藤
成蹊大学文学部教授
第四章 日比野啓
成蹊大学文学部准教授
第五章 神山 彰
明治大学文学部教授
第六章 源中由記
東京芸術大学非常勤講師
といった顔触れである。
日本の漫画史研究の現状について私が憂いた2007年当時のものだが、漫画史研究を取り巻く状況は日々めまぐるしく変化している。
これから少しづつではあるが、その状況を発表していけたらと考えている。
真実の歴史を発表されると実証的でない、いい加減な漫画史を語ってきた評論家や大学関係者にとっていろいろと都合が悪いのだろう、いま主流にいる彼等大勢の研究者グループから嫌われているため、私の研究成果を発表出来る場は少ない。
そのことを二上洋一先生は、いつも心配してくれていた。
まるで実の父親のように・・・
眠れマッハバロン
マッハバロン 眠れ眠れ
お前が 静かに眠れる世の中が
平和で 一番すばらしい時
それを 父さんも祈っているだろう
遠い世界で 祈っているだろう
マッハバロン 眠れ眠れ
お前の使命を 終らせてあげたい
戦う機械で なくしてあげたい
マッハバロン 眠れ眠れ
お前が 静かに眠れる世の中が
平和で 一番すばらしい時
それが 何よりもみんなの幸せ
悪の足音 遠くへ去ったら
マッハバロン 眠れ眠れ
その時 誰もがお前をとりかこみ
平和の歌声 きかせてくれる
スーパーロボット マッハバロン エンディング曲
作詞:阿久 悠
作曲:井上忠夫
二上洋一先生については、3月13日の私のブログ
倉持功さんと二上洋一先生と私
をご覧いただけたら幸いです。
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