昨日のNHKテレビ夜10時から放映された、ザ・ライバルー少年サンデー・少年マガジン物語ー。
ドラマ仕立てとドキュメンタリーの両面で構成されているのが良かった。
読売新聞の番組欄の試写室では、文化部記者の石田汗太氏が
マンガ文化育てた2誌の歴史
と題して文を寄せていた。
今日の画像は、インタビューにも登場している少年マガジン4代目編集長宮原照夫さんの著書(実録!少年マガジン名作漫画編集奮闘記)である。
私は、元講談社の少女クラブ編集長丸山昭さんの紹介により、2003年から宮原さんと面識がある。
昨年夏の赤塚不二夫先生の告別式でもお会い出来た。このドラマに興味を持った人達に、おすすめの一冊だ。
活字中心で本文543頁にわたる力作のため、定価は3000円(税別)するが帯にある通り
、編集者魂をまとめた、編集者必読の書!
である。
2005年に講談社から発売されたこの本については、後日改めて紹介させて貰えれば幸いである。
さて、肝心の番組の内容についてなのだが、当時の時代背景を少し補足説明しよう。
昭和30年代はまだ、月刊誌全盛の時代である。
昭和30年代前半は少年画報(少年画報社)が、後半は少年(光文社)が少年雑誌の王者であった。
武内つなよし先生の赤胴鈴之助、桑田次郎先生のまぼろし探偵、河島光広先生のビリーパックといった少年漫画史に残る名作三本柱を連載中の少年画報は、昭和34年新年号において80万部発行し、99.8%を売り切るという戦前戦後を通しての少年月刊誌の新記録を樹立した。
それに対抗しての小学館、講談社の少年週刊誌創刊の流れがある。
講談社の少年月刊誌として有名な少年倶楽部は、戦後少年クラブとなり、発行を続けるも戦前の勢いに戻ることはなかった。
昭和30年に漫画や絵物語などビジュアルを重視したぼくらとなかよしを同時期に創刊するがいまひとつといった感じ。
そこで、少年週刊誌創刊となったのである。
昭和33年に月光仮面の放送が始まり子供達の間でブームとなるなど、テレビの普及に伴い、少年達のライフスタイルも月間から週間へと少しずつ変わっていった。
昭和38年には、少年画報社から第3の少年週刊誌少年キングが発売される。
その頃より、少年週刊誌の採算が合うようになったらしい。
さて、次に少年マガジン大躍進の原動力となる梶原一騎先生のデビューについて少し語らせて貰いたい。
戦前の少年倶楽部に連載されていた佐藤紅緑先生の一連の少年小説の作品群や、学童社から発行された漫画少年に連載された山川惣治先生の絵物語ノックアウトQなどの作品を好み、少年小説家志望だった梶原一騎先生は、少年画報からデビューを飾る。
弱冠17歳での衝撃的なデビューだった。
デビューのキッカケは、昭和28年8月号から三ヶ月の間、少年画報誌上で少年読物大募集の記事が掲載されたことによる。
(勝利のかげに)というボクシングを題材とした感激小説にて見事入選を果たしたのが梶原一騎(本名・高森朝樹)少年なのである。
少年画報・昭和28年11月号本誌に掲載されたそのデビュー作を読むと、デビュー当初から既に独自の作風を完成させていたことがわかる。
けれども、少年雑誌は少年小説から少年漫画の時代へと変わっていったため、梶原先生は不遇の時を過ごしていたのである。
長らく幻のデビュー作としてなかば伝説と化していたこの勝利のかげには、少年画報大全に全編収録してあるのでご一読いただけたら幸いです。
ドラマ仕立てとドキュメンタリーの両面で構成されているのが良かった。
読売新聞の番組欄の試写室では、文化部記者の石田汗太氏が
マンガ文化育てた2誌の歴史
と題して文を寄せていた。
今日の画像は、インタビューにも登場している少年マガジン4代目編集長宮原照夫さんの著書(実録!少年マガジン名作漫画編集奮闘記)である。
私は、元講談社の少女クラブ編集長丸山昭さんの紹介により、2003年から宮原さんと面識がある。
昨年夏の赤塚不二夫先生の告別式でもお会い出来た。このドラマに興味を持った人達に、おすすめの一冊だ。
活字中心で本文543頁にわたる力作のため、定価は3000円(税別)するが帯にある通り
、編集者魂をまとめた、編集者必読の書!
である。
2005年に講談社から発売されたこの本については、後日改めて紹介させて貰えれば幸いである。
さて、肝心の番組の内容についてなのだが、当時の時代背景を少し補足説明しよう。
昭和30年代はまだ、月刊誌全盛の時代である。
昭和30年代前半は少年画報(少年画報社)が、後半は少年(光文社)が少年雑誌の王者であった。
武内つなよし先生の赤胴鈴之助、桑田次郎先生のまぼろし探偵、河島光広先生のビリーパックといった少年漫画史に残る名作三本柱を連載中の少年画報は、昭和34年新年号において80万部発行し、99.8%を売り切るという戦前戦後を通しての少年月刊誌の新記録を樹立した。
それに対抗しての小学館、講談社の少年週刊誌創刊の流れがある。
講談社の少年月刊誌として有名な少年倶楽部は、戦後少年クラブとなり、発行を続けるも戦前の勢いに戻ることはなかった。
昭和30年に漫画や絵物語などビジュアルを重視したぼくらとなかよしを同時期に創刊するがいまひとつといった感じ。
そこで、少年週刊誌創刊となったのである。
昭和33年に月光仮面の放送が始まり子供達の間でブームとなるなど、テレビの普及に伴い、少年達のライフスタイルも月間から週間へと少しずつ変わっていった。
昭和38年には、少年画報社から第3の少年週刊誌少年キングが発売される。
その頃より、少年週刊誌の採算が合うようになったらしい。
さて、次に少年マガジン大躍進の原動力となる梶原一騎先生のデビューについて少し語らせて貰いたい。
戦前の少年倶楽部に連載されていた佐藤紅緑先生の一連の少年小説の作品群や、学童社から発行された漫画少年に連載された山川惣治先生の絵物語ノックアウトQなどの作品を好み、少年小説家志望だった梶原一騎先生は、少年画報からデビューを飾る。
弱冠17歳での衝撃的なデビューだった。
デビューのキッカケは、昭和28年8月号から三ヶ月の間、少年画報誌上で少年読物大募集の記事が掲載されたことによる。
(勝利のかげに)というボクシングを題材とした感激小説にて見事入選を果たしたのが梶原一騎(本名・高森朝樹)少年なのである。
少年画報・昭和28年11月号本誌に掲載されたそのデビュー作を読むと、デビュー当初から既に独自の作風を完成させていたことがわかる。
けれども、少年雑誌は少年小説から少年漫画の時代へと変わっていったため、梶原先生は不遇の時を過ごしていたのである。
長らく幻のデビュー作としてなかば伝説と化していたこの勝利のかげには、少年画報大全に全編収録してあるのでご一読いただけたら幸いです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます