京都御苑が形作られた歴史を絵図(内裏図など古地図)で辿る、という新聞記事(12/2)を見て、すぐに京都市歴史資料館を訪れた。そこで貰ったパンフレットに「展示解説は12月17日」とあったので、再訪(会期:11/27~2010/3/7)。
京都市歴史資料館は、御所東にある。建物向かいは、寺町御門南側の駐車場だ。市内には、京都府立総合資料館(北山)、京都文化博物館(御池)、京都市考古資料館(堀川今出川)と、歴史関連の施設が複数あり、それらの収蔵品や目的の違いは、傍目には分かりにくい。本館は、京都市行財政局の管轄であり、「京都の歴史に関する調査・研究・資料の収集・保存・展示,京都の歴史に関する図書・市政史・市政史料の編さん・刊行(京都市HPより)」を行っている。2階閲覧相談室には、寺史や他府県の市史、校史、岩波古典文学大系などもあり、閲覧カードを受付で記入すれば、資料を閲覧することができる。
さて、今日の解説。パンフレットを読んでいたものの、やはり絵図を指し示しての解説は、違う。展示品の見どころが、よくわかった。ただ解説は、今日を除けば、あと2回(1/21・2/18)。木曜2時限定である。回数を増やすとか、曜日を変えるとか、時間をずらすとか、少しの配慮で、解説を聞く観覧者は増えるだろう。そうすれば観覧者の満足度も高まるだろうに。それとも、入館無料の市の施設は、入場者数を増やすことには無頓着なのだろうか。最近刊行された、高価な『京都市政史』をPRする機会にもなるのに。「歴史資料館にて現金で販売(京都市HP歴史資料館)」なら、来場者を増やす努力はしてもいいはずだ。
今回の展示では、内裏図の殆どのパターンを網羅しているとのこと。1614年の手書き図に始まり、手で彩色の施された木版、銅版、そして明治時代の多色刷りと見られる版まで。気になった展示品は、「新改 内裏之図」「宝永五年子三月京都大火絵図」。
「新改 内裏之図」は、1677年刊。南北は椹木町通~相国寺、東西は川原町通(河原町通)~烏丸通の内裏と公家町を描いたもので、出版された内裏図としては最古、現存するのは一点のみという貴重な資料。先月行った真如堂が寺町今出川に、西方寺がちょうどこの資料館辺りにあったことが確認できた。
内裏図は、一種の観光案内の役割を果たしていたという。「観光客が禁裏を拝観したり、商人が公家邸宅を所用で訪問する(パンフレットより)」際に使ったり、お土産にしたり。そのため、図の公家町には敷地毎に家名と家紋が記される。寺町に密集する寺にも寺紋はあるはずだが、そこには寺の名だけが書かれていた。
「宝永五年子三月京都大火絵図」は、1708年禁裏も灰になった宝永大火の、焼失範囲を朱線で囲った図。焼けたのは、北は今出川の2本北、南は四条、東は寺町、西は堀川までの広範囲であった。これは、形状「写一舗」とパンフレットにあるので手書きなのだが、「これだけ焼けました」という図が描かれたということに、少なからず驚いた。
この大火の後、現在の京都御苑の丸太町通~今出川通、烏丸通~寺町通の範囲で、公家町が整備されたらしい。さきの内裏図に点在した町家は、鴨川東や寺町通東に移転させられたとのこと。このブログの「大蓮寺」で、近辺の南北の通り名が、「新〇〇」となっていることに触れたが、やっと今日、理由が分かった。丸太町通の町家は、新丸太町通へ、東洞院通の町家は、新東洞院通へ。烏丸通の町家は、寺町通東側に作った新烏丸通へ。
京都市HP(『フィールドミュージアム京都』:http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi23.html)に、宝永大火についての記述を見つけた。そういえば『フィールドミュージアム京都』は、ここ京都市歴史資料館の情報提供システムだった。京都の歴史や文化を調べるとき、私が最初に検索するのが、このHPだ。
「新改 内裏之図」は、京都市HPで見ることができる。展示室で見るよりも、はっきりきれいに。内裏に至る四方の門は今よりずっと内側にあり、公家町の門の役割は果たしていなかったこともわかる。
(京都市HP行財政局総務部歴史資料館:http://www.city.kyoto.lg.jp/gyozai/page/0000071181.html)