この1月、妙円寺から山の麓の細い道を西へ歩いて、涌泉寺の柵に行き当たった(1/14『初甲子祭』)。地図で見たところ、2月に行った七面祠から東に続く道が、涌泉寺につながっているようだ。途中には生師廟もある。
松ヶ崎小学校東沿いの道の突き当たりには、南無妙法蓮華経の題目碑(写真下・左)があり、左の細い山道を行けば七面祠(2/24『七面祠』)、右の車道を行けば涌泉寺の門(写真下・右)に突き当たる。
写真(上・右)左手に見える階段は、生師廟へのもの。
生師廟は、本涌寺(現・涌泉寺)開山の日生(にっしょう)上人を祀っている。階段には柵が設けられ、上がることはできない。
さて、涌泉寺である。門前には三つの石塔がある。
門の手前左には「南無妙法蓮華経」の題目碑(写真左)。横(南)から見ると、「松崎山妙泉(寺)」とある。「寺」の文字のところで礎石に埋もれていることは、縦数センチの文字の彫り跡(「寺」の二画目)でわかる。
これは、ここがかつて「松ヶ崎檀林」と呼ばれた、法華宗僧侶養成のための学問所であったことを示している。
法華宗近世檀林は、1579年飯高檀林(下総)に始まり、翌1580年に松ヶ崎檀林、1583年求法院檀林(=六条檀林:京都)、1590年小西檀林(上総)と続き、関東八大檀林、関西(京都)六大檀林、勝劣派七檀林と言われるほど増加したそうだ。京都には一致派の六檀林(松ヶ崎檀林・求法院檀林・東山檀林・鷹峯檀林・山科檀林・鶏冠井檀林)と、勝劣派の二檀林(大亀谷檀林・小栗栖檀林)が成立した。
(匝差市HP「飯高寺(はんこうじ)」:http://www.city.sosa.lg.jp/index.cfm/9,729,138,1,html)
門のすぐ前、左側には、「法華宗根本學校道」の小さな石碑(写真上)。道標だから、別の場所から移してきたのだろう。横(南)には「南無妙法蓮華経」、裏(東)は「天下泰平五穀豊穣」とあった。
門の脇には、京都市の立て札(写真下・右)。
門柱に木札がかかっている。向かって右は「松崎山涌泉寺」、左は「松ヶ崎保育園」。この門の奥に見えるのは松ヶ崎保育園(写真下・右)で、本堂(写真下)はその傍に南を向いて建っている。
本堂脇に、この建物の由来を記した立て札(写真下)がある。松ヶ崎檀林の講堂だったと。写真下・左には、題目碑も見える。題目碑は、この他にも鐘楼脇、保育園前にもあった。とにかく多い。
鐘楼と言えば、鐘楼屋根瓦は「井桁に橘」(写真下・左)、「松崎山」(写真下・中)の文字、門や本堂の瓦は「三つ巴」(写真下・右)だった。
宗祖日蓮が、「井桁に橘」を家紋とする井伊氏の一族であったため、これを寺紋とする日蓮宗の寺が多いのだそうだ。
1918年、妙泉寺と本涌寺が合併して「涌泉寺」となったこの寺は、平安中期に建立された松崎寺(円明寺)を起源とする。『日本紀略(992年)』に「中納言源保光卿供養松崎寺号円明寺」と記載のある、松崎寺だ。これは、(財)京都市埋蔵文化財研究所が、現・松ヶ崎小学校敷地内で発掘調査(2003.7~12)を行なった「松ヶ崎廃寺」のことである。
この寺が平安後期~鎌倉時代に天台宗「歓喜寺」となり、叡山三塔十六谷三千坊の一つとして、松ヶ崎村で崇敬を集めた。鎌倉時代末期、日蓮宗布教のため日像が上洛(1294年)する。松ヶ崎は鶏冠井(向日市)と共に、まず教化されたそうだ。松ヶ崎(涌泉寺)・鶏冠井(石塔寺)・修学院の題目踊りは、その当時から今に続いている。
1307年、歓喜寺の住持実眼が法華宗に帰依して、「妙泉寺」と寺号を改め、松ヶ崎は一村皆法華となった。1536年に天文法華の乱で堂宇は焼失するが、1575年には再興され、境内に5塔頭が創建された。1875年、5塔頭は妙泉寺と合併し、1876年、松ヶ崎小学校(1873年創立)新校舎建設のため、敷地を一部、小学校に割譲。1918年、小学校敷地拡張のため、本涌寺と合併し、「涌泉寺」と寺号を改め、本涌寺敷地に移転する。
一方の「本涌寺」は、1574年、日生(にっしょう)が創建した、日蓮宗立本寺に属する寺である。日生は、立本寺、妙覚寺、比叡山と学んだ碩学を買われ、1579年、下総に招かれて、最初の法華宗近世檀林である飯高檀林を開設している。その後京都に戻って、1580年に「松ヶ崎檀林」を開設した。檀林は、もうない。現在は、寺の南に掲げられた看板によって知る所となった「日蓮宗尼衆宗学林」、つまり尼僧の学問所(1919年創立)のみ存在している。
ところで、叡山三千坊には、花背の福田寺(現・曹洞宗)、一乗寺の養源院、山科の岩屋寺(現・曹洞宗)、滋賀の林照寺(現・浄土真宗)、左京の修学院(廃寺)などがある。宗旨替えは、案外あるものだ。それにしても、天台宗にしてみれば、比叡山のおひざ元である松ヶ崎の地で、一村まるごと法華宗に改宗したのは、耐え難い屈辱だったろう。
(財)京都市埋蔵文化財研究所のHPで、妙泉寺絵図(1789年)を見つけた。これによると、七面祠の場所は、当時、妙泉寺境内に含まれている。七面祠前の燈籠に「妙泉寺」とあったのも道理。
(財団法人京都市埋蔵文化財研究所ホームページ「リーフレット京都No.189(2004年10月)松ヶ崎妙泉寺の江戸時代」:http://www.kyoto-arc.or.jp/)