旧道沿いにある松ヶ崎大黒天の鳥居をくぐると、目の前は白雲稲荷神社の鳥居(写真下・左)。鳥居の左の道は、大黒天に続いている。鳥居からは階段が伸び、拝殿が見える(写真下・右)。
杉は稲荷社と縁が深い。『山城国風土記』逸文に、伏見稲荷大社創建の逸話がある。伏見に住んでいた秦伊呂具(太秦の秦都里の弟)が、2月初午の日、餅を的に矢を射たところ、餅が白鳥となって飛び、山頂の杉に止まったという。それから家運が傾いたので、伊呂具は悔い改め、杉を神木として稲の精霊を祀ったのだそうだ。711年に社殿が完成した伏見稲荷大社では、平安時代、熊野詣の交通安全祈願として、護符である杉の小枝「しるしの杉」を授与していた。それがいつしか伏見稲荷大社のお守りとして定着し、今も初午の日には授与するという。現在では「商売繁盛・家内安全の御符(伏見稲荷大社HP:http://inari.jp/c_sairei/02_b.html)」とのこと。松ヶ崎には松の木が多かったそうだが、この杉は、神木とするべく、わざわざ植えたものなのだろうか。
拝殿(写真上・左)は、京都御所の 能楽殿から移されたものというが、南面と北面に掲げられている扁額は、すっかり色あせ、南面にあったはずの鈴はなく、その鈴を鳴らす綱は上部でちぎれてしまっている。拝殿の天井も無残。36歌仙らしき色あせた絵(写真上・右)が、金網ごしに見えるのも、侘しい。さきの神木手前には手水舎があったが、竹の樋から水は流れておらず、柄杓もなかった。
拝殿の北側には、本殿。ここもがっちりと門で隔てられている。
立て札(写真左)によれば、祭神は稲荷尊・鬼子母神・牛の宮。この「稲荷尊」は、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ:『古事記』)=倉稲魂命(ウカノミタマノミコト:『日本書紀』)である。ウカとは穀物のことであり、ウカノミタマノカミは伏見稲荷大社の主祭神でもある。
「牛の宮」とあるのは、その続きを読めばわかる。「ご神託に依り東松ヶ崎は・・・牛の飼育を禁ぜられていた」。牛を神聖なものとみなして、その守護を祈ったのだろう。「農家には昔から馬が飼育され農耕に従事した」とある。この「神託」という伝承は、HP上で散見されるが、典拠が不明確だ。
(京都通百科事典HP:http://www.kyototsuu.jp/Jinjya/ShirakumoInariJinjya.html)
また「伝説・・・に依り井戸掘り・・・を禁ぜられていた」については、フィールドミュージアム京都「東松ヶ崎の生活用水井戸跡」(http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/sa148.html)に詳しい。つまり、妙円寺境内の古井戸に子狐が落ちて死んだ際、稲荷の親狐が「今後一切井戸を掘ってはならぬ。掘れば不幸が訪れる。その代わりどんな日照りでも神通力で涸らさぬようにする」と告げた、という伝説である。
この立て札によれば、水道が通るまで、東松ヶ崎の17軒は、この井戸だけを使用したらしい。水量豊富だったのだ。「大正一五年(一九一三年)上水道が敷設されるまで」とあるが、年号と西暦が合っていない。京都市の水道事業開始は1914年なので、1913年はありえない。「大正15年」ならば1926年。これは、第二疏水の改修工事が行なわれた年にあたる。
入り組んだ細い路地を、見当をつけて歩いてみた。妙円寺西門から南へ下りる階段下に、蓋をされた井戸があった。
最後に、拝殿を大木が両側から覆う写真を。