1日に始まった祇園祭。10日からの鉾建て・山建ての縄掛けの様子を見逃してしまった。「雄蝶」「雌蝶」「鶴亀」「杵と臼」などと呼ばれる樽巻き。数年前に見かけたとき、なんと力強く美しいものだと見入ったのだった。14日ともなれば、胴掛・前掛・見送など懸装品を既に飾っているものも多く、縄は隠れている。まだ飾っていない山や鉾も、埒(巡幸の朝まで山鉾を守る木枠)の中にあって、縄がらみがよく見えなかった。
新町通、室町通を歩いた。これは役行者山。路地奥の会所に、懸装品を飾っていた。
この山のご神体(役行者、一言主神、葛城神)も、まだ安置所におられた。その建物の飾り瓦は、これ。
役行者山の紋は行者輪宝である。よく似ているが、これはお地蔵様の大日如来紋だと説明を受けた。(調べていないので、正確な情報かどうか分からない。)
菊水鉾で粽(1000円)を買ったら、鉾を見学することができた。マンションの2階から橋を渡して、楽に乗り込めるようになっている。
天井は布で覆われていた。鉾内部から後ろの提灯を見る。鉾町の菊水紋、八坂神社の三つ巴と五瓜に唐花紋が見える。
菊水鉾町には、菊水紋だけでなく、菊花紋もあるらしい。鉾内部の金具にも菊の文様。
祇園祭には、山と鉾が出る。
山は本来、山岳信仰から発生したものらしい。古来の民間信仰では、神は山の岩や木を依り代として天から降臨するという考えがあった。その自然界の山を模して、祭礼用に「ヤマ」を作り、さらにそのてっぺんに依り代として木(祇園祭では、ほとんどが松)をつけたのだ。
よって、祇園祭における山と鉾との違いは、依り代の松があるかどうか、と言える。また大勢の囃し方が乗って音曲を奏でるのが鉾とも言えよう。この祭礼の元々の形は鉾立てであった。鋭い剣鉾で、悪いものを追い払うと同時に、歌舞や技芸によって、神の怒りを鎮めることを目的としていたのではないだろうか。
祇園祭のルーツは、863年の祇園御霊会である。全国各地に流行した疾病を牛頭天王(八坂神社の祭神)の祟りと考えた人々が、神の怒りを鎮めるために、神泉苑に66本の鉾を立てて、疾病の元となる怨霊退散を祈願したのだ。10世紀には、神輿に疫神を宿らせて海に送る御霊会が行なわれ、 974年には、神輿が京都の街中の御旅所に渡御するようになった。1345年、三条町・四条町の綿座商人など町人の力が強くなってきた頃、神輿渡御に随行する鉾とは違う山鉾を、町共同体が出したらしい。(『物語京都の歴史』参照。)山や鉾の名称・由来は、神話や伝説、能の題材、中国の故事などに依っている。
この時期、あちこちの町家では、屏風祭も行なわれる。表屋造の屋敷では、「みせの間」に飾っている屏風や道具を、道路から見ることができる。また、大塀造の屋敷では、玄関から上がって、室内の飾り物を見ることができる。
私が行ってみたのは川崎家住宅(入場料500円)。ここは後者の造りで、屏風も、小袖も、お部屋も、それはすばらしい。ちょうど団体客が到着して、所有者による解説も聞くことができた。大正時代から完全なままで残っている波打ちガラスや、美術館に所蔵されている屏風、竹内栖鳳による東山三十六峰の欄間、武田五一設計の洋室など、見るべきものは多い。所有者の家業は長襦袢製造販売業で、「京の襦袢&町家の美術館・紫織庵」として、年中公開(要予約)しているらしい。長襦袢自体も、大正モダンの柄が面白かった。
南観音山のある百足屋町には、和雑貨店くろちく所有のくろちく百千足館がある。2階の能舞台に飾られた長刀鉾1/8模型を見学した。精巧であると同時に美しい芸術品。これは江戸時代後期、三井家が作らせたもので、実際に子どもたちが道で曳いて遊んだらしい。随分と贅沢なおもちゃである。
(京都新聞:http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2009070200028&genre=I1&area=K00)
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