真如堂。山号・鈴聲山、正式名称・真正極楽寺。984年創建、開基は戒算、天台宗の寺である。本尊は、慈覚大師円仁作の阿弥陀如来立像、「頷きの弥陀」。大蓮寺の本尊と似ているのか確かめに行った。
11月5~15日は、真如堂でのお十夜法要。結願法要の最終日に、本尊が開帳される。拝観料(500円)を払い、「南無阿弥陀仏」と墨書きされた晒(?)を羽織って、須弥壇に上がり、厨子の扉の手前から本尊を拝見した。
扉や外壁に彫刻の施された見事な厨子は、綱吉と桂昌院による寄進と聞いた。なるほど、徳川葵の紋も。少し暗いが、均整の取れた阿弥陀如来が見えた。向かって右の千手観音、左の不動明王も姿が良く、その光背も良かった。通常、阿弥陀三尊は、阿弥陀如来を中央に、向かって右に観音菩薩(慈悲)、左に勢至菩薩(智慧)だが、この寺の像の配置は独特である。この不動明王は、安倍晴明の念持仏だったとか。
寺には、安倍晴明と閻魔大王を描いた掛け軸が伝わり、本堂にはこのパネルがある。安倍晴明が冥界に赴いた際、不動明王の取り計らいで閻魔大王から結定往生の印を受け、蘇生したという話があるそうだ。真如堂ではその結定往生の印紋(赤い宝珠の中に白抜きの五芒星)を、本堂受付で授与しているとのこと。15日の本尊拝観後、「奉修十日十夜別時念佛会決定往生之符」を頂いた。
さて、その阿弥陀如来。十日近く前に見た像の記憶を辿ることは難しく、結局頂いて帰ったリーフレットを比較することに。はっきり言って、似ていない。大蓮寺のは、頭が大きく全体に丸みを帯びているが、真如堂のは、プロポーションが良い。お顔の様子も少し違う。ついでに光背も違う。大蓮寺の本尊が一夜のうちに二つになって、一つを真如堂に返還したという伝承は伝承ということ。少なくとも似ているのかと思っていたが。真如堂略年表に依れば、本尊の移動は、1468年応仁の乱を避け比叡山青竜寺へ動座、1470年江州穴大宝光寺(穴太真如堂)に移座、1478年洛中一条町(現・元真如堂町)へ遷座、1484年本堂旧地・神楽岡へ帰座ということである。
同じ名前の寺は多いが、極楽寺や阿弥陀寺は特に多い。その多くの極楽寺の中で、これこそが正真正銘の極楽の寺、というところから、真正極楽寺という正式名称がある。真如堂境内には、本堂のほかに、三重塔、元三大師堂、本坊、開山堂、新長谷寺、薬師堂、茶所、鎌倉地蔵堂、縣井観音堂、赤崎弁天、鐘楼、千体地蔵堂、三千仏名堂、萬霊堂、阿弥陀如来露仏などがある。また境内塔頭なのか、喜運院、理正院、松林院、法輪院、東陽院、覚円院、吉祥院、法伝寺などの寺院もある。結願法要は、これらの寺院が集まって行なわれた。
写真左は、お練りが始まる前の本堂入り口。写真右は、僧侶が履き替える履。2時直前になって、法被を着た関係者の方々が、バタバタと準備を始めた。
本堂前で待っていると、2時に法螺貝が鳴り響き、やがてその法螺貝を手にした山伏、親に手を引かれた稚児、御詠歌講中、華麗な法衣を纏った僧侶らのお練りが始まった。
本堂から鉦の音が聞こえる。行列は、外廊下をぐるりと一回りしてから、本堂に入った。見物の人たちも、後に続いて本堂に入り、結願法要に臨席した。30分以上鉦を鳴らし続ける鉦講中は、すごい。変化がないようでいて、実は打ち方にも違いがある。垂直に叩く、手前から向こうへ叩くなどして、音色を微妙に変化させていた。
真如堂の寺紋は、三つ藤巴紋。開基・戒算上人が藤原氏の出身だったから、藤紋か?
写真上は、左から本坊、覚円院、吉祥院。みな、同じ三つ藤巴紋。但し、幕と提灯とでは、意匠が違って見える。
次の写真は、違う紋の寺院。左から東陽院、法輪院、松林院。違うとはいえ、二つは下がり藤である。東陽院のみ、全く別の八丁子紋。
僧の法衣には五三桐と隅立て四目結紋があった。本堂でも隅立て四目結紋を見た。これは、真如堂が三井家の菩提寺であるところから、その家紋を使用しているのだと思われる。本堂に掛けられた(公開11月)刺繍の『観経曼荼羅』は、1767年、三井家より寄贈されたものだとか。3月に公開される『涅槃図』も、三井家による寄贈。法衣新調にも関わったのかもしれない。
見物人は、100人強というところか。「去年よりも多い」と話しているのを耳にした。とにかく寒くて、あちこち見ることもなく、早々と帰ってきてしまった。紅葉は、本堂西側、池の辺りが良かった。真如堂の紅葉がきれいだと思ったのは、いつだったろう。5年ほど前になるか。ここ数年は、あまり満足できない。葉先が枯れていたり、色づきがもう一つと感じたり。紅葉狩りに静かな所を求めるならいいのだが。
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