負けてらんにぇ ! みんなでなんとかすっぺ !!

南相馬市から新潟県三条市へ集団避難→同市内の雇用促進宅に→2015.2~同市内の戸建に転居 妻と二人暮らし。

めぐみの雨 2/3 ・・・ つつしみ

2012-11-10 22:00:15 | 原発震災避難者


遠足



私たちの物の考え方は ・・・ どこか歪んでいるようです。


足りないから 乏しいから ・・・ 「 大切 」 にする

そうした発想で 物質と人間のかかわりを割り切ってよいのでしょうか。



釈尊ののことばは ・・・ その正反対です。


「 身につつしみなくして 」 物質を消費することは許されない

・・・ というのです。


物があるかないかは 後まわしの話です。


どんなに豊富に資源があっても

これを費やす人間の側に つつしみがないなら ・・・

抑制と感謝する心ももてず

物を受けとり 穀物 魚 肉を口にする資格はない

・・・ といわれるのです。



いま 私たちにもっとも欠けている 「 価値観 」は ・・・ これです。


ですから オイルショック( 旧い例で失礼 )が過ぎると

もう ハイウエイは車でいっぱいです。


もし インフレでもなかったら

使い捨ての風習は

老人から幼児まで ・・・ 果てしなくひろがっていくことでしょうね。

  


( 再掲 )

身につつしみなくして

国(よ)の施物(ほどこし)を食うことなからん (法句経)







めぐみの雨 1/3・・・ 浪費

2012-11-10 19:00:06 | 原発震災避難者


遠足



身につつしみなくして

国(よ)の施物(ほどこし)を食うことなからん (法句経)



物を大切にしよう といわれています。

・・・ なぜでしょうか。


地球の資源が乏しいからといいます。

では 資源が有限でなければ勝手放題

好きなように物を消費していいのでしょうか。



浪費は敵だといいます。

・・・ どうしてですか。


日本は 無資源国で

石油や穀物の輸入が減ったら大変だからだといいます。

では 外貨がたまり 資源国の農作物が豊作で

鉱物の埋蔵量も豊かで どんどん輸出してくれるなら

浪費はかまわない ・・・ ということになるのでしょうか







何を恥ずべきか 3/3 ・・・ 恥の心

2012-11-10 16:17:02 | 原発震災避難者


遠足



恥ずるのはよい。

・・・ 何を恥じるかです。


粗末な食事をしようと

車がなかろうと

一流大学に行けなかろうと

学問がなくても ・・・ そんなことを恥ずべきことではありません。


他人の苦しみを ・・・ 自分の苦しみとすることのできない人こそ

・・・ 恥としなくてはならないのです。



ヨーロッパには 「 罪 」 と 「 罰 」 があります。


罰をさけるために罪をみつめ

罪を告白するような良心の痛みがなくてはなりません。


それを 「 恥の心 」 といってもよいのです。



「 地獄に行く 」 というのは

恥ずべきを恥じない人間は

かならず 悪の泥沼に生きるということです。



何を恥とすべきか ・・・

もう一度 胸に手を当てて考えてみる必要がありますね。







何を恥ずべきか 2/3 ・・・ 地獄に行く

2012-11-10 13:00:08 | 原発震災避難者


遠足



釈尊のいわれる

「 恥ずべからざるを恥じ 」 というのは

物質的な恥 ・ 怨みの恥をさしているのです。

「 恥ずべきを恥じず 」 とは

怠惰 ・ 虚栄 ・ ごうまん ・ 思いやりのなさ ・ エゴイズムといった

醜さに気づかず ・・・ 恥としないことをいっているのです。



口先で道徳を説き 人に修業をすすめながら

自分では それを行う少しの意志ももたぬ人


脱社会だ 女性よ外へ出て働け と叫びながら

自分は ぬくぬくと家庭に寝そべっているような人


言行不一致 虚偽 ・・・ そうした生活を送っている人は

「 恥を恥としない人 」 であり

「 地獄に行く 」ような人間だといわれるのですね。



釈尊は

その人の行為いかんによって ・・・ よくも 悪くもなるし

それが ・・・ 将来を決定するといいます。


自分の行為が矛盾していないか いつわりはないか

と問いつめ 恥じる人でなければ

幸せをうることはできない ・・・ と教える人です。



(再掲)

恥ずべからざるを恥じ 恥ずべきを恥じず

よこしまな思い抱ける人びとは地獄へゆく

                      (法句経)







何を恥ずべきか 1/3 ・・・ 何を恥じるか

2012-11-10 10:13:05 | 原発震災避難者


遠足



恥ずべからざるを恥じ 恥ずべきを恥じず

よこしまな思い抱ける人びとは地獄へゆく

                      (法句経)



日本人は 「 恥の国民 」 だといわれます。


ルーズ・ベネディクトという人は 日本の文化を「恥の文化」とよび

欧米の 「 罪の文化 」 に対立させています。


むかしから

恥をかかされたといって自殺した人は 日本にはたくさんいます。

そして 「 恥 」 を知る人は立派な人だとみられてきました。



たしかに 恥を知らない人よりも 知る人のほうが美しくみえます。


恥というのは 自分のむき出しの欲求を抑え

相手に快さを与えようという気持のあらわれです。


ですから そうした恥の気持をふみつけ 無視されると

・・・ 非常に苦しみを感ずる。

そのとき

恥の人は 相手の人を罰しようとせずに ・・・ 自分を痛めつけます。

自殺は その最後の自罰のあらわれ といってよいでしょうね。



しかし 大切なことは ・・・ 何を恥じるかということです。


自分の能力以上のことを要求されて できなかったために

衆人環視のなかで叱られたということを 「 恥 」とすべきなのか

それとも 自分の努力の至らなさを恥じなくてはならないか

・・・ どちらでしょうか。


あるいは

・・・ 粗末な衣服や 手狭な住居を恥ずかしいと思うべきなのか

才能や財力も乏しいのに

・・・ 見栄をはることを恥と感じねばならないのか

・・・ いずれなのでしょうか。







親子のきずな 8/8 ・・・ 無我 ・ 無私

2012-11-10 05:00:32 | 原発震災避難者


遠足



私たちは もともと 「 無体 」 「 勿体(もったい) 」 なのです。


勿体という ・・・ この考えから

「 もったいない 」 という言葉が生まれているのです。


自分のものなら もったいなさはない。

あらゆる自然と世の中の働きからの預かりもの

さずかりものだからこそ ・・・ もったいないのです。


その 「 自分 」 を 「 私 」 が

・・・ これを傷つけることは許されません。


生産尊重の根本には ・・・ この 「 無我 」 「 勿体 」 の思想があるのです。



ここから ・・・ すべての想いをスタートさせれば

・・・ 「 わが子 」 でなく 「 われらの子 」 であり

・・・ 「 わが財 」 でなく 「 我らが財 」 であるという

「 私有 」のまちがいがよくわかります。


「 我に子らあり 」 という利己が成りたたぬ以上

子供は 社会の子であり 他人の子もわが子であり

一切の区別 差別は ・・・ まったく無意味になります。



自他一如  自利利他という仏教の慈悲の思想を

これを忘れては ・・・ 理解できないのです。



もし 私たちが この 「 無我 」 「 無私 」 の本質がわかり

それが 人間社会であることにめざめれば

・・・ 奪いあいも 争いも この地上から消えるでしょうね。







親子のきずな 7/8 ・・・ 「 自分のもの 」 などない

2012-11-10 00:30:01 | 原発震災避難者


遠足



仏教は

どこにも 「 自分 」 とか 「 我 」 という 「 実体 」 はない

ただ自分というものを おたがいの頭の中でまとめているにすぎない

・・・ という原理に立つ教えです。 (再掲)



この例として よく車の例がひきあいに出されます。

「 ミリンダ王の問い 」 という経典のなかにでてくる話です。


ナガセーナという僧が 王に向かって 「 車 」 とは何かと問う。

車とは ・・・ 輪のことか 心棒か 軸か どれかときく。


それは車の一部分だ ・・・ と王は答える。


では 車はどこにあると重ねて問う。


王は答えられず

輪であり 心棒であり すべてがより集まったものだという。


つまり 車とは無数のものの集まりにすぎないわけです。



私たちのいう 「 自分 」 もそうでしょうね。

この私も

・・・ 鼻が 「 私 」 であるわけでもないし

・・・ 心臓と胃が 「 私 」 であるはずがない。

五官の機能 ・ 蛋白質 ・ 水分 ・ 皮膚 ・ 細胞など

ありとあらゆる働きが集まって ・・・ 「 私 」 はできている。

・・・ 「 自分のもの 」など どこにもありません。


このように 自分という「本体」がないのに ・・・

「 私の子 」 「 私の財産 」 などというものがあろうわけがないのです。


すべての言語 ・ 知識もみんな

・・・ 生後 誰かに教わったものです。