上野公園には年に数回ほど行っているが、ほとんどは美術展覧会で美術館に直行する程度。この広い上野公園全体は元々寛永寺の敷地だったという。それでも寛永寺の根本中堂には以前参拝したこともあるが、2度目の今回は上野公園に散在する寛永寺の堂宇を全部回ってみた。
寛永寺は、寛永2年(1625)に慈眼大師天海大僧正によおるって創建された。徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍の帰依を受けた天海大僧正は、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門にあたる上野の大地に寛永寺を建立した。これは。平安の昔、桓武天皇が帰依を受けた天台宗の宗祖最澄上人が開いた比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、朝廷の安穏を祈ることによるという。後には第四代将軍・德川家綱公の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになった。また東叡山主を皇室から迎えた(輪王寺宮)ことで、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となった。しかし、徳川時代の末期の慶応4年に、西郷隆盛と勝海舟との間で江戸城無血開城が取り交わされたあと、幕府側の抗戦派の幕臣たちが結成し上野に拠点となる大本営を設けた。彰義隊は強硬派が台頭し、徳川家の菩提寺である上野の寛永寺に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川親王)を擁立した。
そんななかに慶応4年7月に、新政府となる大総督府は、上野に集まった幕府軍を討伐するように各藩に命じ、大村益次郎の指揮のもと新政府軍は総攻撃をかけ、ほぼ彰義隊は全滅する。その戦闘の際に生じた火災で、寛永寺は根本中堂など主要な伽藍を焼失、壊滅的な打撃を受けた。黒門は荒川区の圓通寺に残されており、弾痕の残った柱などが保存されている。
参拝日 令和元年(2019)12月14日(土) 天候晴れ
所在地 東京都台東区上野桜木町1丁目14-11
山 号 東叡山
院 号 円頓院
宗 旨 天台宗 寺 格 関東総本山
本 尊 薬師如来(国重要文化財)
創建年 嘉永2年(1625) 開 山 天海
開 基 徳川家光
正式名 東叡山寛永寺円頓院
札所等 関東三十三個所6番
文化財 旧本坊表門、清水観音堂、木造薬師三尊像ほか(国重要文化財)
上野公園の象徴的モニュメント西郷隆盛銅像。
上野公園と寛永寺の案内図。
根本中堂。現在の根本中堂は、明治12年(1879)に川越喜多院の本地堂を山内子院の大慈院(現寛永寺)の地に移築し再建されたもの。御本尊は、伝教大師最澄上人の御自刻とされる薬師瑠璃光如来像(国重要文化財)を秘仏としてお祀りしている。
常憲院霊廟勅額門【国重要文化財】。 5代将軍徳川綱吉の霊廟の門である。寛永寺の御霊廟には、四代家綱公、五代綱吉公、八代吉宗公、十代家治公、十一代家斉公、十三代家定の6人の将軍が埋葬されている。第二次大戦の際にほとんどが焼失してしまった。勅額門は、延焼を逃れ水盤舎、奥院宝塔、奥院唐門と現存し往時を偲ぶことができる。
天璋院篤姫霊廟門【国重要文化財】。
清水観音堂【国重要文化財】。 京都東山の清水寺の本堂を模した懸造りの堂。寛永八年(1631)天海大僧正により建立。また、御本尊も清水寺より恵心僧都作の千手観音像を迎え秘仏として祀ってある。
月の松。 明治初期の台風被害によって失われていが、浮世絵にも描かれていた江戸の風景を復活させるため、平成24年(2012)に復元。現代の造園技術を駆使して造形された。
広重「名所江戸百景」より寛永寺・清水観音堂が描かれた「上野清水堂不忍ノ池」。
舞台上の正面向拝。
堂の外側に回廊が巡る。紅葉が美しい。
清水観音堂から不忍池辨天堂を見る。
不忍池辯天堂。 天海大僧正が琵琶湖竹生島になぞらえて、寛永年間に不忍池に中之島を築き、その地に建立された。現在のお堂は昭和33年(1958)に再建。御本尊の八臂大辯才天も、竹生島の宝厳寺から勧請したもの。
辨天堂から清水観音堂方向を見る。
不忍池。
時の鐘 寛文6年(1666)に設置された。現在の鐘は天明7年(1787)に鋳造されたもので、「東叡山大銅鐘」・「天明七丁未歳八月」と刻まれている。「花の雲 鐘は上野か 浅草か」は、松尾芭蕉が時の鐘かを思案して詠んだ。現在も、午前6時・正午・午後6時に撞かれる。
上野大仏 寛永八年(1631)に初建された上野の大仏様は度々罹災したが、その都度復興されている。しかし、関東大震災で首が落ち、第二次大戦時には軍の供出令により胴体を徴用されて、顔のみが残された。
パゴダ(仏塔)。 大仏殿の跡地にはパゴダ(仏塔)が建立され、本尊として旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られている。
上野公園は紅葉の季節。
五重塔【国重要文化財】。 寛永8年(1631)に建立した初代の塔が寛永16年(1639)に焼失した後、同年ただちに下総古河城主・土井利勝によって再建された。塔は、昭和33年(1958)に東京都の所有となっている。
寛永八年(1631)に初建されたこの塔は、第五層のみが銅板葺で、他は瓦葺となっており、高さは地上から先端の宝珠 まで36m、第一層には釈迦・薬師・阿弥陀・弥勒の四方四仏が江戸時代には祀られていた。(現在は東京国立博物館に寄託)動物園に入園しなければ近くまで行けない。
開山堂 東叡山の開山である慈眼大師天海大僧正を祀っている堂。天海僧正が尊崇していた慈惠大師良源大僧正もお祀りしているところから、一般に〝両大師〟と呼ばれ、庶民に信仰されてきた。 初建は正保元年(1644)だが、現在のお堂は平成五年に再建されたもの。
境内の外の通りは秋の色真っ盛り。
寛永寺旧本坊表門【国重要文化財】。 現在の東京国立博物館の地に建立された。寛永2年(1625)の初建。慶応4年(1868)の彰義隊の戦争により焼失し、現在はその表門だけが往時の姿を留めている。門には現在でも官軍の攻撃による弾痕が数多く残り、戦争の激しさを偲ばせている。
天海大僧正毛髪搭。 天海大僧正は、寛永20年(1643)に108歳で示寂された。諡号(しごう) 慈眼大師。墓所は日光山輪王寺に造られ、当山には弟子の晃海が供養塔を建立し、後に伝来していた毛髪を納めた宝塔も建立された。(都指定旧跡)
上野東照宮 1627年創建の東京都台東区上野公園に鎮座する神社。東照宮とは徳川家康公(東照大権現)を祀る神社で、日光や久能山の他、全国に数多く建立された。金色殿(社殿)などの豪華な建造物は、戦争や地震にも崩壊を免れた貴重な江戸初期建築として国の重要文化財に指定されている。
元和2年(1616)2月4日、天海僧正と藤堂高虎は危篤の徳川家康公の枕元に呼ばれ、三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しいと遺言された。
天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山。境内には多くの伽藍や子院が建立されましたが、嘉永4年(1627)その一つとして創建した神社「東照社」が上野東照宮の始まりとなる。正保3年(1646)には朝廷より正式に宮号を授けられ「東照宮」となった。
現存する社殿は慶安4年(1651)に三代将軍・徳川家光公が造営替えをしたもので、遠く日光までお参りに行くことができない江戸の人々のために日光東照宮に準じた豪華な社殿を建立したと言われている。 当ブログは寛永寺を主としているため東照宮は大幅に省略。
東照宮参道 右手に寛永寺五重塔が見える。
唐門【国重要文化財】 慶安4年(1641)に造営された。
柱内外の四額面に左甚五郎作の昇り龍、降り龍の彫刻があり、毎夜不忍池に水飲みに行くと言う伝説がある。
上野の森未術館 ゴッホ展を開催 天海大僧正の前にある。
案内図。
御朱印。
寛永寺 終了
(参考文献) 寛永寺HP フリー百科事典Wikipedia
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