百寺巡礼第43番 築地本願寺
埋立地に立つエキゾチックな寺院
東京都内における代表的な寺院の一つで、京都の西本願寺の直轄寺院となっている。
築地本願寺は江戸時代の元和3年(1617)に、西本願寺の別院として現在の日本橋横山町に建立され、「江戸海岸御坊」「浜町御坊」と呼ばれていた。しかし明暦3年(1657)の大火(振袖火事)により本堂を焼失。その後、江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付された。そこで佃島の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き(この埋め立て工事が地名築地の由来)、延宝7年(1679)年に再建。「築地御坊」と呼ばれるようになった。なお、このときの本堂は西南を向いて建てられ、場外市場のあたりが門前町となっていた。大正12年(1923)の関東大震災では、地震による倒壊は免れたが、すぐ後に起こった火災により再び伽藍を焼失。また、58か寺の寺中子院は、被災後の区画整理により各地へ移転。
現在の本堂は、昭和9年(1934)に当時の宗教建築としては珍しい鉄筋コンクリート造で建てられたもの。
浄土真宗本願寺派の新体制移行(2012年4月1日付)に伴い、正式名が従前の「本願寺築地別院」から「築地本願寺」になった。これにより、築地本願寺は全国唯一の直轄寺院となる。
参拝日 平成29年(2017)4月5日(水) 天候晴れ (令和5年(2023)12月22日再訪)
所在地 東京都中央区築地3-15-1 宗 派 浄土真宗本願寺派 本 尊 阿弥陀如来 創 建 元和3年(1617) 開 基 准如 正式名 浄土真宗本願寺派 築地本願寺 文化財 本堂(国重要文化財)
境内地図
築地本願寺から新大橋通から東銀座方角を見た。
築地本願寺正面入り口。
築地本願寺イコール本堂で、本堂全景を見る。
本堂の前から境内を見る。
本堂から門の方向に境内を見る。
本堂【国重要文化財】 古代インド様式をモチーフとした建物。 関東大震災で失われた旧本堂の復旧事業として昭和6年(1931)に起工し、昭和9年(1934)に竣工。当時、本願寺派法主・太谷光端と親交のあった東京帝国大学工学部名誉教授の伊東忠太による設計である。大理石彫刻がふんだんに用いられ、そのスタイルは現在においても斬新かつ荘厳で、築地の街の代表的な顔である。
宗教建築として、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造。2階建(一部に地下階を設ける)とし、建築面積は3,149.4㎡。本尊を安置する中央部と北翼部(向かって左)、南翼部(同右)からなる。この本堂はインド、西洋、イスラム、日本などの異なるモチーフを融合させた独自の様式を示すとともに、礼拝、説教、会議、事務など、仏教寺院のさまざまな機能を1棟で果たせるような合理的な設計になっており、伊東忠太の代表作の一つである。
屋根は陸屋根で、屋上中央に半筒形のヴォールト屋根を上げ、その正面は蓮華をモチーフとしたインドの石窟寺院風のデザインになる。中央部正面には4本の列柱を有する向拝と大階段を設ける。
外観は1階が石張り、2階はモルタルに目地を刻んで石張り風に見せ、柱形を造りだす。陸屋根の周囲にはパラペットを設ける。柱頭やパラペットのデザインはインド風である。
北翼と南翼の屋上にはそれぞれインドの仏塔(ストゥーパ)風の塔屋があり、北翼は鐘楼、南翼は鼓楼である。
外観にはインド風の意匠が目立つが、1階を基壇風に扱って、列柱のある2階を基準階とする点、パラペットを含めて3層構成にする点など、全体の構成には西洋建築の影響もみられる。
2階の窓は日本の仏教寺院にみられる花頭窓をモチーフにしている。
本尊を安置する内陣や参拝者のための空間である外陣は大階段を上った2階に位置し、1階は基壇風の扱いになっている。
大階段の手摺は独特の曲線を描き、左右に2体ずつの獅子像を置く。
階段の昇り口の両面の配された翼の生えた獅子像。仁王像と同じように右と左に獅子像を拝し、それも阿吽獅子像としている。こちらは左側で口を閉じた阿形獅子。後には鬣(たてがみ)があり、尾が細く先だけフサフサしていてる。入り口の柱にも獅子。
入口に設けられた柱。
入口から境内、そして東銀座の街並みを見る。
入口床のモザイク。
外陣手前の広間(前室)の、欄間はステンドグラスで装飾。 内側から撮影しお線香の煙がかすかに映る。
大階段を上がると「広間」と称する横長の前室を経て外陣がある。
外陣の入り口の様子。仏教賛歌(明治以降に西洋音楽を取り入れた仏教音楽)の伴奏用として入口入った左右にパイプオルガンを備え、キリスト教の教会堂のナルテックス(正面の玄関)を思わせる。
パイプオルガンは、仏教音楽の普及のために昭和45年(1970)に寄進された。毎月最終金曜日の12:20〜12:50に無料コンサートを行っているという。パイプオルガンは、大小2000本のパイプで構成されている。
外陣には約800席の椅子が並べられている。
外陣の端の通路は、寺というより教会に雰囲気を感じる。
外陣から内陣を見る。
その奥が本尊を安置する内陣である。外陣は畳ではなく椅子席とし、多くの椅子が背ってされている。
内部の柱や梁はコンクリート製だが、組物、蟇股、格天井などは木製で、和風仏堂の要素も加味している。
天井は折り上げ格天井で和風の趣き。
内陣須弥壇を見る。 築地本願寺は内部まで撮影が可能である。ほかの寺も開放してほしい。平成27年(2015)に銀行員・経営コンサルタント出身の安永雄玄氏が宗務長に就任し、他宗派信徒や訪日外国人などにも「開かれた寺を目指す寺」のプロジェクトが進められているので、その結果だと思われる。
平面構成は内陣の両脇に「余間」を設ける点、外陣を広く取る点などは伝統的な真宗本堂の形式を踏襲している。
組物と折り上げ格天井で構成。
外陣の腰壁の彫刻模様。
インド風窓を内側から。
花頭窓を内側から。
境内には全部で13種類の動物の彫刻が置かれている。これらの動物を探すのも築地本願寺の楽しみ。
動物の彫刻。 左上、鳳凰。 右上、馬と獅子。左下、牛。右下、馬と獅子。
像の彫刻。象は仏教と所縁の深い動物。釈迦の生母・摩耶夫人は象が体内に入る夢をみて釈迦を懐妊したと伝わっている。
手水舎。 石造りの豪華なもの。浄土真宗では、参拝の際に身を清める必要はないが、参拝者が遠くから歩いてきた時代、堂を汚さないように足を洗うためのもの。
大灯籠。 正門から右手方向に位置する。石柱に「威神無極」(その神々しいお姿は何よりも美しいという意味)と字が刻まれているが、写ってない。人の背丈と比べると大きさが比較できる。
親鸞聖人像。 境内の北西(築地場外市場寄り)の一画にたつ。
上左:眼科医・土生玄硯の墓 上右:江戸の画家・酒井抱一の墓。 下左:佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔。 下右:3本の石塔はなんだろう?・・・未調査。
築地本願寺(本堂)全景。
築地本願寺の隣は、築地場外市場。
案内図
五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー冒険家であった稀有な宗主と、独創的な建築を生みだしてきた異端ともいえる建築家が出会った。その出会いが無ければ、現在の築地本願寺は生まれなかっただろう。伊東と大谷が知り合ったのは、大谷探検隊がきっかけだったと聞く。築地本願寺とは、伊東忠太と大谷光端という型破りな二人が生みだした、奇跡の建築ともいえるだろう。はじめ門徒たちは、前例のない発想に驚き、伊東の設計に強く反対したそうだ。伊東は何度も挫折に味わった。そしてようやく手掛けた本願寺という大寺院の建築は、伊東にとって一生一代の大仕事だったと言える。ついに長年の計画が実現したとき、彼は深い感慨にひたったことだろう。そして、異色の建築家を起用した大谷宗主と、喜びを分かちあったにちがいない。二人のエピソードを思い描きつつ、改めて本堂や社務所を見てまわった。この異色の建築には、伊東忠太が自分の目でとらえたオリエンタルリズムが色濃く映しだされているような気がする。アラブ・イスラム社会、その起源である中央アジア、あるいはチベット、インドといったオリエンタル文明である。<中略> だが、この建築の特徴として見落とせないのは、建物のいたるところに彫刻された妖怪とも思える動物だ。猿がいる。像がいる。鳥がいる。寺務所の階段には、ペロリと舌を伸ばす獅子のような顔が彫られ、その舌が手すりになっていた。なんでも伊東忠太という人は、異常なほど妖怪が好きだったらしい。彫刻されたそれぞれの動物にも意味があり、仏教寺院としての願いがこめられていると聞いた。こうした動物をひとつずつ探してみるのも面白い。
御朱印 なし
築地本願寺 終了
(百寺巡礼の参拝経過)
五木寛之著「百寺巡礼」10巻に掲載の寺院100寺を参拝しようと、平成27年(2015)9月に三重県の専修寺から始め、令和5年(2023)末までに56寺を巡ることができた。途中コロナ禍の影響により3年ほど出かけられない時期があったが、足掛け9年間ほど続けた。残りの寺院は、あと6年ほどかけて訪れたいと思っている。
参拝ができた寺数
百寺巡礼 第1巻奈良 10寺参拝
百寺巡礼 第2巻北陸 1寺
百寺巡礼 第3巻京都Ⅰ 9寺
百寺巡礼 第4巻滋賀・東海 9寺
百寺巡礼 第5巻関東・信州 9寺
百寺巡礼 第6巻関西 4寺
百寺巡礼 第7巻東北 5寺
百寺巡礼 第8巻山陰・山陽 0寺
百寺巡礼 第9巻京都Ⅱ 5寺
百寺巡礼 第10巻四国・九州 4寺
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