気心は未だ若い「老生」の「余話」

このブログは、閑居の間に
「言・観・考・読・聴」した事柄に関する
 雑感を主に綴った呆け防止のための雑記帳です。

心の拠りどころ

2016-01-13 17:22:11 | 信仰

時々妻宛てに送られてくるキリスト教系の小冊子に、同年代のある方が、次のような投稿をされている記事を読んだ。その記事全文は次のとおりである。

私は83歳の浄土真宗の仏教徒です。しかし、宗教に垣根を持たず、いかなる宗教の人達ともお付き合いをさせて頂きました。自分の信ずるものをしっかり守って信じて生きている人達に敬意を表します。お送り頂いた小冊子はゆっくり読ませて頂きました。仏教にも、このような解りやすい言葉で書かれてあればと、ずっと考えていました。

最近の世情は、誠に惨憺としたものです。仏教徒の一人として悲しく嘆いています。何んでもいい、心の拠り所を持ってほしいと願っています。と、僅か220字弱の短稿を読んで投稿者の真意が、当方には実によく伝わってきた。

当方の実家は禅宗だが当方は無宗教。妻は若い頃からのクリスチャンである。当方は強いて言えば仏教徒系である。これ迄、般若心経に関する諸種の解説書も読んだし、般若心経の全文は記憶している。

経文を見ずに全文書くことも出来る。手元にある「修証義」(宗旨を檀家向けに解り易く書いた教え)の他に、和英対訳の聖書をごく偶に開いて読んだりもしている。

世知辛い世の中を生きていく上で、「心の平安は命の糧のようなもの」だから、当方のように、無信仰の人にもその人なりの「心の平安を求める心」がある。

そこで、その心を特定の教義により、如何に純化し揺るぎ無いものにするか、現世では、その選択肢が余りにも多様であり過ぎる。それ故に「心に宗教心があっても、色付きのない宗教心を有する凡人」が日本では特に多いのだろうと思う。

因みに、前記の投稿が掲載されていた冊子の末尾に、「我らの信条」として次のようなことが紹介されている。

既成の教派とは違うが、【求める”もの”と”方向性”は実に明確で、成程「然り」ではないか】と感じた次第である。現代に生きる我々は、”その人なりの、はっきりした心の拠りどころを持つこと”は、必要不可欠な心得であろうと思う。

我らの信条

我らは、日本の精神的荒廃を嘆き、大和魂の振起を願う。

我らは、日本人の心に宗教の復興を願い、原始福音の再興を祈る。

我らは、無教会主義に立つ。従っていかなる教会・教徒にも属せず、作らず、ただ旧約聖書に学ぶものである。

我らは、キリスト教の純化を願うが、日本の他の諸宗教を愛し、祖師たちの人格を崇敬するものである。

我らは、政党・政派を超越して、愛と慈善と平和をもって、日本社会の聖化を期し、社会正義と人類愛を宣揚するものである。

キリストは言いたもう。

”すべて労する者、重荷を負う者、われに来たれ、われ汝らを休ません”


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