気心は未だ若い「老生」の「余話」

このブログは、閑居の間に
「言・観・考・読・聴」した事柄に関する
 雑感を主に綴った呆け防止のための雑記帳です。

人夫々の信仰心

2014-05-31 09:25:09 | 信仰
当方は信仰とは、「何かの宗教を受け入れてそれを生活信条の中心にした考え方・生き方をすることだ」と思っている。では宗教とは何か、人間に何故宗教や信仰が必要か否か、疑問の輪が広がるがここではそのことには触れないでおく。
我家は、当方を除き娘達その家族を含めオールクリスチャンである。約50年前、都内神田のYMCAで挙式した祭、妻は既に洗礼を受けていた。結婚後故あって挙式時の司式牧師宅に暫く世話になっていた頃、そのK牧師に「貴方もまず、信じなさい。さすれば心も豊かになり生き方も変わるのだから・・」と何度も諭された。その後も妻達が世話になって来た別の牧師諸氏から同様な説論を受けた。しかし、その勧めを受け入れることなく今日に至っている。
所詮、信仰はその人の心に関する問題だから、他律ではなく自律的に何かを信じて求めたいと思う「時期・場合」に求めれば良いのではないか。受入れの時期の遅速は問題ではなかろう。反社会的な教義集団でない限り、どんな宗旨の信仰を受け入れるか、それは基本的にはその人の意思によるべきだろう。では、貴方は何を信じているのかと問われた際は、私は「仏教」わけても「般若心経」を信じていると答えている。何故なら僅か300字足らずで書かれている「般若心経」には、人の心のあり方から三世(過去・現在・未来)や無限世界に関する真髄が凝縮して説かれており、時に無声で称えることにより「然り」と思えるし心の平安を感ずるからである。
これ迄この関連の参考本もかなり読んだ。教本を見ずに全文を書くことも称えることも出来るのが老生のささやか誇りでもある。

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