気心は未だ若い「老生」の「余話」

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 雑感を主に綴った呆け防止のための雑記帳です。

自分の死の迎え方

2014-07-14 20:30:33 | 終活

最近「家族葬」とか「自然葬」に「ゼロ葬」だの「直葬」などの言葉を耳にする度に、自分の場合はどうすべきか死の迎え方について暫し考えるようになって来ている。そんな気持ちもあって駅前の本屋に立ち寄り、書店備え付けのパソコンで検索したところ、表題関連の著書がかなりあることが判った。早速、次の著書を順次手にして目次を拾い読みした。

1.うらやましい死に方(五木寛之)2.終活なんておやめなさい(ひろ さちや).「0葬」-あっさり死ぬ(島田裕己)4.こうして死ねたら悔いはない(石飛幸己)5.死ぬことが怖くなくなるひとつの方法(坂本政道・矢作直樹)6.野垂死の覚悟(曽野綾子・近藤 誠)7.心安らぐお別れの心得(枡野俊明)などで他にも類似本は未だあった。

上記本中「終活なんておやめなさい」を座り読み(テーブルを囲んで6人椅子に腰掛けて読める有難いコーナで)し、約1時間で概読した。この著者、宗教評論家の本名増原 良彦(ペンネームひろ さちや)氏は、同書の中で要旨「己が存在しなくなった死後のことに関し、思い煩い悩む必要は全くない。お釈迦様は現世で仏を敬い、命を大切に生きることを説いてはいるが、死後はこうあるべきだなどとは説いていない。

だから、己の葬儀のことについてあれこれ言い残す必要もない。立派な死に方など考えても意味がなく、死の迎え方は出たとこ勝負でいい。後のことは、遺族に全て任せればよい。頼るべき遺族がいなければ 行政に委ねればよい。遺族の心の問題もあるので一概には言えないが、基本的には葬儀も位牌も戒名などもなくてもいいのではないか。要は死んでからのことよりも、生ある今を如何に生きるかの方が大切である」と説いている。

当方この考えに全く同感だ。己の葬儀に関し、多少の骨は故郷の海に散骨して欲しいとの願望はある。しかし、家族はクリスチャンなので葬儀は、多分教会の牧師にお願いすることになるのだろうし、墓地は市民墓地になるのかどうか、そんなことも全て家族任せの積もりでいる。だから以前から思っているとおり、当方は、己の葬儀の流儀・形式・内容には何の拘りもない。勿論戒名や位牌等当方には不似合いなのでそれも全く不要だ。

ところで最近、高齢者療養施設で聞いた話では、入居者の中には、死後は病院施設等から直接葬祭場で火葬して貰い、葬儀も不要だと願う高齢者もいるそうである。病院側や葬祭場関係の都合がつき、所定の手続きを経ればそれも可能で、現に行われている例もあるとのことである。

いずれにしても、当方は家族に残す財産らしいものも特にないから、「死後のことについては基本的には我関せずだ。どうぞ妻子よ、ご随意に葬り願いたい・・」ということにしている。願うことなら、葬儀も簡素にし、全て終ってから知友人にそれとなくお知らせをして貰えば有難い。後は自宅に元気な頃の写真が1枚残っていればそれで十分だ。


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