昭和20年、私は小学校5年生で、父の故郷、高知県の南端黒潮町(当時・佐賀町)での疎開生でした。担当は独身女性の、田頭先生で「日本は負けりゃせん」が、口癖の女丈夫でした、一日に何回聴かされたか、恐らく自分の不安を払拭したい思いで、自分に言い聞かせていたのでしょう。その田頭先生がマッチ箱爆弾の話をするようになったのは、広島に原爆が投下される少し前あたりからでした。
マッチ箱程度の大きさの爆弾が、都市を全滅させる、と言う説明でした。当時の日本にもすでに、核爆弾の知識はあったようです。日本の敗戦は濃厚で、制空権は完全に取られており、米軍機が自由に飛び回り、ビラを撒いていました。敵の謀略だから、ビラの内容を信じてはいけないと言って、ビラを回収していましたが、そのビラから何となく、核爆弾の投下が漏れていたのだろうと思われます。70年前の8月6日、広島に原爆が投下されました。原爆の威力テストのために虐殺された、残虐さに言葉もありませんが、只々ご冥福を祈っています。
マッチ箱程度の大きさの爆弾が、都市を全滅させる、と言う説明でした。当時の日本にもすでに、核爆弾の知識はあったようです。日本の敗戦は濃厚で、制空権は完全に取られており、米軍機が自由に飛び回り、ビラを撒いていました。敵の謀略だから、ビラの内容を信じてはいけないと言って、ビラを回収していましたが、そのビラから何となく、核爆弾の投下が漏れていたのだろうと思われます。70年前の8月6日、広島に原爆が投下されました。原爆の威力テストのために虐殺された、残虐さに言葉もありませんが、只々ご冥福を祈っています。