あれから72年が過ぎました、私は国民学校5年生11歳の夏でした、疎開者の私たち一家には田畑が無かったので、海や川、野山へ食糧確保に出かけるのが子供にとっても日常の習慣でしたが半分は遊びでした、当日も朝から近くの川に、手長エビやゴンドウ(川魚)を獲りに出かけて、冷えた体を堤防の石垣で温めているとき、警報解除のサイレンが鳴りました、何だろうなと思いながら帰途に就いたのが、玉音放送の後でした。
私たち一家が父の縁故をた依って、高知県の南端に疎開したのが昭和16年でした、小さな貿易商を営んでいた父が、まだ大阪も空襲にあっていない時点で早々に疎開に踏み切り、兄が高知市内の工業高校で軍需工場への学生動員で駆り出されていた程度で、父母兄弟身近な縁戚者にも死傷者がなく、食糧難以外に戦争の悲惨さを直接経験していません、食糧難と言っても海や山川の幸に恵まれた地でしたので、飢えに苦しむことはありませんでした。
占領軍がこの地に現れたのは9月頃でしたか、銃を構えた3人組みが家々を覗いて歩いていました、藁ぶき屋根の暗い屋内で、動いたら撃たれるんじゃないかと緊張している時、父が突然アメリカ兵に話しかけ、私が使っていた「肉弾3銃士」の文鎮を差し出し説明しながらプレゼントしました、突然英語で話しかけられた米兵たちもビクリしたようですが、説明を聞いているうちに緊張が解けプレゼントを受け取り笑顔で去ってゆきました、この時からアメリカ兵も普通の人間だと安心しました。
終戦記念日の今日、各新聞が特集を組んでいます、かっての日本兵の残虐非道を鵜の目鷹の目で探している気配が紙上から窺われます、中日新聞に掲載されていた、一人の民間人を情報漏洩を防ぐため上官命令で刺殺した話などは、取材記者が特ダネ賞を受けるのではないかと思われる意気込みで掲載されていました、日本兵がアジア諸国で残した美談を、紙上で見かけたことがありません、新聞社の自虐思想普及報道と言うべき状態は嘆かわしい限りです。
私たち一家が父の縁故をた依って、高知県の南端に疎開したのが昭和16年でした、小さな貿易商を営んでいた父が、まだ大阪も空襲にあっていない時点で早々に疎開に踏み切り、兄が高知市内の工業高校で軍需工場への学生動員で駆り出されていた程度で、父母兄弟身近な縁戚者にも死傷者がなく、食糧難以外に戦争の悲惨さを直接経験していません、食糧難と言っても海や山川の幸に恵まれた地でしたので、飢えに苦しむことはありませんでした。
占領軍がこの地に現れたのは9月頃でしたか、銃を構えた3人組みが家々を覗いて歩いていました、藁ぶき屋根の暗い屋内で、動いたら撃たれるんじゃないかと緊張している時、父が突然アメリカ兵に話しかけ、私が使っていた「肉弾3銃士」の文鎮を差し出し説明しながらプレゼントしました、突然英語で話しかけられた米兵たちもビクリしたようですが、説明を聞いているうちに緊張が解けプレゼントを受け取り笑顔で去ってゆきました、この時からアメリカ兵も普通の人間だと安心しました。
終戦記念日の今日、各新聞が特集を組んでいます、かっての日本兵の残虐非道を鵜の目鷹の目で探している気配が紙上から窺われます、中日新聞に掲載されていた、一人の民間人を情報漏洩を防ぐため上官命令で刺殺した話などは、取材記者が特ダネ賞を受けるのではないかと思われる意気込みで掲載されていました、日本兵がアジア諸国で残した美談を、紙上で見かけたことがありません、新聞社の自虐思想普及報道と言うべき状態は嘆かわしい限りです。
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