快晴。27-19℃。
暑い一日だった。
今日のカラスさん。


昨日から三羽(一対二で)あらわれるのだった。





アゲハを呼ぶための三つ葉に花が。

林檎たち。





結局、クィーン・エリザベス?

今日は亡き母の誕生日である…。
最期のあの日から、
母にもっと言えば良かった、いや、言わねば良かった、
その思いだけが毎日ぐるぐると、心中に去来している。
(だから、人とかかわるのは辛すぎて嫌なのだ。)
私の厳しかった母の美点をあげるとすれば、
とにかく数式に強く、スポーツ万能、
器用に物事をこなし、物作りの達人であったことである。
反抗期を通りすぎ(ても反抗期の)中年になった娘の私と、晩年の老いた母は、
良く洋裁を一緒にした、晩年は主にリフォームであるが。
縫い手は器用な母であったが、私がデザインを修正した。
あれほど頑固な彼女も、
晩年は私のセンスを「とても良い」と、言ってくれていた…。
私が多分一生後悔するであろう記憶は、母に、
母から父に贈る、最後の父のバレンタインのチョコレートに、
「カードを手書きで描いてくれ」と頼まれた時に、
私はあの頃は手が痛くなくて、右手は自由自在に動いていたのに、
「自分でやれ」って、喧嘩を売った事である。
(断った理由は絵を習っていた時代、それに好意的でないとか、私ばかり介護とか。)
今でも申し訳なく思う、バレンタインの季節は思い出して辛い…。
(実は、私はあの祭りで他人に差しあげたことが、一度も無いにもかかわらずw)
遺品整理をした時に、倉庫には県展で賞をとった私の油絵が取ってあって、
人物画が苦手だったが姉がモデルで、親は捨てれなかったのだ、
泣けて、従弟に田圃で焼却してもらった…。
私が読むたびに、亡き母を思い出す文章をあげてみる。
母の真実の姿をどうしたら私は如実に描き出すことが出来るだろうか?一枚の新聞紙すらも家の中で何かの必要性があるかもしれないからといって、破る事をしなかったくらいに切りつめた生活をしなければならなかったのだから、気の弱い者だったら、その倹約のためにでも押しひしがれてしまったであろう。
気がついて見ると何枚かの同じ服を、幾年となく着続けていながら、いつも不思議なほど新鮮で美しかった。
リボン一つを結ぶ、花を一輪襟元につける、そんなちょっとした工夫で、新調のガウンを身につけているような感じになる。
それが母の服装芸術であった。
屋根裏に大きなブリキ張りの箱があって、ありったけの使い古しの帽子や、造花や、リボンが入れてあった。
毎年二回、母は陽気な声で私たちに呼びかける。
「さぁ、巴里に行って、季節の帽子を買って来ようよ!」
私たちは真面目くさった顔をして、大袈裟な身振りをしながら屋根裏に登ってゆく。
ブリキ張りの箱を開けて、母は器用な手つきで娘たちと自分のために帽子を造るのだった。
母の細工になったものに不満を感じたおぼえがない。
普通の店で買う帽子と違う点があったとすれば、それはどこで見たものよりも綺麗で、気品があったことだ。
もし宣教師の妻にならずに、別の生活を選んだならば、第一流の婦人帽製作者、声楽家、芸術家または何の方面でも必ず傑出していたに違いない。
母の想像力と愉快なナンセンスと器用な指先とは、私たちに新しい帽子を買いに行くのと同じ幻想と興奮を作り出したのである。
何年かの後、私は新しい帽子を買う為に巴里へ行ったけれど、
屋根裏の階段をのぼって、ブリキ張りの箱の中にある巴里へ行った時の旋律するような興奮の半分も味わえなかった。
【「母の肖像」パール・パック著 村岡花子訳】









明日はレッスンの日だ。
結局、手は痛いが、音楽は私を何よりも慰めてくれている。
多分、一生慰め続けてくれるだろう。
楽器一台と楽譜以外物も増えないし、実に私向きである。
もう何も、技術以外はいらない。
理想の暮らしは、音大生の防音室のアパートくらいでやっていけると思うまでになった。
我が母の教えたまひし歌
Songs My Mother Taught Me - Itzhak Perlman ( Dvorak )
暑い一日だった。
今日のカラスさん。


昨日から三羽(一対二で)あらわれるのだった。





アゲハを呼ぶための三つ葉に花が。

林檎たち。





結局、クィーン・エリザベス?

今日は亡き母の誕生日である…。
最期のあの日から、
母にもっと言えば良かった、いや、言わねば良かった、
その思いだけが毎日ぐるぐると、心中に去来している。
(だから、人とかかわるのは辛すぎて嫌なのだ。)
私の厳しかった母の美点をあげるとすれば、
とにかく数式に強く、スポーツ万能、
器用に物事をこなし、物作りの達人であったことである。
反抗期を通りすぎ(ても反抗期の)中年になった娘の私と、晩年の老いた母は、
良く洋裁を一緒にした、晩年は主にリフォームであるが。
縫い手は器用な母であったが、私がデザインを修正した。
あれほど頑固な彼女も、
晩年は私のセンスを「とても良い」と、言ってくれていた…。
私が多分一生後悔するであろう記憶は、母に、
母から父に贈る、最後の父のバレンタインのチョコレートに、
「カードを手書きで描いてくれ」と頼まれた時に、
私はあの頃は手が痛くなくて、右手は自由自在に動いていたのに、
「自分でやれ」って、喧嘩を売った事である。
(断った理由は絵を習っていた時代、それに好意的でないとか、私ばかり介護とか。)
今でも申し訳なく思う、バレンタインの季節は思い出して辛い…。
(実は、私はあの祭りで他人に差しあげたことが、一度も無いにもかかわらずw)
遺品整理をした時に、倉庫には県展で賞をとった私の油絵が取ってあって、
人物画が苦手だったが姉がモデルで、親は捨てれなかったのだ、
泣けて、従弟に田圃で焼却してもらった…。
私が読むたびに、亡き母を思い出す文章をあげてみる。
母の真実の姿をどうしたら私は如実に描き出すことが出来るだろうか?一枚の新聞紙すらも家の中で何かの必要性があるかもしれないからといって、破る事をしなかったくらいに切りつめた生活をしなければならなかったのだから、気の弱い者だったら、その倹約のためにでも押しひしがれてしまったであろう。
気がついて見ると何枚かの同じ服を、幾年となく着続けていながら、いつも不思議なほど新鮮で美しかった。
リボン一つを結ぶ、花を一輪襟元につける、そんなちょっとした工夫で、新調のガウンを身につけているような感じになる。
それが母の服装芸術であった。
屋根裏に大きなブリキ張りの箱があって、ありったけの使い古しの帽子や、造花や、リボンが入れてあった。
毎年二回、母は陽気な声で私たちに呼びかける。
「さぁ、巴里に行って、季節の帽子を買って来ようよ!」
私たちは真面目くさった顔をして、大袈裟な身振りをしながら屋根裏に登ってゆく。
ブリキ張りの箱を開けて、母は器用な手つきで娘たちと自分のために帽子を造るのだった。
母の細工になったものに不満を感じたおぼえがない。
普通の店で買う帽子と違う点があったとすれば、それはどこで見たものよりも綺麗で、気品があったことだ。
もし宣教師の妻にならずに、別の生活を選んだならば、第一流の婦人帽製作者、声楽家、芸術家または何の方面でも必ず傑出していたに違いない。
母の想像力と愉快なナンセンスと器用な指先とは、私たちに新しい帽子を買いに行くのと同じ幻想と興奮を作り出したのである。
何年かの後、私は新しい帽子を買う為に巴里へ行ったけれど、
屋根裏の階段をのぼって、ブリキ張りの箱の中にある巴里へ行った時の旋律するような興奮の半分も味わえなかった。
【「母の肖像」パール・パック著 村岡花子訳】









明日はレッスンの日だ。
結局、手は痛いが、音楽は私を何よりも慰めてくれている。
多分、一生慰め続けてくれるだろう。
楽器一台と楽譜以外物も増えないし、実に私向きである。
もう何も、技術以外はいらない。
理想の暮らしは、音大生の防音室のアパートくらいでやっていけると思うまでになった。
我が母の教えたまひし歌
Songs My Mother Taught Me - Itzhak Perlman ( Dvorak )