MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯330 「国益」という言葉の持つ危うさ

2015年04月10日 | 社会・経済


 以前はあまり親しみのなかった「国益」といういささか生硬な日本語を、最近は、政治的な議論の場や、報道、Web上の言説などでしばしば耳にし、目にするようになりました。

 Wikipediaによれば、日本における「国益」は、諸藩領国の商品生産や手工業生産における国産品自給自足の思想や経済自立化の思想を表す経済概念として、江戸中期(宝暦~天明期)の文書などにおいて既に用いられていたということです。

 それが、明治期以降、主に「国家の商業的な利益」を指す経済概念として建議論説などにさかんに利用されるようになり、さらに戦後の1960年代頃からは、「national interest」の訳語として、ひとつの「政治概念」を表す言葉として使用されるようになったとされています。

 メディアなどで活躍する田原総一朗氏は、4月1日の日経Biz(on line)において、この「国益」が安易に使われている最近の状況が、民主主義を否定する方向に向かう社会の危うさを映し出しているのではないかとして、ジャーナリストの視点から深い懸念を示しています。

 日本を含めた欧米諸国によるロシアのクリミア編入への批判の声が高まる中、ロシアの招きにより単独クリミアを訪問した鳩山由紀夫元首相の行動が、「国益を損ねる」ものとして政府、与野党からこぞって非難されたのは記憶に新しいところです。

 また、いわゆる従軍慰安婦問題の発端ともなった1982年の朝日新聞による慰安婦報道についても、世界に向けて誤った情報を発信したことにより「国益を損ねた」と世論から総じて厳しい批判を浴びています。

 さらに、今年1月に発生した過激派組織「イスラム国」(IS)による日本人人質事件の際にも、政府が危険とする地域に渡航し人質となった後藤健二さんと湯川遥菜さんの行動が、「国益を損なう」(軽率な)ものとして批難される声があがっていました。

 田原氏はこの論評において、こうした多用される「国益を損ねる」という言い方はとても嫌な表現だと述べています。

 そもそも、この「国益」という言葉は、そう簡単に発して良いものなのか。田原氏の思いは、大陸での戦いから太平洋戦争に足を踏み入れた当時の日本の国内世論に遡ります。

 (結果論ばかりでなく)客観的に見てあの戦争に勝てる見込みはなく、戦争を始めたことこそが「国益を損ねる」行為であるのは明らかだった。しかし当時は、「戦争反対」を公に唱えただけで「国益」の名のもとに世論から白眼視され、官憲に追われ、場合によっては監獄に投じられた。

 つまり、「国益」の名のもとに、本当の国益が損なわれたと田原氏は指摘しています。

 氏は、沖縄普天間基地の辺野古周辺への移設に反対する沖縄県の翁長雄志知事に対し、ある新聞が「沖縄が国益を損ねている」という論評を掲載したことに触れ、「国益」を安易に口にするこうしたマスコミ(や政治)の風潮に同様の危うさを感じ取っています。

 国の方針と自治体(つまり県民)の思いが相反するとき、相手に対してお互いに説明を尽くし、わかり合おうとする努力が必要なのは言うまでもありません。しかし、そうした努力を怠り、「国益」という言葉を使って一方を押さえ込むような作法が許されるのであれば、それはまさしく「民主主義」を否定することに繋がると田原氏は言います。

 (特に政府の方針に反するような行為に対して)「国益」という言葉を簡単に持ち出して批判する言説が、最近特に増えてはいないだろうか。民主主義を守るためにも、この機会に是非、「国益」とは何かをじっくり考えてほしいと、田原氏はこの論評を結んでいます。

 氏の指摘するように、最近の「国益」という言葉の使われ方の中には、戦前の「非国民」や「天皇の統帥権」などにもつながる、(ある意味「問答無用」という)言論封殺の匂いが感じられるものもあるような気がします。

 「国益」をその問題の判断基準とすべきなのかなども含め、様々な視点からの議論や意見交換を認める社会の在り方こそが「民主主義」の基盤となるという基本的な視座を、田原氏のこの論評は改めて私たちに与えてくれているように感じたところです。



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