MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2039 ロゴス(logos)とレンマ(lemma)

2021年12月12日 | 日記・エッセイ・コラム


 古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、人を動かす(説得する)ためには「エトス(信頼)」「バトス(共感)」「ロゴス(論理)」の、いわゆる「アリストテレスの3要素」が必要だと話したとされています。

 相手の信頼を勝ち取り、相手の感情に訴え、そして論理的に説明し理解を得る。中でもロゴスは、同一律、矛盾律、排中律の論理の3法則に基づく(欧米社会の)思考や理性の基本モデルとして、現代社会のシステムを有形無形に形作ってきたと言っても過言ではないでしょう。

 「ロゴス(logos)」とは、「自分の前に集められた事物を並べて整理する」ことを意味しています。その本質は時間軸に従い線形に進むところにあり、真理は非合理性を倫理上で排除したその先にある(唯一の)ものと考えられているところです。

 一方、このロゴスに対峙する哲学上の概念として、「レンマ(lemma)」というものが提示されています。レンマは、元来「律」「句」を意味する哲学用語のこと。現在でも「二律背反=ジレンマ」などという言葉で広く知られています。

 レンマは、ロゴスのように論理によって得られた理解や結論ではなく、あくまで「直観によって事物をまるごと把握する」という認知のこと。個々の理屈ではなく、全体をすっと心に落ちる感じで理解する、「感性的と融合した知性」を表す場合に使われることが多いようです。

 もとより西洋では、伝統的に「ロゴス的知性」が重要視され、(アリストテレスではありませんが)理性といえば何よりもまずロゴス(=論理性)が求められてきたのは言うまでもありません。

 一方、長く続いた農業社会の中でエトスやパトスの存在を重視してきた東洋では、(徳をもって導く)「レンマ的知性」こそが、理性本来のあり方と捉えられる傾向が強まったと考えられています。

 勿論、この場で、どちらが「有理」という議論をしてもあまり意味があるとは思えませんが、10月9日の日本経済新聞の書評コーナー「半歩遅れの読書術」に作家の島田雅彦氏が、「論理よりレンマの直観を」と題する興味深い一文を寄せていたので、この機会に概要を残しておきたいと思います。

 レンマとはロゴスに対置される概念で、秩序立った論理の体系であるロゴスに対して直観的認識、閃きのようなものを指す。人間のみならず、生命の全てに宿る「暗黙知」をも意味する概念だと島田氏は説明しています。

 古代ギリシャ、イオニアの自然哲学においては、ロゴスとレンマはもともと一体のものだった。しかし、ポリスの政治において言葉が重視され真と偽を分ける哲学が中心になってくると、ロゴスの優位性が高まり、レンマがサブの地位に追いやられたというのが氏の認識です。

 もっとも、(それでも)真偽を決めようとするとパラドックスやジレンマという否定的副産物が生じるので、それを解消する知恵としてレンマは活用されてもきたということです。

 ロゴスとレンマの対称性は、たとえば宗教論争での正統と異端、物理学に対する量子力学、意識に対する無意識、法律や科学に対する文学、現実に対する理想といった具合に、時代を超え、様々な領域で反復されてきた。思想史を振り返えれば、哲学、言語学、数学、量子力学、精神分析、脳科学などのあらゆる領域で、ブレイクスルーの秘訣はレンマにあったと氏は言います。

 フロイトが言語発生のメカニズムの基盤と考えた無意識、マルクスが経済を分析するために注目した生産力、ニーチェが生の哲学の基本原則として考えた永遠回帰といった概念も、レンマ的知性の端的な現れだったというのが氏の指摘するところです。

 私たちは意識と無意識、ロゴスとレンマに当たる2つの心を抱え込んでいて、その矛盾に苦しむと、統合失調と呼ばれたりする。今までの常識だと、無意識を抑圧し、「ロゴス的な秩序」へ統合することを治療と見做してきたが、実は統合失調的な症状の中にこそレンマ的知性が現れているというのが氏の認識です。

 さて、(一方)レンマがもたらす気宇壮大な思考のパラダイム・シフトは(「ロゴス=正常」とみなす現代人には)なかなか理解されにくく、何となく「胡散臭(うさんくさ)い」と感じる人も多かろうと島田氏は話しています。

 フロイトも最初はオカルト扱いされたし、マルクスは未だに資本主義信奉者には危険思想のまま。ニーチェは(少なくとも当時)ほんの一握りの理解者にしか恵まれなかったということです。

 科学はしばしば「よくわからないことは探求しない」という態度をとるが、そのせいで奔放な夢想は抑圧されてきたと氏はしています。

 レンマに導かれ起想された命題に対し、人々はロゴスのもと、既存の科学的知見と論理を手に立ち向かう。しかし、そうしたものを超越したところにある革命的・破壊的な跳躍に対しては、冷酷な仕打ちを厭わないというのも歴史が物語るところです。

 行き詰まりを見せる社会の閉塞感が高まる中、今ほど知性のブレイクスルーが求められている時代はないでしょう。

 ロゴスはレンマから立ち上がるが、その逆はない。であればこそ、知性の拡張に必要とされるのは、より深く夢想に耽(ふけ)ることなのではないかとこの論考を結ぶ島田氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。



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