世界の経済覇権をかけた米中対立を背景に、日本に対する風当たりも強まっている中国の若者の間で、日本の女子高校生の「制服」が流行っているという記事が7月8日の「文春ONLINE」に掲載されていました。(「“愛好家”は118万人で平均21歳、破産三姉妹と呼ばれることも…中国で流行中の日本風JK制服の正体」2023.7.8)
記事によれば、日本の若者を象徴する「JK制服」が、ネットメディアの普及とともに日本アニメやAKB、日本の青春映画などに触れた中国の若者層の間で人気を博しているとのこと。中国の代表的なSNSサイトWeiboではその愛好家が118万人以上確認でき、今や(いわゆる)「コスプレ」からサブカルチャーの領域にまで一般化しつつあるということです。
因みに、中国では「学校の制服」といえば通常は運動用のジャージであり、アニメや映画で目にするかわいらしい女子高生の姿が新鮮に映るのもわからないではないとのこと。最近ではJK制服を模した子供服やJK制服をアレンジした「ネオ制服」とも言うべき商品も発売され、トレンドとしては現在進行形で発展中だとされています。
さてその一方で、日本国内に目を向ければ、髪型の指定や下着の色の指定など、厳しすぎる校則の存在が近年大きく報じられるようになっています。
朝日新聞などを見ると、生徒の誰もが着用を義務付けられている「制服」を強制されない「標準服」にすべき、靴下の色や髪型などを細かく規定した校則の廃止に向け文部科学省が積極的に関与すべき…といった要望書が、現職の高校教員らによって文部科学大臣あて提出されたといった報道も目にします。
とはいえ不思議なのは、大きな動きを見せているのは教職員組合や一部メディアに偏っているように見えることと、第二次世界大戦の敗戦によって教育が「民主化」されて70年以上の歳月を経た現在でも、学校の制服や細かな校則が(私が子供の頃とほとんど変わらないまま)「現役」として活きているということ。この合理的な世の中の一体どんな要請が、(あのかったるい)制服をここまで延命させているのかについては純粋に興味が湧かないでもありません。
ともあれ、この論点は今でも教育を巡るホットな話題の一つの様子。7月11日の情報サイト『AERA dot.』において、劇作家の鴻上尚史(こうがみ・しょうじ)氏が 「そもそも学校の制服は不要では?」と尋ねる読者の質問に応え、「学校の制服の要否」について語っているので概要を小欄に残しておきたいと思います。(『学校の制服は不要では?』」と長年の疑問をぶつける43歳女性に、鴻上尚史が示した『強制』か『自由』かの問題」)
そもそも制服のメリットとは何なのか?…中・高校生や教師へのアンケート結果を覗くと、(ほぼどの調査でも)一番のメリットとして出てくるが「毎日の服装に悩まなくていい」というものだと鴻上氏は記事の冒頭に綴っています。
確かに、それは楽かもしれない。そこで問題となるのは、「悩まないことには、どんな意味があるのか?」ということだろうと氏は続けます。学校は、そのまま社会につながっている。言い方を変えれば、つながるように教育するのが学校の存在理由だと氏は言います。
なので、「学校にいる間は黙って従え。試行錯誤はするな。卒業した後は知らない」は、教育ではないし校の存在そのものの存在意義を否定するものとなる。そう考えれば、制服のメリットの一番「毎日の服装に悩まなくていい」は、生徒が試行錯誤して、悩んで、「社会に生きる知恵」を獲得する機会を奪っていることになりはしないかというのが氏の指摘するところです。
さて、多くのアンケートにおいて、「制服のメリット」として次(二番目)に多く挙げられているのが、「経済的である」というものだったと氏は言います。もちろんこれは、「私服を買わなく済む」ということ。確かに、制服が貧富の差を隠し、経済問題を学校に持ち込まないために必要な時代は確かにあったかもしれないと氏は振り返ります。
しかし、今や子供の6人から7人に1人が相対的貧困に苦しんでいると言われる日本のこと。(学校指定のカーディガンやコートを含め)入学時に制服一式を買うことが重い経済的負担になっている家庭は多いと氏は話しています。
子供はどんどん成長するので、制服を買い続けなければいけない。兄弟姉妹で別の学校に行けば、お下がりは使えないし、制服は経済的負担が大きいというのが氏の認識です。一方、現代では、古着屋やメルカリではるかに安く私服を買うことができるようになった。「私服の方が経済的負担が少ない」という理由が、私服を求める重要な理由になるとは、昭和の教師達は想像もできなかったろうということです。
そして…、制服のメリットとしてその次辺りに挙げられているのが、「服装による個人差がでなくていい」「どこの学校か一目でわかる」「仲間意識ができる」といった理由だろうと氏は話しています。
簡単に言ってしまえば、制服を着ることで「みんな同じ」「心をひとつに」できるということ。実際、昭和の高度成長期に求められていた人材とは、「会社に対して忠誠心と協調性とがあって、上司の言うことをよく聞き、粘り強く心をひとつにして働く」労働力だったと氏は言います。
しかし、今や日本の産業構造は変わり、社会で求められているのは「協調性」ではなく「多様性」の時代となった。同じ方向を見つめ、同じ価値観で団結する労働者ではなく、多様なニーズに応えられる多様な価値観を持つ労働者が求められていると氏はしています。
一方、学校は「社会で生きる知恵」を試行錯誤しながら身につける場所であることにかわりはない。(そうした意味で)学校はまさに「多様性」を学ぶ場所にアップデイトする必要があるというのがこの記事における氏の見解です。
さて、こうした理由から僕(←鴻上氏)は現在、制服の必要性を感じていない。しかし、だからといって「今すぐ制服を廃止!」と言っているわけではないと、氏はこの記事に記しています。
制服に誇りを持っているという学校もあるだろう。制服が大好きだから、廃止は嫌だという生徒もいるかもしれない。そうした観点に立てば、公立の学校では「標準服を着たい人は着る。私服にしたい人は私服にする」のがいいというのがこの記事における鴻上氏の結論です。
これは、「標準服」か「私服」か…ではなく、「自由」を選ぶということ。選択肢があるのは、現代社会においてとても重要なことだと氏はここで話しています。
「選択的夫婦別姓」を、「同姓」か「別姓」かの問題だと思っている人もいるかもしれないが、これは違う話。これは「強制」か「自由」かの問題だと氏は言います。自分の苗字を選ぶことが「強制」なのか「自由」なのか…。そして制服もまた、「制服」か「私服」かの問題ではなく「強制」か「自由」かの問題だというのが氏の指摘するところです。
子どもたちが自分の頭で考え、自ら選び取れるようにすること。時代が求めている多様性も、そうした自由や選択の中から生まれてくるということでしょうか。
私服を選ぶ自由を子供達に保障することが、彼ら彼女らの未来にとってとても重要なことだと、氏は記事の最後に綴っています。試行錯誤し、悩み、考えること。子供達はそうした経験とともに成長していくと語る鴻上氏の指摘を、私もある種の共感を持って受け止めたところです。
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