読売新聞の紙上で100年以上も連載されている名物コラムに、「人生案内」があります。読者からの日常の困りごとに識者が持ち回りで答えるという、いわゆる「身の上相談」のコーナーです。
3月19日の相談事は、40歳代の主婦からの、パート先の男性アルバイトに対する苦情でした。
彼女がパート勤務から帰る途中、そのアルバイトの学生が「見て、見て!」とスマートフォンを向けてきた。軽い気持ちで覗いたら、そこには「イスラム国」による日本人人質事件で2番目に殺された方の修正されていない残酷な光景が映っていたということです。
その日以来、相談者はその映像が頭から離れなくなり、食欲も無くなっているということです。「私は残酷なニュースなどに(興味も)耐性もない。」「男性アルバイトの軽率な行動に怒りを覚える。」と彼女は相談の中で述べています。
「これからの心の持ちようをどのように整理したらよいのか…」と、彼女は訴えています。それが相談の趣旨であり、彼女の精神的なダメージを考えれば、かなり深刻な内容だと言えるかもしれません。
さて、この相談への回答者は、ノンフィクション作家の最相葉月(さいしょう・はづき)氏でした。
最相氏は、まず相談者に対し、あなたがスマートフォンで見た人は「2番目に殺された方」ではなく、「後藤健二さん」だと静かに指摘をしています。そして、もしもつらい感情がわき上がったら、その人の「名前」を是非思い出して欲しいと相談者に求めています。
彼がどんな人生を歩み、どんな仕事をしてきたかを著作や報道を通して知ってほしい。志半ばで命を奪われた彼の悔しさや怒り、残された家族の悲しみに思いを致してほしいと最相氏は言います。
彼も誰かの愛する夫であり、息子であり父親であった。そんな彼が殺される瞬間の映像を世界中に拡散されて、半永久的に残される家族の悲しみを想像してほしいというものです。
後藤さんはその最後の姿をもって、戦争の愚かさや残酷さを全世界に教えてくれた。その死を無駄にしないためにも、私たちは「後藤健二」という名前を絶対に忘れてはいけないと、最相氏はこの回答で述べています。
後藤さんだけでなく、残酷な事件の犠牲者にも一人一人にきちんとした名前があることを、私たちは忘れてはいけないと最相氏は考えています。
世界の中には悲惨で残酷な状況に置かれた様々な人達がいて、今この瞬間にも多くの人が「死」に直面している。そして、彼らに思いを馳せその名前を胸に刻むことで、あなたの耐えがたい苦痛の一部は、きっと彼らを悼む気持ちと平和への祈りに変わると最相氏は指摘しています。
痛ましいと感じた苦痛を取り除くことはできなくても、(さらに遠くを見つめることで)これを別の感情に変えることは可能だと最相氏は言います。
本当に怒りを向けるべきなのは、映像を見せたアルバイトの男性などではなく、人命をもて遊び、主義主張のためなら犠牲を厭わないとする人間の悲しい野蛮さにあることは言うまでもありません。
見なかったからといって、無かったことにできるわけではありません。
積極的に目にするかしないかは別にして、私たちは(例え見たくないと思っても)、それでも人間の持つ残虐性からは決して目をそむけるべきではないということを、最相氏の指摘から私も改めて考えされられたところです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます