週刊「AERA」の3月10日号では、「ファスト食VS.地産地消…なぜ理解し合えないのか?」と題して、「巨人・大鵬・卵焼き、カレーライスは国民食──。一億総中流、日本人がみな同じものを食べていた時代は終わった。」という長い見出しを打ち出して、現在の日本では食に対する考え方の違いにより「人間関係の分断」が始まろうとしていると報じています。
最近、ベストセラーとして書店の店頭に平積みされている本の中の一冊に、速水健朗(はやみず・けんろう)氏の『フード左翼とフード右翼-食で分断される日本人-』(朝日新書)があります。人々が日常生活の中で口にする「食」への考え方と、個人の「政治意識」や「イデオロギー」。一見、何の関係もなさそうに見えるこの二者に目を向けた斬新な切り口が、メディアでも話題を呼んでいるようです。
思えばこれまで、「生活習慣」と「政治」とは、日本においては全く切り離された無縁の存在として取り扱われてきました。しかし環境問題や原発稼働への姿勢など生活に直結する政治マターがその存在感を増すにつれ、生活の延長上に政治が普通に存在する、自らの生活への視点がイデオロギーを規定する、そんな時代がやってきたと言えるのかもしれません。
ベジタリアンと反原発。ジャンクフードと愛国思想。著者の速水氏は、同著の中でそんな「食」と「政治意識」の相関関係を「フード左翼」と「フード右翼」と名づけ、幅広い観点からマッピングしています。
食べ物をめぐる選択肢や情報があふれる現代社会において、値段や手軽さを重視するのか、農薬や遺伝子組み換え作物の使用の有無を気にするのか。国産の個別生産の食品を選ぶのか、それとも世界的大企業がつくった規格の整った製品を選ぶのか。どのポイントを重視しているかで、その人の寄って立つ政治意識や思想が見えてくると速水氏は指摘しています。
そんな中、実際の社会において人々の消費行動と政治意識には関連があるのかどうか。「AERA」がWeb上で行ったアンケート調査によれば、コンビニで弁当や総菜を購入する回数の多い人ほど「社会保障は不十分でも税金などの負担は軽くすべき」と答えるなど、比較的行政の関与を否定する(保守的で「右」的?な立場をとる)傾向が強く、遺伝子組み換え食品や食品添加物を気にする人は原発再稼働に反対するなど、比較的行政による規制・管理を認める(リベラルで「左」的?な立場をとる)傾向が強かったということです。
さて、こうした食に対する現代人の消費性向の分断に関して、速水氏は昨年12月27日の「日経ビジネス」誌のインタビューに対し、以下のように答えています。
「日本人って右とか左とか、リベラルとか保守とか分けられることにすごく嫌悪感を持つんですね。「言霊信仰の民族」というのもあるのか、レッテル張りを嫌がるんですよ。政治的に自分がどっちの立場にいるかということを表明したがらない。基本的には、あまり政治的判断をしなくても自然選択的に物事が決まってきたせいなんでしょうね。」
「ところがそうじゃない問題が最近になって生まれてきた。それがエネルギー問題や原発、それからTPP(環太平洋経済連携協定)などですね。どっちかに決めないといけない時代になっている。そんな時代には、自分の立場はどっちか、または利益がどちらにあるのかを表明する必要があるんだと思います。」
日常の消費行動の一つ一つにおいて、社会が人々に政治的な立ち位置についての判断を迫る…そういう状況が訪れているということでしょうか。
速水氏によれば、ここで言う「フード左翼」という概念は、ある意味「食に関しての“理想主義者”」を指す言葉だということです。イタリアで生まれた「スローフード」運動は、マクドナルドへの反対運動を通して「反グローバリズム」という左派運動として広がっていき、現在では大量生産・大量消費社会に反発する左派運動の代表的なものとして位置づけられているということです。
「理想主義」という意味では、まさに「左翼」なのかもしれません。こうした、地域主義、地産地消、自然派食品などにこだわる「フード左翼」に対して、「フード右翼」は現実主義者に相当すると速水氏は言います。第一義には、グローバルな食の流通や、産業化された食のユーザーであり、現状肯定的な視点を持つ保守的な階層ということです
実際のところ、工場などにおいて大量生産された食品が、必ずしも地域で少量生産された食品よりも安全性が低かったり栄養価が少なかったりするわけではないでしょう。むしろ外的環境から適切に隔離し機械化された施設において生産される高度に規格化された安価な食品は、手作りでムラのある高価な食品よりも消費者にとってはより機能的な存在と言えるかもしれません。
しかし、現代の先進国の消費者は、そうした「管理された」商品からどんどん距離を置いていく傾向にあるようです。気が付けば、「環境」や「健康」という存在が、欧米諸国を中心に一つのイデオロギーとして展開され、その存在感を日に日に増しています。
存在が目に見えるもの、肌で触れるものに回帰する現代の消費者の姿は、工業化された近代社会にアンチ・テーゼを投げかけると同時に、生活に対峙するスタイルがそのまま政治に結びつく、そんな時代が既に訪れていることを示しています。
「政治」よりも「消費」で社会を変え始めた日本人。「政治の世界」よりも消費者の方が、一つ先を歩き始めていると言えるのかもしれません。
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