作家の橘玲(たちばな・あきら)氏が、近著『(日本人)』(かっこ・にっぽんじん:幻冬舎文庫)において、アメリカを中心に進展するグローバリズムを見据えた骨太の「日本人論」を展開しています。
橘氏は本著において、法を守り礼を重んじると言われる日本人が、実はアメリカ人よりもずっと個人主義的で、その場の損得勘定によって動く世俗的な側面が強く、なおかつ反権威主義的で非合理的な国民性を持つと看破しています。
確かに、近代化に至る歴史を見ても、日本人は鎖国だ攘夷だと言っていたそばから、列強の力を見るや開国に走り、わずか十数年のうちに明治維新や文明開化を何事もなかったように受け入れました。さらに先の大戦で敗北するや否や、マッカーサーを奉じてアメリカの自由主義にそっくり乗り換えた姿も記憶に新しいところです。
逆説的に見れば、氏の言うところの「利に聡く自分勝手な」日本人は、国家や権威を(そして神・仏さえも)心から信じるというようなことはなく、こうした(割り切った)変わり身の早さで時代を乗り切ってきたということができるのかも知れません。
社会のグローバル化によって、現在、世界の各地で「グローバルスタンダード」と「ローカルスタンダード」との間で摩擦が生じており、地域によって大きな衝突に発展しています。こうした中ではありますが、実はアメリカは自らに都合のよい理不尽なことばかりをルールとして世界に押しつけているわけではないと、この著書で橘氏は論じています。
グローバルスタンダードはこれまで歴史の中で一定程度認知、共有されたルールの集大成であり、こうした秩序があるからこそ、グローバル空間は成立している。従って、それぞれの国がいくらローカルルールを主張しても、もはやこのグローバルルールに対抗することは難しいと橘氏は言います。
ほとんどの日本人は誤解しているが、(例えば)アメリカが主張する「能力主義」は「利益を最大化する仕組み」ではないというのが橘氏の見解です。それはあくまで、「能力以外の要素で労働者を差別してはならない」というグローバルな空間における厳格なルールを指すものだという指摘です。
多民族による移民国家であるアメリカでは、企業が人種や宗教、性別や年齢で社員を差別することは許されていません。そのためアメリカの企業には定年がないし、履歴書に生年月日を書かせたり写真を貼らせることすら禁じられているということです。
しかし、あらゆる差別を禁じたとしても、採用や昇任に際して企業は何らかの方法で労働者を選別しなければならない。そこで唯一の方法として残ったのが、「能力」による評価だいうことです。
能力が、人種や性別のような生得的なものではなく、人の力で開発が可能なものだという信憑がある意味「神話」に過ぎず、(スタートラインや生育環境が異なることなど)少なくとも能力の一部が生得的なものであることは言うまでもありません。しかし、それをも否定してしまうと、もはや共産主義社会になるほかないと橘氏は説明しています。
一方、かつて日本企業が採用していた終身雇用や年功序列の人事制度は、年齢(と性別)によって社員を選別する(ある意味不平等な)仕組みです。橘氏は、この「差別的」な雇用慣行は日本という(同質感が強い)ローカルな空間の中では維持できても、企業が海外に進出したり外国人をたくさん雇用するようになるとたちまち批難の対象となり、「なぜ日本人の社員と待遇が違うのか」という外国人社員からの道徳的な問いに答えることができなくなるとしています。
近年、グローバル企業となった自動車製造業や流通産業を中心に能力主義が採用されているのも、決して彼等が「利益至上主義」に毒されたからではない。会社がグローバル化した以上、もはや日本的なローカルルールによる雇用が不可能になったからだというのが、橘氏の見解です。
アメリカ社会はその多人種、多文化的な成り立ちから、基本的に全ての制度が(少なくとも理念的には)グローバルスタンダードを体現していると橘氏は言います。そして、それが現在、世界中に広がっているのは、アメリカの「陰謀」などではなく世界のグローバル化の必然なのだというのが、橘氏が示したひとつの結論ということです。
さて、こうしてグローバル化した社会においては、アメリカの振りかざす「道徳的権威」に対抗できるのは、グローバルな正義だけだと橘氏は指摘します。
個人にとっても国家にとっても、そこがグローバル空間であるならば、ローカルな正義をいくら主張してもそれが考慮されることはない。つまり、自らの利益を守ろうとするならば、リベラルデモクラシーの土俵の上で相手と対等に議論しなければならないと橘氏は主張しています。
つまり、日本が生き残る道は、アメリカが手持ちの武器とするこのグローバルスタンダードを正しく理解し、日本の国民性を活かしながら、グローバルスタンダードを上手く活用していくところにあるということでしょうか。
ことは経済の問題ばかりではなく、人権への認識や社会の在り方の問題、歴史認識の問題や領土問題に至るまで、それこそ多岐にわたることになるでしょう。
国際社会において「異質」と認識されることは、いわゆる野蛮人(バーバリアン)として疎外されることであり、国家間の対等な議論から排除されることを意味します。そうした観点から、相手に分かるグローバルなワーディングで説得し、理解を得ることの大切さを指摘する橘氏の見解を、この著書において大変興味深く読んだところです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます