MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2398 いくつもの民主主義

2023年04月19日 | 社会・経済

 米国のバイデン大統領は日本時間の3月29日から30日にかけ、世界のおよそ120の国や地域の首脳などを招き、一昨年に続いて2回目となる「民主主義サミット」を(オンラインで)開催しました。

 会議においてバイデン大統領は、中国やロシアを念頭に民主主義国家の結束を呼びかけ、(米国は)民主的な改革を推進するための費用として最大で6億9000万ドル、日本円にして900億円あまりを拠出する意思があると発表しています。

 併せて同大統領は「民主主義国家はかつてないほど結束してロシアの残忍な戦いを非難し、民主主義を守ろうとするウクライナの国民を支援している」「民主主義は強くなり、専制主義は弱体化している」と述べ、覇権主義的な動きを強めるロシアや中国に対し、結束して対抗していくことを呼びかけたところです。

 一方、一昨年の12月に第1回の民主主義サミットが開かれた際、中国共産党政権が「民主主義は一部の国の専売特許ではない」との大々的な宣伝キャンペーンを張ったのは記憶に新しいところです。

 中国には中国の民主主義がある。国が民主的か否かはその国の人民が判断すべきだと主張し、返す刀で「ある国が民主の旗を振って分裂をあおり緊張を高めている」と世界に発信し議論を呼びました。

 実際、欧米先進国の唱える「民主主義」も一枚岩ではなく、サミットに参加するかどうかで敵・味方の「踏み絵」を迫る米国のやり方には、今回も多くの国から不満の声が聞かれたとされています。

 民主主義か民主主義でないかは誰が決めるのか。3月28日のYahoo newsに、名古屋工業大学名誉教授で建築家の若山滋氏が「権威主義の国が唱える「もうひとつの民主主義」は存続しうるか?」と題する一文を寄せていたので、参考までにその一部を小欄に残しておきたいと思います。

 いわゆる西側は、現在の世界の枠組みに異議を唱えるロシア、中国、北朝鮮、そしてイランなどイスラム原理主義の国々を、民主主義に対する「権威主義」の国と呼んでいる。確かにそのような体制の国々では、政治決定プロセスが「民意」によるのではなく、権力者の「権威」に依るところが大きく、政治主体はきわめて独裁的だと若山氏はしています。

 しかし、そういった国々が本当に「非民主的」であるのかというと、話はそう簡単ではない。権威主義と名指しされる国々にも「人民の民主主義」という旗を掲げている国は多く、欧米の「ブルジョワ(市民)」による民主主義に対し、自分たちこそが「人民」による本当の民主主義だ、という主張が存在しているということです。

 そこには、欧米諸国の唱える民主主義は「市民」すなわち教育され自立した近代的個人によるものであって、そうした西欧近代主義的なベースの「知識と個人」が存在しない社会では、「人民という権威」を掲げる強い政府によってこそ民主主義が実現するという論理があると氏は言います。

 例えば、ウクライナ侵攻よりだいぶ前のこと。エリツィン時代の不安定による生活の危機を経験したロシア人にとって何よりもありがたかったのは、大統領となったプーチンがもたらした『安定』だった。プーチン大統領を支持する人たちの間には、ロシアに政治の安定と経済の発展をもたらしたのだから、たとえ強硬な手段によろうと、国民が支持するのは当然だという意識が根付いているということです。

 また、国際会議などで中国の大学の幹部などに「中国の今の政治」について尋ねると、(その多くから)「官僚の腐敗を抑えるためには習近平式の統制もやむをえない」といった答えが返って来るとのこと。

 ロシアでは政治的混乱を抑えるため、中国では官僚の腐敗を抑えるため、時に政府が強権を発動することも必要な手段となる。そこには西側先進国とは異なる「やむをえない事情」があって、(国情によっては)強権こそが「人民」の民主主義が成立する基盤となる…というのがこの論考で氏の指摘するところです。

 もちろん、先進国の、いわゆる西側の民主主義の方がより「民主的」であることに変わりはないが、果たしてそれが完全なものであるかと言えばそうとも言い切れない。例えば英国には王室があり、今でもカナダやオーストラリアや南アフリカなどを含む英連邦は健在である。日本には皇室があり、象徴とはいえ万世一系とされる強い文化的影響力を持っていると氏は話しています。

 公平な選挙によって議員を選ぶとはいえ、実情として戦後日本はほとんど政権交代がないことなどからも、これらの国々では、純粋な民主主義がもたらす危険を回避するため、穏健な制度(=保守)を選択しているというのが氏の認識です。

 一方、韓国の民主主義は、必ずといっていいほど前政権の責任者を重大な罪に問うという過激な動きに揺れ続けている。民主主義の代表選手のような米国でも、トランプ前大統領支持者の議会襲撃や、KKKといった白人至上主義の団体も存在し、ブラック・ライブズ・マターの運動を誘発するような差別的な警察事件も続いていると氏は言います。

 つまり、西側にもそれなりの(個別の)「実情」があるのであって、どこの国にも完全な民主主義は存在しえない。一時は、欧米先進国に比べて日本の民主主義はまだ遅れているという議論があったが、そう単純なものでもなさそうだということです。

 そう考えれば「もうひとつの民主主義」を頭から否定するのではなく、その社会の不安定要素としての実情を認め、本来の(西側式の)民主主義への漸進的な変化を期待しながら共存する道を探ることができないかと、若山氏はこの論考の最後に提案しています。

 今の世界は、民主主義の名のもとに世界を分断するのでも、民主主義を押しつけるのでもなく、民主主義というものの許容範囲を現実に合わせて考えていくことを求めている。国の幸せは人生の幸せに似ていて、人それぞれの「実情としての幸せ」があるのであって、「理想としての幸せ」などは存在しないと氏は言います。

 なので、他人から押し付けられた時点でそれは本当の幸せとはなり得ない。(自分についていえば)他人から押しつけられる幸せなんか大嫌いだと論考を結ぶ氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。



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