MOBU'S MUSIC MAZE

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松任谷正隆 古舘伊知郎 ヒコロヒー 吉田拓郎を語る

2022-08-20 19:11:16 | 音楽夜話(音楽一般)
8月19日TOKYO-FM 8月19日、26日、9月2日(金)17:30~17:55 TOKYO FM 


松任谷正隆 「ちょっと変なこと聞いてもいいですか」ゲスト:吉田拓郎


その1
松任谷氏(慶應義塾文学部卒)とは1971年アルバム「人間なんて」レコーディングより付き合い。
加藤和彦サンが林立夫ds 小原礼bをレコーディングにつれてきた。
1枚目のアレンジはJAZZミュージシャンがバックでついていて、なにか違和感があった。
その後は、加藤氏に相談し上記のアルバムから松任谷氏など。若手のロック・POPS系がわかる
スタジオ・ミュージシャンに変わっていった。


「どうしてこんなに悲しいんだろう」の松任谷氏のB3のキーボードはすばらしい。
「人生をかたらず」でのキーボードアレンジは今でもバンドアレンジとして使っている。
変わらない変えられないフレーズ。
加藤氏のアイデア、高中氏、松任谷氏のフレーズの宝庫さ。石川鷹彦氏のアコースティックギター奏法。
この4人は自分の中の四天王。当時、フォークというものがよくわからない。自分は岩国で、R&Bを歌ってたし、
ディランはロックだと思っていた。ブームによりフォークと言われていたが、拓郎氏自身ではそう思っていなかった。

たしかにいま思い返せば、説教臭い(70年代フォークはインタビューで自身が言っていた)歌詞は、第三者の作詞家が
書いたものが多かったし、自身の物は私小説の様なものもあった。周りがレッテル張りをしたので、ご本人も修正が
効かなかったようだ。当時、「俺はロック・シンガー」などと言ったら、つるし上げられたかもしれない。
ブームに流された様なところはあったのかもしれない。そして活動は続き、今の彼がある。


私は「元気です」までの、リスナーだったので、加藤氏の下に拓郎氏がいたのは、確かに音楽・音響技術面での
サポートを受けていたのかもしれないが、また、加藤氏のギブソンJ-45を拓郎氏が欲していたこと(現実には
ならなかったが)など位しか、知らない。けれど今になって引退直前でこのような話がご本人から聴けたのは
収穫だった。初めてこのような話をしたわけではないかもしれないが、何か納得するものがあった。
松任谷氏はキーボードだけでなく、バンジョー・フラットマンドリンも達者などだそうだ。
カントリーやってたところもあるので、それもあるのだろう。
松任谷氏のヘッドアレンジ力はすごいということ、拓郎氏は力説している。
ニューオリンズのリズム・パターン(大瀧詠一氏なども使っている)を使っているなど、
70年代新鮮なところがあった。拓郎氏は彼と音楽の話がしたかったのかもしれない。
次回は印象深いライブなど・・・。シリーズものだった。


古舘・ヒコロヒーの時代は言葉で作られる
NHKラジオ第1
8月19日(金)午後10時05分~55分


ここにも拓郎氏の話題があった。たまたま聴いていて、ヒコロヒーさんが
ファンということもあり、台本にあったのか話題になった。


ヒコロヒー:吉田拓郎「イメージの詩」


古舘:イメージの詩は解釈によって見方も変わる。


古い船を今動かせるのは、
古い水夫じゃないだろう
古い水夫は知っているのさ
新しい海の怖さを


自然に生きるってわかることはなんて不自然なんだろう


言葉の使い方の巧みさ。


確かに、当時はあたらしい感じもあった。


アイドルになりたくて、出てきた。プロテストソングを歌ってたわけでなく、アイドルになりたかった。
抵抗するんでなく絵日記を歌いたかった。という本人。不思議な人。
不思議な人物だった。とのこと。


引退する前に聴けて良かった・・・。


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