行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり

2021年01月15日 | 道元・正法眼蔵・曹洞宗
誰も死ぬ確率は100パーセント。誰にも平等に訪れるのが死。
死を考えるなど縁起でもないと言いますが、死について考えることにより充実した人生を送れると思うのです。仏法は死んだらそれまでというニヒリズムではありません。死は人生の一大仕事だと思うようになりました。遠藤周作の言葉に「生きざまなどという言葉はない。死に様というのが正しい」というのがありましたが、その通りだと思います。

仏教を唯物論的にとらえる人は「死んだらおしまい」と考えます。これを「断見」といいます。反対に肉体は滅んでも魂は生き続けるという考え方を「常見」といいます。私は釈尊の教えは唯物論とか観念論、断見、常見など二項対立で考えないものだと思っています。唯物論とか観念論を超えているのが釈尊の教えだと思っています。

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正法眼蔵

2017年07月25日 | 道元・正法眼蔵・曹洞宗
道元禅師が、正法眼蔵を端的に歌いあげています。

波も引き 風もつなかぬ 棄てをふね 月こそ 夜波の さかりなりけれ

静かな海岸に捨てられた小舟にただ月光で満ちている。

小舟は、何ものにもとらわれず、惑わされずただ、海面に浮いていますが、月光という真理で満たされているのです。

正しい仏法は、正しい智恵の眼で見、全ての真理で満たされています。

澤木興道老師は、正法眼蔵を一切の経の内容を一言で言ったものだとも定義しておられます。

私たちは、好むと好まざるにかかわらず、日常生活において物事を歪めて見てしまう癖をつけてしまっています。

それは、自分の都合という、波や風によって歪められるのです。

ですから、時によっては人殺しが戦争という形で正当化されたりもするのです。

誤解が生じやすいのですが、戦争が良いものとか悪いものとかということを越えると、絶対にあってはならないものだという真理が浮かび上がってくるような気がします。(観念的なことで難しいのですが・・・・・・)

この世は、善悪、正邪、美醜などを越えた真理の月光で満たされているのです。

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群を抜けて益なし

2016年11月01日 | 道元・正法眼蔵・曹洞宗
群を抜けて益なし

道元禅師の言葉です。

競争に勝っても何にもならないよということです。

私はある程度の競争は必要悪だと思いますが、

決して人間を幸せにするものではありません。

明治以降の日本は西欧諸国に追いつくため、競争を是としてきました。

戦後はお金が幸せの基準であるかのように錯覚し、

健康や自分自身の幸せを犠牲にしてまでも競争してきました。

学校でも競争競争です。

テストも競争、受験も競争、部活動も競争

しかし子どもたちは心と体が疲れ果ててしまい、

不登校、いじめ、自死などに至ってしまいました。

もちろんすべて競争が悪いわけではありませんが、

競争が一番という考えを省みてみる時期が来ているのではないでしょうか。

宗教は心の平安を取り戻すのが大きな目的の一つです。

道元禅師の「群を抜けて益なし」を今一度考えてみようではありませんか。

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澤木興道老師が宗教を語る

2015年10月02日 | 道元・正法眼蔵・曹洞宗
○宗教とは何ものにもダマサレヌ真新しの自己に生きることである。

○宗教には連帯責任というのはない。私ひとりである。

○仏教というものは「ああ人間に生まれてきてよかった」ということを教えるものである。

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道元禅師の言葉

2015年01月16日 | 道元・正法眼蔵・曹洞宗

参禅は心身脱落なり 焼香、礼拝、念仏、修懺(しゅうさん)、看経(かんぎん)を用いず、只管(しかん)に打座するのみ。身心脱落とは坐禅なり。

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