行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

烏鷺滝が 善悪 について語る

2011年01月28日 | 禅の心
○人間、誰でも「善」の部分と「悪」の部分を持っている。

○凶悪な犯罪者にもなにがしかの「善」の部分はある。

○ちょっと哲学をかじったやつから、よく「仏教は性善説ですね。」と聞かれるが、仏教は性善説ではない。

○「それなら仏教は性悪説ですか。」と聞かれるが、仏教は性悪説ではない。

○仏教は性善説でも性悪説でもない。そもそも、性善説、性悪説というふうに分けて考えることを仏教では好まない。

○人の心は鏡のように清浄なものだと考える。それを仏性とか仏心とかと言っているのだ。(でも、これは性善説ということではない。)

○しかし、鏡がチリやほこりで曇ってしまうように、人の心も曇ってしまうのだ。

○そのチリやホコリを除くために、修行をしたり、真言や念仏を唱えたり、坐禅を組むのだ。

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烏鷺滝が勇気について語る

2011年01月25日 | 禅の心
○無理をしないことにも勇気が必要である。

○勇気は優しさとセットになっていなければならない。

○自分を常に磨いておかないと勇気は出てこない。

○勇気にはほどよい自信が必要である。

○勇気には謙虚さが必要である。

○威張ることが勇気ではない。

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烏鷺滝が 謙虚さについて語る

2011年01月21日 | 禅の心
○仏の教えとは、常に人や自然を拝めと言っておる。

○だから、威張っている金持ちや権力者には仏法はわかっておらん。

○威張りたいヤツは、仏教者を名のるのをやめてくれ。

○仏法の神髄は法華経(妙法蓮華経)の常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の心なんじゃとワシは思う。

○心底悩み苦しみ抜いた人間は、目が澄み、自然に言葉もきれいになってくるものじゃ。

○常不軽菩薩のように、石を投げられてもただひたすら拝み続ける。これが尊い。

○ただ、卑屈になりすぎるのも考えもんじゃ。過ぎたるは及ばざるが如しで、卑屈すぎるは、ある意味高慢なんじゃ。

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烏鷺滝が 宗教 について語る

2011年01月18日 | 禅の心
○はっきり言おう、入信しなければ不幸になるなどど脅す新興宗教はニセモノだぜ。

○その他、何かをしなければ不幸になると脅すようなものはニセモノだ。

○宗教はこの世で救われなければ意味がないんだよ。

○宗教はオカルトではないぜ。

○仏教はオカルトではないぜ。

○霊能者なんて、あくまでエンターテナーだよ。

○仏教には霊能者なんぞいらないのだ。

○ただ、霊能者がいらないと言っているのではない。

○霊能者は少なくとも仏教とは無関係なのだ。

○霊能力で救われるのならそれはそれでよい。

○お釈迦様は、霊や死後の世界があるともないともおっしゃっていない。

○ついでに言えば、先祖供養は中国の道教や儒教の考え方だ。

○先祖を大切にする心を日本ではお寺が担っているというだけじゃ。
コメント (2)
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烏鷺滝がいろいろ語る

2011年01月14日 | 禅の心
○仏教徒を名乗るのであれば、命の大切さを常に見つめて欲しい。



○仏教徒を名乗りながら、戦争に荷担するなどとんでもない話である。



○禅は、偉そうにしているやつが、より偉そうに見せるためにやるものではない。



○禅は、偉そうにしているやつが、本当は偉くなんかないんだぞということに気づくためのものである。



○禅は、強くなるためのものではない。自分の弱さに気づくためのものである。

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