行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

烏鷺滝が若者を語る

2017年02月28日 | 仏の心
○若者ちゅうもんは、エネルギーで溢れとるわな。

○しかしそのエネルギーをどのように使うてええんかわからんのじゃね。

○元気の良すぎるちゅうんも苦しみの一つなんじゃ。

○五蘊盛苦ちゅうもんはそういった元気のええことから出てくる苦しみなんじゃ。

○それはスポーツしたりしてのうなるようなもんではありゃあせん。

○また、元気を発散させる方向を間違えてもろうては困る

○正義感や怒りを安全なところにばかり向けているのが、現代人なんじゃ。

○そういうやつらは相手がただぺこぺこ謝ってくれるのが痛快なんじゃあ思う。

○そういうのは正義でも何でものうてただのクレーマーなんじゃ。

○本当の権力には怖いもんじゃから何もいえんのじゃ。

○若者には歪んだ正義を持ってほしゅうないのう。



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烏鷺滝が自己を語る

2017年02月24日 | 仏の心
○自分のことを棚に上げて、人の悪口ばかり言うとる人はおるもんじゃ。
○正義感が強いちゅうても、まず自分はどうなんかがわからんとのう。
○自分のものさしだけで考えとるとむなしゅうなってくるもんじゃ。
○いじめも、差別もそうなんじゃ。
○自分を見つめ、自己を知ることが大事なんじゃ。

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自由について(三)

2017年02月21日 | 仏の心
中川宋淵老師の言葉から

 『臨済録』の老師の言葉にいう。

仏法とは、本当の悟りとは、人間の解脱とは、本当の自由人とは、

「仏法は功を用いる処無し。祇(た)だ是れ平常無事」

何でもないことだ。

「屙屎送尿(あしそうにょう)、著衣喫飯(じゃくいきっぱん)、昏時来れば即ち臥す。」

大小便したくなったらしろ、

着物を着る必要があったら着たらよい。

飢えたなら飯を喫し、腹が減ったら飯を食え、

疲れたなら、夕暮れ時がきたなら寝ることだ。

それだけのことだ。とね。

これが只。

仏法は、真理は、自由はと改めて求めたり、功を用いたりしない。

作為せん。

当たり前にしとればよい。

『碧巌録』第19則にいう「平常心是道」

  ところが、そんなことをいうと人はなあんだ、

そんなもんどこが有り難いんですかと、

「愚人我を笑う。智は乃ち(すなはち)焉(これ)を知る。

古人曰く、外に向かって功夫を作(な)す、総に是れ痴頑(ちがん)の漢と」

馬鹿者はワシを笑うが、智者はこれがわかる。

古人もいうた、

外に向かって思慮を巡らすのは、みんな大馬鹿者だとね。

 千利休はいう。

「茶の湯とはただ湯をわかして茶をたてて

呑むばかりなるものとこそ知れ」

あり合わせの道具、あり合わせの野草一輪挿して一服の茶をいただく。

この精神からいろいろのお手前が生ずるならよいが、

茶の型を知らねば茶がのめんというふうに作為が出てくる。

竜沢寺っへ行くのもよいが、

茶を出されるので恥ずかしいから女房を連れていかんならんちゅうふうになるな。

只、茶をのんでくれたらいいのだよ、こっちは。

 仏法も同じ。

只ありがたくなればいいのに、仏教哲学したり、坐禅したりしなくては、

生きていることのありがたさがさっぱり分からんようになる。

茶でないのが茶。禅でないのが禅。

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烏鷺滝が権力について語る

2017年02月17日 | 仏の心
○最近のヤツは、反骨精神などとぬかしても、結局本当に強いヤツにはぺこぺこするんじゃ。

○そして、向かっていっても安全な人に対しては強く出る。

○まこと卑怯なんじゃ。

○権力をもっているヤツにはそれなりに厳しい制限をかけねばならない。

○権力が暴走すれば怖いからじゃ。

○お地蔵様が化身じゃあ言われておる閻魔大王は、裁判の前にドロドロに融けた鉄を飲み込むという。

○自分勝手な裁判を行わないように自分に誓うためじゃ。

○閻魔大王は権力者じゃから、自分に厳しくされとるんじゃ。


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自由について(二)

2017年02月14日 | 仏の心
中川宋淵老師の言葉

 人間は本来自由なんじゃ。

不自由せん心こそが大切なのです。

自由の外側の社会に向かって、自由をよこせ、自由をよこせというが、

鼻はやはり鼻の在るところにしか置けんじゃないですか。

目は目のところにしかないではないか。

自分で鼻毛一本自由に動かせやせん。

絶対自由といってもいいし、絶対不自由といってもよい。

それが人間のあるがままの現在じゃろうが。

 どうなったら自由なんだ。

女にやたら抱きついて性交できたら自由なのか。

自由というならやってみろ。

何も変わったことできやせん。

 いいかね。自由とは外にあるべきものでなく内にある。自己にある。

それがわからねば、自らが菩薩であることもわからん。

自由は内にある。わからんかな。

 では、これを読んでみなされ。

 「只今の只に只乗れ只の人」

 只・・・それがわかれば、自由の本質もわかる。

只とは只。法然上人のいう凡夫。

 上人は『一枚起請文』で、仏を念ずる心を、

「観念の念にもあらず、また学文をして念の心をさとりて申す念仏にあらず。」

と言われる。

学問や哲学、観念に基づいた念仏ではない。

「唯往生極楽の為には南無阿弥陀仏と申して、疑ひなく往生するぞと思ひとりて申す他には、別の仔細候はず」

これは只。只念仏、只喝ーっ、只棒・・・と同じ。

只お茶飲めばいい。いろんなものをもぞもぞくっつけない。







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