寒山詩の第50番です
誰家長不死 死事旧来均
始憶八尺漢 俄成一聚塵
黄泉無暁日 青草有時春
行到傷心処 松風愁殺人
誰(た)が家か長(とこし)へに死せざらん 死の事は旧来均し
始(はじ)め八尺の漢と憶ひしに 俄(には)かに一聚(いっしゅ)の塵と 成る
黄泉暁日無きも 青草時に春有り
行きて傷心の処(ところ)に到れば 松風人を愁殺す
永久に死なぬという者があろうか。
死という一事は、昔から変わりなく誰にでも同じく訪れてくるものだ。
はじめは背丈が2メートル以上もある、堂々とした男と思っていたのに
突然、ひとかたまりの骨灰になってしまった。
黄泉の国は真っ暗で、朝日の射すことはないが、墓地には春になると青草が茂るのである墓地に行ってみれば
松風の音が人々を憂えさせるばかりである。
元気で活躍していたプロレスラーでも野球選手でも死んでしまえば、真っ白な骨の塊になってしまいます。死を正面からみると悲しいことだと思えますが、死を通して人生の意味を考えることができます。人生はやがて死を迎える存在だからこそ意味があるし、輝くのです。