行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

雑感

2021年10月29日 | 仏の心
もし、悟りを開いたお坊さんがいたとしても、それを口に出して言うことはしないだろうし、まともな哲学者なら自分の直観力は他の人と違って優れているなどとは言わないだろう。悟りは自己承認欲求など無縁のものにしてしまうものだから。

自分はスゴい、自分は賢いと思うのは悪魔のささやきと心得よう。現実の自分をみたら落ち込むだけ。

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休む時にはしっかり休むのも精進

2021年10月26日 | 禅の心
精進(はげみ)こそ不死の道
放逸(おこたり)こそは死の径(みち)なり
いそしみはげむ者は
死することなく
放逸(おこたり)にふける者は
生命(いのち)ありとも
すでに死せるにひとし(法句経第21番)
これを聞くと、がむしゃらに頑張ることを勧めているようですが、私はそのようには解釈していません。仕事や勉強をするときには一生懸命にすることが大事ですが、休むべき時はしっかりと休むことも大事なのです。今という時をしっかりと生きることが大事なのです。

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謙虚に学ぶ

2021年10月22日 | 仏の心
尾崎放哉と種田山頭火の師匠の荻原井泉水は山頭火より年下。道元禅師の弟子の孤雲懐奘禅師は道元禅師より年上。優れた人は素直に謙虚に学ぶことができるのだ。

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人が死ぬ確率は100パーセント

2021年10月19日 | 禅の心
寒山詩の第50番です
誰家長不死 死事旧来均
始憶八尺漢 俄成一聚塵
黄泉無暁日 青草有時春
行到傷心処 松風愁殺人
誰(た)が家か長(とこし)へに死せざらん 死の事は旧来均し
  始(はじ)め八尺の漢と憶ひしに 俄(には)かに一聚(いっしゅ)の塵と 成る
  黄泉暁日無きも 青草時に春有り
   行きて傷心の処(ところ)に到れば 松風人を愁殺す
永久に死なぬという者があろうか。
死という一事は、昔から変わりなく誰にでも同じく訪れてくるものだ。
はじめは背丈が2メートル以上もある、堂々とした男と思っていたのに
突然、ひとかたまりの骨灰になってしまった。
黄泉の国は真っ暗で、朝日の射すことはないが、墓地には春になると青草が茂るのである墓地に行ってみれば
松風の音が人々を憂えさせるばかりである。
 元気で活躍していたプロレスラーでも野球選手でも死んでしまえば、真っ白な骨の塊になってしまいます。死を正面からみると悲しいことだと思えますが、死を通して人生の意味を考えることができます。人生はやがて死を迎える存在だからこそ意味があるし、輝くのです。

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「自分探し」しても自分はどこにもいないよ。 自分はいつもここにいるんだから

2021年10月15日 | 禅の心
カルトは宗教の専売特許ではなく、哲学でも自己啓発でもカルトになる可能性もある。何でも排他的になればカルトになる兆候。

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