行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

倶会一処

2013年02月26日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
倶会一処

 お墓に「倶会一処」と書かれていることがあります。 「ともに一処に会う」と読みます。死語、極楽浄土で親しい人たちと再会できるいうことなのです。浄土思想の中でも楽しい部分です。あの世で家族と会えるのは、死への苦しみを和らげてくれます。倶会一処はとても良い言葉なのですが、一つ大きな落とし穴があります。親しい人と会えるのと同時に、いやな人とも会わなければならないということなのです。四苦八苦には「愛別離苦」(愛するものと別れなければならない苦しみ)があるとともに「怨憎会苦」(会いたくない人に会わなければならない苦しみ)があります。
人生、会いたくない人に会わなければならないことほど苦痛なことはありません。自分に危害を与えたり、嫌な思いをさせられる人には会いたくないものです。
 しかし、私の考えるところでは、現世で自分に危害を与えて来た人も、極楽浄土では仏になっているのです。どんな大悪人でも、心の中に仏心を備えているのです。白隠禅師の『坐禅和讃』に

衆生本来仏なり

とあります。みんな本来の清らかな心になるのが極楽なのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自力と他力

2013年02月22日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
自力作善の人はひとえに他力をたのむ心欠けたるあいだ弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。


自分の能力を過信し、善行を行っている(と思っている人)は、阿弥陀仏の他力を一途に頼む心がないから、阿弥陀仏の本願から外れている人である。しかし、自分の力を過信する心を、阿弥陀仏の他力を頼る心に転ずるならば、浄土に往生することができるのである。
 
親鸞のいう、「自力」と「他力」という言葉は、「自分でなんでも」や「他人まかせ」とは、全く次元を異にします。「他力」とは、「一切の衆生を救わずにはおかないという阿弥陀仏の誓願」そのものなのです。「自力」は体得しようとする仏心が自分の中にあると信じて修行するもので、禅がそれにあたります。「他力」は、仏心は外から与えられるもので、浄土門の場合、阿弥陀仏が与えて下さるのです。
温泉津の妙好人、浅原才市のうたに、


みだ(弥陀)のじょうぶつ(成仏) わしがじょうぶつ
なむあみだぶつ なむあみだぶつ


が、あります。阿弥陀様と自分は一つであって、別のものではないという心情がうたいあげられています。こう考えてみますと、「自力」=自分と「他力」=阿弥陀様は別のものではないことがわかります。
 次に、「自力作善」についてですが、「自分の力で、良いことをやっているのだ」という驕りの気持ちが自力作善なのです。良いことはさりげなく、目立たないようにやるのが「陰徳」ということです。「陰徳積まば、陽報あり」で、良いことをさりげなくすることを仏様はすすめています。ここで注意しなければならないのは、法然上人や親鸞聖人は、「他力」がよくて「自力」が悪いと行っているのではなく、「自力」でおごり高ぶることがよくないと言っているのです。「他力」とは、お陰様で良いことができますという、謙虚な心なのです。
 表彰されたり、誉めてもたうために良いことを行うのではなく、良いことをせずにいられないから良いことをするのだというのが宗教心というものなのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親鸞聖人だって死ぬのはイヤだ

2013年02月19日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
『歎異抄』の第9章の一文です。

また浄土へ急ぎ参りたき心のなくて、いささか所労のこともあれば、 死なんずるやらんと心細く覚ゆることも、煩悩の所為なり。

(また、早く極楽へゆきたいという心もなくて、病になると 死ぬのではなかろうかと、心細く思うのも煩悩のなすところである。)

久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、 いまだ生まれざる安養の浄土は恋しからず候こと、 まことによくよく煩悩の興盛に候にこそ。

(阿弥陀仏に救われた今、もう迷いの世界と縁が切れて、二度と迷う ことはないと思うと、はてしなき遠い過去から、今日まで生まれ 変わり死に変わり迷い続けてきた苦悩の世界はなつかしく思え、 まだ見ぬ阿弥陀仏の極楽浄土は少しも恋しいと思えないところが、 これまたよほどの煩悩の燃えさかる私であることだ。)

名残惜しく思えども、娑婆の縁つきて力なくして終わるときに、 かの土へは参るべきなり。

(名残おしいことだが、娑婆の縁がつきて、この命が終われば、 阿弥陀仏の極楽参りは間違いないだろう。)

急ぎ参りたき心なき者を、ことに憐れみたまうなり。

(早く極楽にいきたいという心のない迷いの深い者を ことさら阿弥陀仏は憐れんでくだされたのだ。)


踊躍歓喜の心もあり、急ぎ浄土へも参りたく候わんには、煩悩の なきやらんと、あやしく候いなまし」と云々。

(「喜びの心があり、早く極楽にいきたいと思っていたら 煩悩具足ではないのではないかとあやしく思うのではないだろうか」と おっしゃいました。)

簡単に言えば、阿弥陀様は「死にたくない」と死ぬことを恐れている人を憐れんで下さるのです。逆に、早く極楽浄土に行きたいと思っている人は、煩悩のない人だから、阿弥陀様の救いの対象にならないのだと、親鸞聖人は考えているのです。
死ぬのが怖いと思うのは当然のことなのです。生き続けたいというのが本能なのです。たとえ、早くお迎えが来てほしいと思っていても、心のどこかに死への恐怖はあるはずです。死に対してまっすぐに向き合って、死を通して生きることの意味を考えていくことが宗教の役割なのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「悪人」とは誰のことか

2013年02月15日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
親鸞聖人の有名な、
「善人なほもつて往生をとぐ いはんや悪人をや」(歎異抄・第三条)
という言葉はあまりにも有名ですが、これを正しく理解している人は少ないです。
「善人ですら、往生できるのに、まして悪人はなおのこと極楽往生できるのです」と親鸞聖人は言うのですが、これを、「犯罪者や、性格の悪い人が救われる」と解してはいけないのです。
親鸞聖人のいう「悪人」とは、自分は悪いことばかりしていて、良いことが行えないと、悔いている人のことで、「善人」とは、自分は決して悪いことをしない、行いの正しい人だと信じてやまない人なのです。
親鸞聖人のいう「善人」は世の中にはたくさんいます。正義を振りかざして、人を傷つけていることに気のつかないのも「善人」です。自分のことは棚に上げて、他人を叩いて喜んでいるのも「善人」なのです。「俺は誰にも迷惑なんかかけていない」と自信をもって言う人も「善人」なのです。
私たちは、生きている限り、悪いことをしています。生きるために、他の動物や植物の命を奪っています。誰かに迷惑をかけないと生きていくことはできません。そのことがわかるのが宗教心であり、「お陰様の心」であり、「すみませんの心」なのです。
「善人」は救われるが、自分を素直にみつめることのできる「悪人」の方が、「善人」よりも優先して救われるというのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「死」は理屈ではない

2013年02月12日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
谷川俊太郎さんの質問箱に



どうして人間は死ぬの?さえちゃんは、死ぬのはいやだよ。



6歳の女の子が、目をうるませながら母親にした質問がありました。



谷川さんの回答は、「お母さんだって死ぬのはイヤだよ。」と言って、さえちゃんをぎゅーと抱きしめて一緒に泣き、そのあとでお茶するというものでした。こういう質問には、アタマだけではなく、ココロとカラダを使って答えなければということでした。

死というものを理屈で考えようとすると、苦しくなります。誰にでも必ずやってくる死というものを、心でとらえることが、残された時間を有意義に過ごすことにもなるのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする