行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

権力者は自らを律することが大事

2014年04月29日 | 禅の心
○袴田さんのことをはじめ、足利事件、四大死刑冤罪事件など、冤罪事件は多いです。

○人間が人を裁くのだから、間違いはあるのかもしれません。

○しかし、間違いだったではすまされないこともあります。

○人の死後に極楽行きか地獄行きかを決める閻魔大王は、お地蔵様の化身なのです。

○閻魔大王は人を裁く前に煮えたぎる解けた鉄を飲み込んで身を苦しめるといいます。

○人を裁くにはそれなりの覚悟が必要だというたとえです。

○裁判官、検察官、警察官などの特別公務員は、間違って無実の人を罪に陥れるようなことが決してあってはなりません。

○それはとても大きな罪になるからです。

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馬鹿になろう

2014年04月25日 | 禅の心
山田恵諦師の言葉です。



利口になろう、賢くなろうと思うんではなくて、愚になることです。力を抜いて、とことん愚かな自分というものを見つめてみる。たとえば泳ぎのできん者は、泳ごう泳ごう、浮き上がろう、浮き上がろうとして体を固くして、ますますアップアップする。だから溺れてしまう。えいままよ、と一息吸い込んで底の底まで沈んでやろうと全身の力を抜いてみる。水の中でもしっかり目を開けて見るくらいの覚悟を決めてしまう。すると人間の体なんてものは、自然に浮くようにできておる

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夕方には白骨になるかもしれない

2014年04月22日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
蓮如上人の白骨の御文章です。



それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)をつらつら観ずるに、凡(おおよ)そはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、幻の如くなる一期なり。
 されば未だ万歳(まんざい)の人身(じんしん)を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫(もとのしずく)・末の露(すえのつゆ)よりも繁しといえり。
 されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわち二(ふたつ)の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属(ろくしん・けんぞく)集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏(あみだぶつ)を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。






人間の無常な人生をよくよく考えると、この世の中でおよそ無常なものは、幻のごとく迎える人生の最期である。いまだかって1万歳も生きたという話を聞かず、一生は早く過ぎるものである。今の世でも百歳まで生きることは難しい。自分が先にか、人が先か。今日かもしれないし明日かもしれない命で、長生きする人、早死にする人は、木のしずく葉のつゆの数よりも多い。
 だから、朝は紅顔の美少年であっても、夕方には白骨になってしまうかもしれない身なのである。無常の風が吹いたら、たちまちのうちにまぶたは閉じ、呼吸も停止して、顔色がむなしく変って赤みを失う。そうなれば家族・親戚が集まって歎き悲しむが、蘇生効果はない。さてすべき事をしなければというわけで、遺体を野外に送り、夜中に火葬をして煙となれば、わずかに白骨のみが残るだけである。これはあわれというよりもおろかなことである。ではどうしたらよいかというと、人間のはかない命は老若の順とは限らないので、誰もが早い時期から死後の生の大事を心にかけ、阿弥陀仏に深くおすがりして、念仏すべきである。




人間は、死ぬ存在であることをいつも考えて生きるべきなのです。それが、充実して人生を送っていくことなのです。人間は死ぬ存在であることを忘れるから人生が薄っぺらなものになってしまうのです。

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猿の子と猫の子

2014年04月18日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
何か危険に襲われたら、猿の子は母猿にしがみつきます。そして母猿は子猿を抱きかかえて逃げます。それに対して猫の子は何もしないで、母猫がとっさに子猫の首をくわえて逃げます。
 猿の場合は自力のたとえで、猫の場合が他力のたとえです。実は自力も他力も仏様に救っていただくことには違いないのです。ただ、自分から仏様にしがみついて救っていただくのが自力で、仏様の方から手をさしのべていただくのが、他力なのです。

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元気な男も灰になる

2014年04月15日 | 禅の心
寒山詩の第50番です

誰家長不死 死事旧来均
始憶八尺漢 俄成一聚塵
黄泉無暁日 青草有時春
行到傷心処 松風愁殺人


誰(た)が家か長(とこし)へに死せざらん 死の事は旧来均し
  始(はじ)め八尺の漢と憶ひしに 俄(には)かに一聚(いっしゅ)の塵と 成る
  黄泉暁日無きも 青草時に春有り
   行きて傷心の処(ところ)に到れば 松風人を愁殺す

永久に死なぬという者があろうか。
死という一事は、昔から変わりなく誰にでも同じく訪れてくるものだ。
はじめは背丈が2メートル以上もある、堂々とした男と思っていたのに
突然、ひとかたまりの骨灰になってしまった。
黄泉の国は真っ暗で、朝日の射すことはないが、墓地には春になると青草が茂るのである墓地に行ってみれば
松風の音が人々を憂えさせるばかりである。


 元気で活躍していたプロレスラーでも野球選手でも死んでしまえば、真っ白な骨の塊になってしまいます。死を正面からみると悲しいことだと思えますが、死を通して人生の意味を考えることができます。人生はやがて死を迎える存在だからこそ意味があるし、輝くのです。

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