行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

仏心

2014年03月28日 | 禅の心
大哉心乎 天之高不可極也 而心乎出天之上 地之厚不可測也 而心乎出地之下 (栄西禅師『興禅護国論』)



大いなる哉 心(しん)や
天の高きは極むべからず、而るに心は天の上に出づ
地の厚きは測るべからず、而るに心は地の下に出づ
日月(にちがつ)の光は踰(こ)ゆべからず、而るに心は日月光明の表に出づ
大千沙界(だいせんしゃかい)は窮むべからず、而るに心は大千沙界の外に出づ」


 ここでいう「心」は、いわゆる感情をもった心ではなく、自分の中のもう一人の自分、自分を自分たらしめている心です。簡単に言えば、仏心とか仏性と呼ばれているものです。栄西禅師は、仏心は時間と空間を超越している久遠の命だと言っているのです。仏心はフロイトの提唱した無意識の世界や、ユングの集団的無意識の概念に似ています。仏心は人間の心の奥底にある無意識の世界の存在なのです。
 人間は悪いことをしても、仏心がいつも見ているのです。




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入れ物がない

2014年03月25日 | 禅の心
入れ物がない両手で受ける

 尾崎放哉の代表的な句です。
一般には、貧しくて、頂き物をしても入れ物がないというようにとられますが、私は、放哉はもっと深い意味のことを言っているのだと思います。
人生は、病気や貧しさなど苦しみに満ちています。受けたくなくても受け取らなければならない苦しみもあります。そのような、逃れることのできない苦しみを受け取りますよという心境です。ありのままを受けいれるのが禅の姿勢なのです。苦しみは逃れようとすれば追いかけてきます。逃れるのではなくありのままを受け入れるのです。放哉の「入れ物がない両手で受ける」は、苦しみでも何でもありのままを受け取るという心境をよんだものなのです。

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道徳はやはり危険なものだ

2014年03月21日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
歎異抄の結語の一節です。
 まことに如来の御恩といふことをばさたなくして、われもひとも、よしあしといふことをのみまふしあへり。聖人のおほせには、善悪のふたつ惣じてもて存知せざるなり。そのゆへは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとをしたらばこそ、あしきをしりたるにてもあらめど、煩惱具足の凡夫、火宅旡常の世界は、よろづのことみなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、たゞ念佛のみぞまことにておはしますとこそ、おほせはさふらひしか。まことに、われもひとも、そらごとをのみまふしあひさふらふなかに、ひとついたましきことのさふらうなり。
 
  親鸞聖人の仰せには、「善悪の二つについて、自分は何も知らぬ。なぜかといえば、如来のおん心に善しと思われるところまで知りぬいてこそ、善を知ったといえるのだ。如来が悪と思われるところまで徹底して知ったとき、悪を知ったと言えるのである。けれども、わたしたちは煩悩にまみれた凡夫であり、この世界は無常の火宅であって、すべてがうそいつわり、何一つ無い。ただその中で念仏だけが真実である」といわれたのである。
 
 ここで補足しておくと、親鸞聖人は、ものごとの善悪などわからないと言っているのではありません。善いことはよい、悪いことは悪いのです。それが仏教思想の根幹だからです。善悪の判断を時代とともに人間が勝手に決めてしまうのです。戦争では人殺しをすることは殊勝なことでしたが、宗教的には許されることではありません。道徳は人間の勝手な善悪の判断であって、危険なものなのです。そのことを親鸞聖人は言いたかったのです。



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そつ啄同時

2014年03月18日 | 禅の心
啐啄同時

 卵の中のヒナ鳥が卵の殻を破って出てこようとするときに、母鳥が外から嘴で卵の殻を軽くつついてやります。しかし、卵の殻を破るのは母鳥ではなくあくまでもヒナ鳥なのです。人間をはじめ、哺乳類が生まれてくるときも同じです。生まれてくる子供の生命力によって生まれてくるのであって、母親は必要な栄養を供給するだけなのです。
このように親は子供が生まれてくる手助けをしてやるに過ぎず、子供の生まれてこようとする力が大事なのです。啐啄同時は親鳥がヒナを助けてやるのではなく、ヒナの生命力を支援してやっていることなのです。
 これは教育全般についても言えることです。先生が教え込むのではなく、子供たちの勉強の支援をするという考え方が大事なのです。啐啄同時は禅語ですが、親鳥とヒナ鳥の関係を師匠と弟子の関係になぞらえたものです。
 親と子、先生と生徒の絶妙なタイミングが大きなものを生み出す力となるのです。



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酒井雄哉師が千日回峰行を語る

2014年03月14日 | 最澄・天台宗・比叡山
 行にしても、何のためにやっているか、自分でもわかんないだよ。とにかくやっているだけのことだな。ほかの人たちは、それ相応の理由があって坊さんになったり、子供のころから仏さんの生活をしていたんだろうがなあ。ぼくなんかは、気が付いたらいい年になっていて、坊さんになっちゃったてなもんかな。

  七年かけて満行する千日回峰行にしても、つらいぞ、命を落とすかもしれない、それでもやるか、っていわれてやったの。頼んでやらせてもらっただけに苦しいとかいえないのよ。
  行き道は いずこの里の 土まんじゅう
回峰行の師で亡くなった箱崎文応師が詠んでくれた句だよ。お師匠さんから見たら、ひ弱い、頼りない小僧に見えたんだろう。それで、このぐらいのことをいうとかないと、もたつくんじゃないかと、こんな句を詠んでくれたんかもしれないね。

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