行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

大森曹玄老師が不殺生を語る

2016年12月30日 | 禅の心
○戒律といいますと、いろいろな考え方があって、ミャンマーあたりの人々は
日本の僧はけしからん。酒を飲んだり、肉を食ったり、女性に接近したりして戒律を乱している。」と批難します。
しかし、われわれ禅門の戒律は「達磨の一心戒」といういわゆる仏戒をもっています。
だから小乗の仏戒とは違うわけですよ。
形式上は生ぬるいようだけど、その精神においてはむしろ厳しい。
○たとえば不殺生戒という戒律があります。
これは、原始仏教、小乗仏教では文字通り生き物を殺さないということです。
その点からすれば、「日本の僧は戒律を守っていない」というミャンマーの人々の指摘は正しいと思います。
しかし、私ども大乗の立場からいうと、ミャンマーやタイ国で守られている戒律はどうかと思うような点が多い。
なにしろ、畑を耕すと木の根をったり、中にいるミミズを殺したりして不殺生戒を犯すから、自分はやらない。
しかし、百姓がやることにはいっこうにかまわない。それで他人がつくったものを托鉢してきて食べるというのでしょう。
いってみれば、それはピンハネして食っているようなものです。
その意味からすれば、向こうの僧の方がむしろずるいですよ。
○われわれ大乗の戒律は、「生き物を無闇に殺してはならない」ということはもちろんですが、それ以上に自分の仏心を断つことを不殺生戒としています。
ですから、一瞬でも仏心を失ったら、不殺生戒を犯したことになる。
一秒間もそれを失うことはできないんです。

○それから、生き物を殺す、殺さないということをいったところで、やはり
人間が生きるということ自体が、他の生き物を殺すという基盤の上に成り立っているのであって、それを仮に原罪というなら、誰もその原罪を負って生きていますね。
あるいは、肉食をしないことで戒律を守っているというけれども、これも中途半端だと私は思います。
というのは、じゃあニワトリを食うのと大根を食うこととどう違うのか。大根に生命がないのかと言えばやはりこれも生命があるものでしょう。

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山本秀順師が山を語る

2016年12月27日 | 空海 真言宗 金剛峯寺
○まったく自然を征服するなんて、とんでもないことです。
私は山寺の和尚ですから山が好きで、青年の頃この高尾山から見える山は全部歩こうと思って、ずいぶん歩き回ったものです。
ここの住職になる前は、信州松本の寺におりましたので、北アルプスの山々にもずいぶん登りましてね。
本当に山に登るのが好きな私ですが、いつも聞くたびに嫌だなと思うのは「山を征服する」という言葉です。
山の高さが幾千メートルあろうとも、頂上に登ったことがなぜ、その山を征服したことになるんでしょう。
まるでアリが人間の足下から頭の上まではいあがって、「われ人間を征服せり」と言うのと同じようなものじゃないですか。
そんなのは本当の登山の精神ではありませんよ。
山歩きの好きな本物のアルピニストは、山に対して非常に敬虔です。
むしろ山を畏れて、山の自然を損なう様ないたずらをしちゃあいけない、という慎みをもっている。
それなのに生半可な人は、「あの山を征服するんだ」なんていう気持ちで出かけていく。
○私たち宗教者にとっては、それぞれ宗門の霊山があって、そこへ登るのが一つの修行になっております。
私どもの方では奈良県の大峰山や木曽の御嶽山が霊山になっており、私もずいぶん登りました。
今年もまた大峰山に登りますが、そういう山に登るときには、みんな白装束に身を包んで、みんな一つの決まった言葉を唱えながら登って行くんです。
20人くらいの団体で登って行くんですが、歩きながら先達が「六根清浄」と唱えますと、あとに続いている者がみんなで「六根清浄」と繰り返す。
また先達が「お山は晴天」というと、みんなで「お山は晴天」、
そして先達が「引き上げたまえ」というと、みんなで「引き上げたまえ」と繰り返しながら一歩一歩登っていく、
それも足の弱い者に歩調を合わせて登っていくんです。
○この「六根清浄」というのは単なるかけ声ではなくて、
身体の五官と心が清らかになるようにという願いの言葉で、
山に登ることによって身も心も清めようというわけです。
私はこの唱え文句が好きなんですが、特に「引き上げたまえ」というのがいいですね。
○いかにも山の神様に引き上げてもらうという感じでしょう。

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松原泰道先生の言葉

2016年12月23日 | 仏の心
他から気に入らない叱責や忠告をされたとします。
そのときにかっとして怒らずに、
「深く、そっと深呼吸をして」
ワンクッションの間(ま)を置きましょう。
そして、いま自分に投げかけられた気に食わぬ言葉を、
今度は自分の声として心中で自分に言い聞かせてみるのです。
すると、気に食わぬ言葉でも思い当たることがあるもので、
かんしゃくを起こさずにすみます。
私たちは自分を愛するどころか、
自分の憎む相手に対するように、
自分に接しています。
かっとするのは本能ではなくわがままで、
自分を最も粗末にしているのです。
本当に自分を愛するなら、
自分を正しくリードしましょう。

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自分を大切にするということ

2016年12月20日 | 仏の心
○自分を大切にするということは、自分勝手に生きることではないんじゃね。

○自分を大切にするから他人も大切にできる。

○自分勝手に生きとる人は他人が大切にできん。

○これを佛の言葉を借りれば、自我ではなく自己ということかの。

○自我は自分の勝手な見方や考え方じゃ。

○自我はいうなればワガママじゃ。

○自己は本来の自分じゃ。

○自尊感情を伸ばす教育を自我を伸ばす教育と勘違いしとる教育者がいるから困ったものじゃ。

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自分のこととして考える

2016年12月16日 | 仏の心
○子どものいじめに心が痛むのう。

○くさいと言っていじめる。

○人にくさいというヤツは、自分もいろいろなにおいを出しておることがわかっておらんのかの。

○自分のにおいは自分には気がつかないことがわからんのかの。

○大人だって同じじゃ。

○自分のことは棚にあげて他人を批難する人もおる。

○人に言う前に自分はどうなのかということを考えてみないと いかんわな。

○閻魔大王は、死者を裁く前に融けた鉄を飲み込んで、自分の身を焼いてしまうそうじゃ。

○人を批判したり、裁くことはそれだけ責任重大で容易なことではないという例えなんじゃ。

○簡単に人を裁かないことじゃ。

○何でも自分のこととして考えんとの

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