○戒律といいますと、いろいろな考え方があって、ミャンマーあたりの人々は
日本の僧はけしからん。酒を飲んだり、肉を食ったり、女性に接近したりして戒律を乱している。」と批難します。
しかし、われわれ禅門の戒律は「達磨の一心戒」といういわゆる仏戒をもっています。
だから小乗の仏戒とは違うわけですよ。
形式上は生ぬるいようだけど、その精神においてはむしろ厳しい。
○たとえば不殺生戒という戒律があります。
これは、原始仏教、小乗仏教では文字通り生き物を殺さないということです。
その点からすれば、「日本の僧は戒律を守っていない」というミャンマーの人々の指摘は正しいと思います。
しかし、私ども大乗の立場からいうと、ミャンマーやタイ国で守られている戒律はどうかと思うような点が多い。
なにしろ、畑を耕すと木の根をったり、中にいるミミズを殺したりして不殺生戒を犯すから、自分はやらない。
しかし、百姓がやることにはいっこうにかまわない。それで他人がつくったものを托鉢してきて食べるというのでしょう。
いってみれば、それはピンハネして食っているようなものです。
その意味からすれば、向こうの僧の方がむしろずるいですよ。
○われわれ大乗の戒律は、「生き物を無闇に殺してはならない」ということはもちろんですが、それ以上に自分の仏心を断つことを不殺生戒としています。
ですから、一瞬でも仏心を失ったら、不殺生戒を犯したことになる。
一秒間もそれを失うことはできないんです。
○それから、生き物を殺す、殺さないということをいったところで、やはり
人間が生きるということ自体が、他の生き物を殺すという基盤の上に成り立っているのであって、それを仮に原罪というなら、誰もその原罪を負って生きていますね。
あるいは、肉食をしないことで戒律を守っているというけれども、これも中途半端だと私は思います。
というのは、じゃあニワトリを食うのと大根を食うこととどう違うのか。大根に生命がないのかと言えばやはりこれも生命があるものでしょう。
日本の僧はけしからん。酒を飲んだり、肉を食ったり、女性に接近したりして戒律を乱している。」と批難します。
しかし、われわれ禅門の戒律は「達磨の一心戒」といういわゆる仏戒をもっています。
だから小乗の仏戒とは違うわけですよ。
形式上は生ぬるいようだけど、その精神においてはむしろ厳しい。
○たとえば不殺生戒という戒律があります。
これは、原始仏教、小乗仏教では文字通り生き物を殺さないということです。
その点からすれば、「日本の僧は戒律を守っていない」というミャンマーの人々の指摘は正しいと思います。
しかし、私ども大乗の立場からいうと、ミャンマーやタイ国で守られている戒律はどうかと思うような点が多い。
なにしろ、畑を耕すと木の根をったり、中にいるミミズを殺したりして不殺生戒を犯すから、自分はやらない。
しかし、百姓がやることにはいっこうにかまわない。それで他人がつくったものを托鉢してきて食べるというのでしょう。
いってみれば、それはピンハネして食っているようなものです。
その意味からすれば、向こうの僧の方がむしろずるいですよ。
○われわれ大乗の戒律は、「生き物を無闇に殺してはならない」ということはもちろんですが、それ以上に自分の仏心を断つことを不殺生戒としています。
ですから、一瞬でも仏心を失ったら、不殺生戒を犯したことになる。
一秒間もそれを失うことはできないんです。
○それから、生き物を殺す、殺さないということをいったところで、やはり
人間が生きるということ自体が、他の生き物を殺すという基盤の上に成り立っているのであって、それを仮に原罪というなら、誰もその原罪を負って生きていますね。
あるいは、肉食をしないことで戒律を守っているというけれども、これも中途半端だと私は思います。
というのは、じゃあニワトリを食うのと大根を食うこととどう違うのか。大根に生命がないのかと言えばやはりこれも生命があるものでしょう。