行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

ノボセを下げる

2020年06月16日 | 禅の心
「狂信」と「正信」はどちらも「我を忘れる」ことは共通していますが、「狂信」は「ノボセあがって」いるのです。(内山興正老師の言葉より)「ノボセを下げる」ことが念仏であり坐禅なのです。

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関牧翁老師

2020年06月12日 | 禅の心
天龍寺の関係者には個性的な方が多いですが、関牧翁老師もその一人です。そのお話は飄々としていて、思わず笑わずにいられないところがあります。若い頃はなかなかのハンサム(今ならイケメンか)です。
老師は慶応大を中退して武者小路実篤の《新しき村》に入村しています。新しき村は語弊があるかもしれませんが、「社会主義的な理想郷」といった感じで、平和な世界を掲げていました。(武者小路実篤はやがて戦争を支持するかのような発言をするのですが)宮沢賢治の《羅須地人協会》のような農業を中心とする理想郷だと言ってもいいかもしれません。新しき村は「社会主義的」ですが、完全に私有財産を否定していたわけではありません。
関牧翁老師は平易なお話の中に峻厳な禅境をもった方でした。
師匠は兵庫県浜坂出身の関精拙老師です。

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福は内、鬼も内

2020年06月09日 | 禅の心
中学校の理科で習う《酸化還元反応》は
「酸化と還元はセットで起こる」
ということが重要なところです。
例えば鉄が錆びるというのは、酸化と言われていますが、その時必ず何かが還元されているのです。(多くの場合、酸素が還元されています。)
酸化と還元が単独で起こらないのと同じく、苦楽は一つであって単独ではおこらないというのが東洋的な考え方です。
働くことは《苦》ですが、収入という《楽》がついてきます。
美味しいものを食べたり、楽しいことをすれば《楽》、支払いという《苦》がついてきます。
病気で死にそうになっても、死にそうになったことによる幸福感(言葉では説明できませんが)が得られることがあります。
何かの経典にある家に吉祥天(福の神)がやってくる話がありました。そこの家の人が喜んだのもつかの間、一緒に貧乏神も来ているのです。吉祥天が言うには
「これはアタシの妹よ、嫌なら一緒に帰るわよ」
というわけです。
絶対的な苦や楽はあるのかもしれませんが、多くの場合、絶望的な中の光明に気がつかないのかもしれません。子育てなどまさに苦と楽が一体になったものだと痛感しています。

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不立文字

2020年06月05日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
「上手に語れる経験なぞは、経験でもなんでもない。
はっきりと語れる自己などは、自己でもなんでもない。」(小林秀雄)言葉で表せないものを音楽や美術で表すのかもしれませんが、心の一番底にある光輝くものは芸術でも表せません。

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仏の中の地獄

2020年06月02日 | 最澄・天台宗・比叡山
若い頃、ヤンチャだった先生がヤンチャな生徒の気持ちがわかり、救うことができるように、仏にも地獄を持っているから地獄に落ちた(る)人を救うことができるというのが天台の《性具説》です。

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